03
暇なときはいつ、とメールがきた。夜を指定されたので、夜ならいつでも大丈夫です、と返信した。バイトが終われば、あとは予定がない。日程は、たった2回のやりとりで決定した。
メールに添付された地図を見て目的地を探す。
扉の向こう、四角い空間には、お酒の匂いが漂っていた。薄く立ち上る品のいい煙と並ぶ酒瓶が、この場所がなんであるかを言葉なく語る。
彼女はカウンターテーブルに肘をつき、早速1杯ひっかけていた。
「すみません、お待たせしました」
お店の人に会釈してから席へ駆け寄ると、アンニュイな美人さんは手を振った。
「お疲れ」
「お疲れさまです、チェインさん。なに飲んでるんですか?」
チェインさんはグラスを持ち上げ中身を揺らす。
「スリヴォヴィッツ」
知らない名前だ。カクテルではないとだけわかる。そして彼女の表情を見るに、私も甘っちょろいカクテルなどは選べなさそうだ。
自棄酒に付き合ってよ。彼女の言葉は社交辞令や慰めなどではなかった。本当に誘われた。
キャットファイトまで現実となるのではあるまいなと恐々とする私は、チェインさんの選ぶようなお酒には詳しくないのですべてをお任せすることにして、彼女の横顔を窺う。まつげ一本たりとも酔っていない。
「かなりお待たせしましたか?」
「ううん、そうでもない。まだ1杯目だよ」
「う、うん」
どういう基準なのかがわからなかった。飲むスピードがそれほどに速いのか。
私に差し出されたお酒は、やはり知らない名前を持つ。聞いたことがあるような気がしなくもないが、どういうものかは記憶にない。チェインさんが「リンゴのやつ」とアