01
私は自分の耳を疑った。
思わず聞き返してしまったが、聞き返すころには言葉の意味がリンパ液を巡っており、二度目の台詞こそが鼓膜をすり抜けた。
「こないだ風邪をひいたから、クラウスが僕の咳払いに敏感になっちゃってね。半休をくれた」
この間、と言うには少し時間が経っているような気もするが、余程に意外な出来事だったのだろう。私もちらりと、防ぎようのない風邪菌がヘルサレムズ・ロットに蔓延したのではと思わなくもなかった。スティーブンとずっと共にいるクラウスさんには、より強い驚きがあったに違いない。
それで、と彼は言った。
「君も今日は……何時だったかな。昼過ぎにはバイトが終わるって言ってただろ?」
「うん。14時」
「もし良ければ、どこかでお茶でもしよう」
この人の休日と提案はいつでも唐突だ。私は彼に心を振り回され、遠心力でバターになってしまいそうである。バターがどうやってつくられるのかは、本当は知らないが。
ちょうどぴったりお互いの午後の予定が空くなんて、どれほどの確率だろう。嬉しさで、ポッと頬が熱くなった。何度も縦に首を振る。出勤間際のスティーブンは、そんな私の忙しない動きを宥めるように手を動かし、こちらの髪をひと撫でしてから出て行った。びっくりしてひきつった声で投げかけた「いってらっしゃい」への返事のあと、扉が閉まって、私はひとり残される。
撫でられたところを手のひらで押さえ、近くの壁に寄りかかる。彼は朝からとてつもないやり方で私の心のトキメキスイッチを破壊していく。尾を振りつきまとう動物にエサを投げて気を逸らさせるのと同じ意味だとは思うのだが、理解と感情は方向性が違うのだ。私の体内に音楽バンドがあったら、この時点で楽器を捨てて解散しているはずである。
出かける準備はぎこちなかったが、普段通りの恰好をしようとしてハッと気づいた。どのような流れで合流するのだろうか。
家に戻って顔を合わせ、並んで(……並ばせていただいて!)出かけるのが妥当だが、彼が不意打ちでバイト先まで迎えに来てくれた(……くださった!)事例もいくつかある。すべてはメールの着信を見逃す私が悪いのだが、この場合はどちらのパターンなのか。
お仕事に出かけた彼にこんなくだらない疑問をぶつけるわけにもゆかず、服装に迷う指先を1着のワンピースに触れさせてから方向転換し、持ち服の中では比較的清楚なブラウスとフレアスカートを選んだ。これならば、家に戻っても迎えに来てもらえても(……いただけても……)違和感はない。こういうのは組み合わせだ。普段使いできるものでも、組み合わせを工夫すれば印象は大きく変わる。
かなり浮かれた自分を押し殺し、バイトに臨む。スタッフにはデートだとすぐにバレた。急にヘルプのシフトに入ってもらおうかな、などという悪質な冗談が飛び交い、私は短く悲鳴を上げた。おじゃんになったりしたら恨んでも恨みきれない。
幸いにして、このバイト先は時間管理にはそれなりに真面目だったため、私は14時きっかりにタイムカードを切ることができた。
細心の注意を払って確認を繰り返したスマホが短く震える。メールを開き、内容を読んでホッとした。一旦、家に戻るそうだ。服装はともかくメイク直しをしたかった私は、道を歩きながらぼんやり感心する。もしかすると、これも彼の経験に基づく気配りなのかもしれない。人前ではできるだけきちんとしていたいと考える人が大半だ。ましてや好きな人とお茶をするのに、バイト帰りの姿では私の気が引けてしまうのではと気を遣ってくれたのだろう。私の、いや、女性の気持ちを察する男。恐ろしすぎて声も出せない。私の元カレに、そんな人はいなかった。
スティーブンはまだ帰宅しておらず、私は気兼ねなくお化粧をやり直した。どんな雰囲気にしようか悩み、結局、顔面の武装は勝負とは程遠いシンプルなナチュラルメイクにおさまった。勝負に出たい気持ちは山々なのだけど、出てどうするのだ。男女の駆け引きに用いられるような、芸術的な美貌を引き立てるそれを見慣れているであろうイケメンに、顔面さえなければ最高の女が何をもって挑んだとて心を打ち震わせることはできまい。
もちろん、卑屈な諦念から自棄っぱちでテキトーなお化粧をしたりはしない。私だって可愛くありたい。彼に相応しく、などという幻想極まりない無謀な高望みはせずとも、前準備ができるときはいつだって、20年の人生で手に入れた技術の粋を集めている。もっとも詐欺メイクの類に関しては、自分ですら欺ける高威力な詐欺であるので、魔法が解けたあとのことを考えると手が出せないのだが。
アクセサリーはもう、つけてある。
手首にはブレスレットが。ひょんな殺人未遂事件によって失われたこれは、いわゆる2代目だ。細いチェーンに、目立たないチャームが揺れる。
手には、指輪が。謎まみれの装飾品だ。くれた狙いや理由がわからない。問いかけても答えをぼかされ煙に巻かれる。楽に答えを得ようなんておこがましいと?己の頭で真実を導き出さなければならないのかもしれない。不可能なのではなかろうか。自分で言うのもおかしいが、とても私に似合っているのが恐怖をあおる。彼の見立ては狂わない。
これ以上は飾り立てなくてもいいだろう。そもそも、アクセサリーもそんなに持ってはいないし。
一段落ついたところで、私が感情を傾けてやまないイケメンが帰宅した。120%の笑顔で迎えてみたが、目立った反応はなかった。私の笑顔がダメなのか、単に扱いが雑なのか、判断しかねた。
「お昼食べた?なにか飲む?」
「軽く食べた。水をもらってもいいかい?」
「うん」
ふたりぶんのお水を持って、片方をテーブルに置く。立ったまま飲んでしまってから、女子としての丁寧さの欠如を悔やんだ。見られていなかったと信じたい。もう今さらかな?いや、自覚と修正の意志が大切なのだ。
彼もグラスに口をつけ、お水を飲み、私を見た。
「どこか行きたいところは?」
決めていなかったどころか考えてすらいなかったが、言えない。「えーと」と時間を稼ぎつつ、自分のお腹と会議を開く。
おやつの時間に差し掛かる。スティーブンも、軽くだけど昼食はとったと言った。私は休憩時間が短かったので食べはぐれたが、朝に重めのピザトーストを突っ込んだので問題ない。
甘いものが食べたいかもしれない。
甘いもの、甘いもの、と思考を巡らせ、バイト先で回し読みした雑誌のスイーツ特集を思い出す。初めの前置きから答えを出すまでは、電波の届かない地下でのインターネット接続よりも遅かった。無計画がバレバレだ。
しかし、ぴんと来た。
「えっと、前に連れて行ってくれた公園の……、あっ、憶えてる?」
「うん」
頷かれ、なんだかちょっと嬉しかった。私は単純だ。もっと笑顔になった気がする。
「そこの近くにあるカフェのケーキがすごいおいしいって雑誌に書いてあってね、知り合いも行ったみたいなんだけど、感動したって言ってたから食べてみたいんです。行っても、……いただいてもいいですか?」
「いいよ。詳しい場所は知ってるかい?」
「うん」
意外にも、私は道に迷わないタイプなのである。行く道は地図がないとよくわからず、その地図は覚えきれなくて手に持たねばならないが、帰りはすいすいと戻れる。検索して出てきた地図を見せると、「ここか」とすべてを呑み込まれたが、彼はどこなら迷うのだろう。
「覚えちゃえるの?」
「あの辺は通りが大きいし、場所がわかればだいたい着く」
「クーカンハアクノーリョク?」
「慣れ」
ザップさんも東西南北で場所を特定しようとしてきたし、秘密組織はそういう感じなのか。生まれつきの素質でないなら、私にも望みはありそうだ。生まれつきの素質でありそうな気もひしひしとするが、方向音痴ではお仕事にならない、とみんな訓練したのだと思いたい。どういった訓練なのだろう。過酷そうだ。
「あ、ねえ、あの、甘いもの、やだ?」
あちらの日本では『スイーツ男子』なる存在も大きく取り上げられていたが、あれは少数派かもしれない。そうっぽい。慌てて言い重ねる。
「スティーブンと一緒にいられるなら、どこでも、何してても幸せだから、苦手だったら苦手って言って!すごいトクベツ行きたくて、行かなきゃ死んじゃう、みたいなのじゃないから!」
「僕は逆にそんな死ぬほど行きたがる店のほうが気になってついて行くよ」
「どんなお店なんだろうね、それって」
行かなきゃリアルに死んでしまう、デンジャラスな香りがする。
「苦手じゃないから、そこにしよう」
「ありがとう!」
優しい嘘だったら申し訳ないな、と思う。
隠しきれず、表情がかすかに変わったのか、スティーブンが私を笑った。
「嫌だったら言う」
「そうかなあ。いっつも言わないよ」
「じゃあ、嫌じゃないんだろうな」
さらりとしたイケメン発言である。カッコいい答え方だったから頷いた。
どちらともなく動き出し、お水を飲み終わって空になったグラスを洗って、私たちは外に出た。
私のペースに合わせて歩いてくれるプロフェッショナルとの距離を物理的に縮め、ハプニング的な接触を試みられないかと浅はかな欲望を抱いたが、よく考えれば、並んで歩けるだけでとっても楽しい。何回か同じようにしていても、いつまで経っても慣れず懲りず学ばず胸が高鳴る。自律神経をコントロールするための機構をどこかに忘れてきたのかもしれない。
「ね、ね、これってデートっぽくない?」
「デートだよ」
「じゃあ、じゃあ、手……」
ここで、ウッ、と言葉を切った。
頼めば、彼はしてくれるだろう。それが彼の優しさである。
だが。
彼のお仕事に関する女性との(……男性もあるのかな……?)お付き合いは、両者ともに事情や距離感を理解済みのものであるそうだが、それでももしも、この色男が誰か得体の知れぬポッと出のノーテンキとお手手をつないで歩くところを見かけたりしたら、気分を害するかもしれない。私ならいじける。そもそも私は本来ならば選ばれないだろうけど、そこはそれとして。
こういうのは、頭で理解していても心がついていかないものだ。お仕事の助けになる人が多少なりともショックを受け、苛立ったりしたら、これはたいへんな迷惑になる。
スティーブンは私が要求したかったことなどすべてお見通しで、私の側の片手をポケットから出した。
「『手』?」
「……な、なんでもない。スティーブンは今日もカッコいいです!」
顔を背けて、半歩だけ横にずれる。そんな私を追った手はこちらの腕をつかまえ、そのままブラウス越しに末端に向けて線を辿り、私の手のひらをやわらかく握った。
私は往来でめまいを起こして座り込むかと思った。
「あわあ、ああの、これは事故で!」
誰に向けたか定かでない言い訳を口走る。
「つなぎたいのかと思ったら、違ったのか。悪い悪い」
「ま、待って!待って待って!」
離れかけた手を握りしめ、体温を逃すまいとする私は正直だ。口ではなんとでも言えるが、身体は嘘をつけない。
「つなぎたい!つなぎたいです!すごいつなぎたい!でも、これ以上迷惑にはなりたくないので、30秒!30、……39秒だけ!」
「どうせなら40秒にすりゃいいのに」
「う……」
1秒は大きいが、キリがいいと逆になぜか損な気がしてしまう。そんなことはないのに。実際に1秒を逃して初めて、損ではなかったと気づくのだ。
「あ!あの信号を渡るまで!」
ちょうど良い位置にちょうど良いものを見つけた。指差すと、彼は短く了承した。
のんびり足を動かし、厚顔にも、あの区切りまでがもっと遠ければいいのにな、と先ほどまでの謙虚っぽかった思考とは正反対の願いを手のひらに宿す。隣の彼が私を見下ろした。
「君は心配しなくていいことを心配して、心配してほしいことを心配しない」
私が思い至れる危惧なんて、彼が最初から行動の中に織り込み、対処法まで準備したものなのだろう。勝手にテンパる私は、色んな意味で滑稽な気がする。
しかし、私は呪いが解けてもなお別種のお荷物として健在するのだから、少しでも負担にならないようにしたいと思うのは、間違っていないはずだ。彼が『心配しなくていい』と言うのならば、事実、そうなのだろうけど。
「私に心配してほしいことってなに? スティーブンがイケメンすぎること?それとも、スティーブンが過労で倒れないかな、とか?」
「過労じゃないから、そこはいい」
「イケメンすぎるほうは否定しないんだね!?」
「君の主観を否定してもな」
どんなに首を振られても私はスティーブンが最高に好みなわけだし、イケメンすぎて心臓が痛いのも変わらない。心配してくれと言われたとしても、どうしようもない。
「たとえばどんなことを心配したらいいの?」
ここで彼は、自分で自分に躓いた私が転ばないようにした。
「僕を見すぎて足元を留守にしないように、とか」
「すいません」
真意とは別の答えだったようにも感じたが、つながれた手の感覚で頭が痺れていて、間違えたのだろう。
離れた半歩をこっそり詰め、もうすぐ終わってしまう手つなぎタイムを強く惜しむ。期限は私が言い出したのに、ああ言われると選択を誤った後悔しかない。
執念が通じたか、信号は停止を促した。無意識に、手に力がこもる。
スティーブンが、角を曲がる、右の道に顔を向けた。
「ところで、この信号を渡らなくても、あっちから行ける」
「え!そうなの!?う……、あの……、曲がっていいですか!?」
「君の決意はガタガタだな」
「ご、ごめんなさい」
目先の利益に目がくらみすぎて盲目になってしまった。
彼の声に非難の響きはなく、それには安心するが、非難と呆れは別だ。愛想を尽かされそうかどうか、確かめたくなくても真実から目はそらせない。どう訊ねれば心の切り傷が浅めで済むのか。
「呆れた?」
「笑った」
「見逃した!」
切り傷はつかなかった。よかった。笑われたというのもどうかとは思うが。
つながれた手は導火線のようだ。感情が火になって胸に伝わり、動悸が激しくなる。生まれてから死ぬまでに働く心臓の鼓動の回数は決まっているという話もある。私は早死にするかもしれない。
でも、今はダメだ。
なぜなら今はスティーブンとデートをする真っ最中であり、これからケーキを食べるからである。
いや、今でなければ早死にしてもいいわけでもない。思い直した。
白く塗られた扉を引いて開けると(……開けていただいた)、ケーキの並んだショーケースに目を奪われる。薄いオレンジ色の壁紙と、吊り下がるチューリップのような形のランプもお洒落だ。
調度品はキチッとしたもので、可愛さ一辺倒ではない。女性向けではあるが、シンプルなつくりは男性客にも受け入れられるだろう。
案内されたテーブルにある、オシャレな冊子にケーキの名前が並ぶ。ふたり連れだとメニュー本は1冊しか渡されないようだ。同じ本を一緒に覗き込む一体感と席を寄せる距離の近さが計算されているのだろうか。願っても無い。
ヨコシマさは、ケーキのイラストを見て吹き飛んだ。英単語は読解に一拍必要だが、イラストは視覚に訴える。
「うわっすごいおいしそう!どうしよっかな。決められるかな」
「僕のも君が決めていいよ。君のほうが詳しそうだ」
絶対に、そんなことはない。
まあ、決めていいなら、遠慮なく決めるけど。
彼はなにが好きなのかは、さり気なく訊こうとして失敗した。甘党か辛党かもわからない。とりあえず無難に、甘党でない人にも食べやすそうなものを食べてもらうことにする。異界の果物の名前は難しく、読み方と味の特徴はスティーブンに教わった。
私はイチオシのマークに導かれ、季節のタルトと紅茶をオーダーした。メニューが下げられる。
「あっちの日本でも、たまにこういうカフェに来たんだ。学校の友だちが詳しくて、連れてってくれて。異界のものだと、味が全然違うのかな?」
「劇的には変わらないと思うよ。僕がたまに君に買ってくやつも異界産だ」
「あれもおいしいよね!こないだのミルクレープみたいなのも、びっくりしたけど好き」
ミルクレープに似ていたが明らかに違う物体だったケーキは、舌の上でアイスクリームのようにとろけておいしかった。
「……ミルクレープより、スティーブンのほうが好きだけど!」
「いつもに増して喜びづらいなあ」
「私はスティーブンに『ミルクレープより君が好きだよ』って言われたらすっごい嬉しいのに」
「君は僕に対してはめちゃくちゃハードルが低くなるよな」
「わかってるなら飛び越えて?」
地面スレスレのハードルは、彼に小突かれて役目を果たせず倒れるのみだ。普段から優しくサービスを提供していただいているのでこれ以上は高望みが極まるとわかってはいるが、甘い汁を吸ってしまった私は、どこまでも貪欲だ。
「お待たせいたしました」
店員さんが、ティーセットとケーキを持って現れる。
油絵になって名画の1枚に紛れても違和感がないくらい綺麗なケーキだ。形も大きさもきらめきも、雑誌に載るだけある。
矯めつ眇めつ眺め、そのうちに視線は引き寄せられるように色男に向いた。彼とケーキ。さっさとコーヒーを飲んでいるが、彼はこれからケーキを食べる。誰が見たって、そうでしかない。なぜだろう、すごいドキドキした。
刮目する私は無視された。いつものことだと思われたに違いない。
いただきます、とフォークをタルトに刺す。ひと口入れて、噛んで、嚥下し、紅茶を飲む。
「おいしい!えっ、おいしい!」
「結構食べやすいな」
意外がっているのではないのだが、なぜ想像以上においしいものと出会ったとき、人は己の舌と世界を疑ってしまうのか。そしてやはりこのイケメンはケーキがそれほど好きではないのでは?クラウスさんとティータイムを過ごすひと時も(……あるのかは知らない)、ビスケットひとつで1時間くらい場をもたせていそうな気がしてきた。真実のほどはわからないけど、胸の中でスティーブンに謝った。
「このフルーツって……」
彼が教えてくれた名前を復唱する。これはおいしいものだ。今度見かけたら、怖がらずに食べてみよう。
「すごいおいしい!来てよかった!付き合ってくれ、……くださいましてありがとう、スティーブン」
「僕も、来て良かったよ。君の幸せそうな顔が見られた」
「あざとい!ときめく!もうちょっとお願いします!」
「こうして君とふたりで時間を過ごせるなんて、僕はとても幸せ者だ。君に夢中な僕の胸には、君の声や、君の笑顔ばかりが焼きついて、つい、ケーキを忘れてしまいそうになる」
「ふぁあー!ありがとうございます!」
タルトの味がわからなくなるほどの高威力。この瞬間、素敵なカフェの記憶が目の前の男に塗り替えられた。これから先、ケーキを見た私は、本日もあざとすぎた彼のサービスを思い出すだろう。そういえば、過去にもこのような手口に引っかかったのだった。進歩のない自分に哀れみを抱く。
私の頬は赤いはずだ。耳まで熱い。食器を置き、両手で顔を隠した。
「ね、これ、サービスレベルどれくらい?」
「1.5」
「5点満点?」
「100点満点」
「私のレベル低っ!!」
私はなんてチョロいんだ。100点満点のサービスはどうなってしまうんだ。誰が受けるのか。クラウスさんか、レオか、はたまたどこかの、とんでもなくビッグな情報を持つ美女か。ホントに、どうなってしまうんだ。スティーブンがこちらを弄ぶためにテキトーな数字を言った可能性もあるが、リアルにレベル1.5だったとすると、恐怖で小刻みに震えるしかない。
「レベル100のサービスは誰にするの?」
「うーん、誰だろうな」
手を下ろして、身を乗り出す。
「やっぱ、クラウスさん?」
「クラウスへの言葉や態度は、わざと修飾しようとしなくても自然と出て来るんだ」
不思議だよな、とスティーブンが言った。不思議なのは私も同じだ。昔馴染み(……なの?)とはそういうものなのか。『サービス』なんぞのくくりに入れることがまず間違いだった、と。クラウスさんは別格である。
さくり、とタルトを食べる。
「じゃあ、レオ?」
「彼にとっての『100』はできないけど、別方向からならやってやれるかなあ」
「彼にとって、って?」
「あの少年が求めるものと君が求めるものは違うだろ」
紅茶を飲み、たとえば私は、と左手を見る。私はスティーブンからひょいと指輪をもらえてすごい嬉しかったけど、レオは別に、スティーブンから指輪をもらっても嬉しくないだろう。そういう話だと認識した。レオが指輪を喜ぶか喜ばないか、ホントのところはわからないので推測だ。
「ねえ、私への100点満点って、どんな感じなの?」
彼は、コーヒーで甘みを中和した。
「君は喜んでた」
へー、と首を傾げて、ついで立ち上がりかけた。
「やったの!?」
「やったよ」
「い、いつ?」
「それなりに前」
「私、気づいてた?」
「気づいてなかった」
「そ、そうだよね、気づいてたら憶えてるもんね」
ぐるぐると目を回し、弾かれたように顔を上げる。
「パパのとき!?」
「うん」
「あれが……!!」
確かに私は喜んでいた。浮かれまくっていた。思い返して落ち込むほどに愚かだった。では今ならば引っかからないかと問われると明確には否定できないのだが。アホさは治っていない。治る兆しも見えない。
あれが満点のサービスか。
今は1.5。
価値が猛烈に落ちている。
どう言えば感情を表せるか、タルトを切り崩して考えていると、デキるサービスマンはお代わり自由なホットコーヒーを追加してもらってから言った。
「今は1.5も必要ない」
「トドメを刺さないで!」
どれだけダメなのか、聞きたくない。
鬱々と、ポットから紅茶を注ぐ。渋くなっていたので角砂糖を落とした。
「君はもっと冷静になれるといいな」
「追い討ちのダメ出し!?」
タルトの甘さは落ち込む心を引き上げてくれない。
サービスの格。レベルが低い。すごい低い。1.5なんて、目と鼻の先に0がある。0だとサービスではないから、1.5だって限りなく。
サービスではないのならそれはいったいなんだろう。
到達できた場所の正誤はともかく、パッとすごいことを考えてしまった。
自意識過剰で自分勝手な妄想か。そうであろうとも。そうでないとなると、私はいよいよ胸に恋の栓が詰まって息が止まる。
調子のいい恋の奴隷は、サービスレベル1.5の円滑な社交辞令を受けたときよりもずっと動揺して頬を赤らめた。愚かだ。愚か極まる愚かものだ。
「わ、私、顔赤い?」
「赤い」
「だ、だよね。どうしよう、勝手にときめいちゃった。私あなたのことすごい好き」
「僕もだよ」
「ううう、すみません、0でありますように……」
興奮により、唾液が多量に分泌された。角砂糖が溶けきらなかったじゃりじゃりする紅茶が私のレスキューだ。
一方的な気まずさをタルト生地とともに噛む。硬めの生地は食べていると落ち着いて、全身から無駄な力が抜けていく。紆余曲折あったが、改めて味わっても非常においしい。サイズが大きめなのもありがたい。
向かいでのんびりと(……のんびりかなあ)午後の半休にたゆたう彼は、コーヒーが6、ケーキが4といった割合で手を動かしている。
余裕を取り戻すと、お決まりの興味が疼くものだ。
「スティーブン、あなたのケーキ、ひと口食べていい? 嫌じゃなかったらなんだけど」
「いいよ」
「ありがとう!私のも食べる?」
差し出された白いプレートを受け取って、私も自分のものを渡そうとして、動きを止める。
「セ、センエツながら私がご提供しましょうか?」
「ありがとう。自分で食べる」
「フォーク替えるよ!?」
「そこはどうでもいい」
「さすが……」
この男、これまでに幾本のフォークを突きつけられてきたことか。偏った想像だが、フォークで剣山がつくれそうだ。
分けてもらったケーキは、ほんのり洋酒の効いた大人びた味がした。私のタルトの『女子感』の正反対をゆく。印象だけで評価するなら、我ながら似合うチョイスだ。合コンコンパカラオケ飲み会で『それっぽいの頼んどいて』と言われて鍛えた直感が働いたか。あちらでは、軒並み好評だった。
「もうひと口いいですか?」
「うん。好きに食べてくれ」
「ありがとう」
お言葉に甘えた。
「これもおいしい! スティーブンが食べさせてくれたら、もっともっとおいしくなる気がするね?」
「君の気のせいじゃないかな」
「容赦ない」
手短に拒否されたので、おとなしくした。
でも、悔しさに突き動かされ、半分くらい食べてから返した。
行きたいお店を指定したのは私なのだが、彼はフツーに奢ってくれた。『地球?ああ、回ってるな』と言うのと同じ表情だった。
「ありがとう!ごちそうさまでした」
「どういたしまして」
どちらも他に行きたいところがなかったので、帰るかな?と様子を窺うと、あちらも私の顔を見た。
「帰るかい?」
「うん」
そんなやりとりをして、また並んで歩く。
行く道での迂回路をそっくりそのまま戻る。来るときには見つけられなかったお花屋さんが、小ぢんまりと道の端を彩っていた。異界の花ってすごいヤバかったりしないのかな。売れるの?
スティーブンの手が私の背に触れた。見上げる。
「ちょっと電話。悪いんだけどここで待っていてくれると、……それとも先に帰るか?」
「待ってる。えーと、あそこのお花屋さんにいる」
「わかった」
道端で待つのは暇だ。離れる社会人を見送る。
思いついただけだったけど、宣言したからには行こう。
足を向け、店先の鉢を眺める。人界の花に見えたが、注意書きがある。花びらをむしると手が荒れる液体が出るようだった。
スカートの裾が地面につかないよう、手で押さえて膝を折る。花には詳しくないしキョーミもなかったが、カワイイだとかキレーだとかはわかる。
ふっと私に影がかぶさる。もう電話が終わったのかと振り返ると、そこにはひとりの青年がいた。私よりは年上っぽかった。
彼は私の隣にしゃがみ込んだ。
「ひとり?」
「ううん、ひとりじゃないです」
「友だちかな?連れは花でも買ってる?」
「用事で離れてます」
「それじゃあ、今はひとりじゃん? 寂しそうに花を見てるからさ、声かけたくなって」
このごろは異色のナンパが多かったため、正統に攻められて、つい身体を向けてしまう。
「なんの花が好き?お近づきのしるしにプレゼントするぜ」
「花に詳しくないんです。詳しいんですか?」
「モテたいから、小ネタとして仕込んでんだ。たとえばほら、赤い薔薇」
膝を伸ばした青年に腕を引っ張られ、私も立ち上がる。店先で花開く赤色はみずみずしい。
「異界の薔薇だけど、赤は赤だ。これを渡す意味って聞いたことねえ?」
「告白とかに使うのは、ドラマで見たことあります」
「そうそう!それって本数に意味があってな、たとえばよくある『100本の薔薇の花束』なんかは『満杯の愛』。101本は『結婚してくれ!』みたいな」
へえ!と裏も表もなく声を上げる。新しい知識だ。
「白いやつはなんですか?」
「清らかー、とかじゃなかったっけかな。まあまあ、情熱の赤い薔薇で行こう。俺が君にねー、贈るならねー、50本かな!」
訊いてない解説が続く。
「『偶然の出会い』!あるいは『運命の……』」
熱が入ったようで、肩に腕がまわった。手で押して外させる。外れた。いい人だ。
「1本は?」
「『キミに一目惚れ』」
「3本は?」
「エート、告白系だったような?」
「あやふやじゃないですか。4本とか、5本は?」
「なんだっけな。4本とかあったっけな?」
「そのへんキョーミないんですか?」
「インパクトに欠けるじゃん」
私並みに懲りない腕が再び回る。
清楚な恰好だからモテるのだろうか。メイクにも気合いを入れたし、上々の出来だったのかもしれない。射止めたい人物の胸にはそよ風すら吹き込ませられなかったが、一応は効果があるとわかった。
青年がパチンと指を鳴らした。
「思い出した思い出した!5本のやつ。耳貸してみ」
「えっ、なんで?嫌ですよ。普通に言おうよ」
「まあまあまあまあ」
元カレに連れてってもらった房総のノリに似ていた。
しかし、超絶にあやふやだった本数の意味は気になる。しぶしぶ耳を傾けた。5本の薔薇は、とわんぱくな男子がテレビで見た話を披露するような、楽しげな短い説明だった。
「こういうの役に立つゥおわあ!」
青年が跳ね飛んだ。私もびっくりして飛び上がる。
今度は、知った影がかかる。
「お待たせ。なんだかんだで君は友人が多いなあ」
「あっ、もう電話いいの?」
「ああ」
肩をポンと叩かれたらしい青年は、胸を押さえて乱れた呼吸を整えた。
「びっくりした!!なになにカレシ?年上かあ!背たけえ!パネエ!俺ごときでは到底敵わないと一目でわかる謎の空気……!!」
「わ、わかる!」
「どんな空気なんだ」
理屈ではない共感が走った。このときだけは、我々は同盟者だった。
スティーブンが、私を若干、抱き寄せた。
「僕は彼女を連れて帰ってもいいのかな」
「ダメと言える俺はいない……。お疲れさまでした!!」
「君も遅くならないうちに気をつけて帰れよ。若者は自分を大事にしなきゃな」
「そのカノジョのが俺よりわか……、いけど彼氏さんがついてるから大丈夫なんスね。わかります」
本当に引き下がった潔い青年が私に手を振る。私は会釈で済ませようとしたが、そういえば彼に豆知識を教わったのだったと思い出し、手を振ることにした。彼は「うわ!指輪してた!マジハンパなくスンマセン!」と叫んで去った。誤解が解ける機会は二度となさそうだ。
赤い薔薇に視線を移す。教授されたのは、知っていたら感動したりくすりとしたり飲み会でネタにできたりする話だが、実用的ではない気がする。憶えていられない。記憶力が弱すぎる。
「スティーブンって花粉症?」
「ん? 違うと思うよ」
「いらないものが増えたら困る?」
「要らないなら、困るな」
「じゃあ、えーと、1週間くらい?かな? あなたを困らせてもいい?」
「君がくれるものの中に、要らないものはあんまりないよ」
「そこは完全に否定して! あと、ちょっとだけ待っててください!」
なぜそこだけハッキリと嘘を捨てるのか。
スカートの裾をひるがえし、小走りでお花屋さんに入って、丁寧にトゲを落とされた花を買った。包んでもらううちに、やらなきゃよかった、と勢いが鎮静し始めたが無理やりテンションを上げていく。得た知識は、頭の棚にしまいこんでいたって仕方がない。ただでさえ私の棚はすぐに埃まみれになってしまうのだ。色あせ、風化して、抽斗の在り処すら忘れてしまう前に使わなくてはもったいない。
あのイケメンに向けるべきではなかった気もするが、代金を払い、包み終わって、細長い紙袋にも入れてくれたそれを受け取ってしまっては退くに退けない。胸のポンプがギリギリと締め上げられ、不憫な悲鳴を洩らし始めた。哀れみが追いつかない。
「あの、えーと、差し上げます。いつもありがとうございます」
彼は私に恥をかかせないよう気を遣ったのか、とても、すごく丁寧に受け取ってくれた。直視すると矢でハートを射抜かれる微笑みまでつく。この矢が曲者で、抜けないのだ。抜けないどころか心の奥に癒着する。アーチェリーの的になれて幸せである。
「ありがとう。快気祝い以外でもらうことは滅多になくてね」
彼の怪我の頻度や、快気祝いが何回重ねられたのかは知らないが、そちらではかなり頻繁にもらっていそうだ。クラウスさんが用意するのだろう。彼は秘密組織で毎日忙しいのに私にも花束を贈ってくれた、ものすごいいい人だ。小さな花束は、彼の人柄を分け与えられたように優しかった。
そんな逸品に触れ続ける色男に、よくぞ私は蛮勇をふるえたものだ。
「中を見てもいいかい?」
「お、お手柔らかに」
落ち着きなく、カバンのストラップを握る。
包まれた花を紙袋から少し出し、稚拙な贈り物を見る恋愛有段者免許皆伝全方面太鼓判男から顔をそらす。時は戻らない。
スティーブンは薔薇を見たまま何かを考えたようだった。
彼のリアクションが怖かった私だが、街の生活音しか聞こえない事実上の無音はもっと怖い。
「お花自体はすごい綺麗だよね?」
「君からのプレゼントだから、より綺麗に見えるよ」
「ヒイッ!そういうの!今!」
こんなものはよくあるお礼言葉であり、口説きのテクニックですらないのだろう。洗練された上流の社交辞令は私を川に流された海魚のようにした。
スティーブンは包みをそっと紙袋に戻し、もう一度私に「ありがとう」と言った。
「できるだけ枯らさないように気をつける」
「や、あの、そんなに気を遣わないで!花は枯れるものだから!枯らそう!あ、あ、でも、スティーブンにそう言ってもらえて、花も嬉しいと思う!」
焦って舌が回らない。
どちらともなく歩き出す。彼は私の隣の車道側で、ぎこちない私を待ってくれた。私が眠り姫だったら、うまく紡げない言葉にうんざりし、自分から針を指に突き刺して永遠の眠りについていた。
「私、スティーブンがとても好きなんです」
頭では必死に内容をまとめているのに足はきちんと動いていて、人間ってすごいなあ、と思った。
「私はなんにもできないし、役にも立たないし、すぐうるさくしちゃうし、行動がキモいときあるし、スティーブンからしたら嫌なところがいっぱいだと思うけど、一緒にいさせてもらえて、すごく幸せ。花もさ、上手なやり方も、可愛さとかも、テクニックもなくて、つまんない渡し方だったかもだけど、花とか渡されても正直どうしようって感じになるかもだけど! もらってくれてありがとう!……花は!花は綺麗!花は綺麗だから!」
彼は頷いて、「大切にするよ」と言った。他にはなにもない。だけど、私はそれでじゅうぶんだった。シンプルなのに、何よりも私を安心させるひと言だ。彼は無駄な嘘はつかない。
いや、どうしよう、これが無駄じゃない偽りである可能性はないか?
悪魔が疑心を囁いたが、今の彼には私を人工甘味料たっぷりの夢で包み込む理由がない。彼のサービスは実に高価で、彼は投資以上の利益が出ないことはしない。セーフだ。セーフであれ。
それきり口を開かず帰宅し、片付けをしてようやく、気が抜けた。
あっ花瓶、と失敗に気づき、水場で私の知らない作業をしたスティーブンに急ぎ謝ったが、そのときにはもう花瓶は用意されていて目を丸くした。快気祝いの花束を活けるためのものだそうだ。仲間から贈られた花束を彼がどうするかなんて、考えるまでもない。見たことなぞないが、1輪か2輪かは職場のデスクにでも飾ったのではなかろうか。あるいは、復帰したらすでに飾られていたパターンだ。デスクのどの位置に置かれていたかを見れば、誰からのものかもわかるに違いない。
「この赤い薔薇は、5本で合ってるかい?」
「うん」
「じゃあ、3本は君にも見えるところに置いとくよ。残りの2本は部屋に引き取る」
部屋に持って行ってくれるのか、と感動が胸に広がる。
「スティーブン、その2本をあなたの寝室のベッドの傍に飾って、見るたびに」
「それは名案だ。そうすることにするよ」
「まだ最後まで言ってないのに!」
言い切ることすらできず、私の提案は不戦敗の黒星を刻んだ。
3本の薔薇は、ヴェデッドさんいわくは長持ちしたそうなのだが(……基準がわからないけど、彼女が言うならそうなのだろう)、時が戻らないのと同様に花弁を散らした。もったいなく感じる。だけどひとつ、何かを達成できたような気もする。
残りの2本は見かけなかった。スティーブンが処分したのだろう。捨てるところを贈り主に見せるのはよくないという思いやりか。
また勇気を出せたときには、もーちょっと賢く、スマートに、リズミカルに渡せればいいなと、スティーブンを見つめながら思った。
0906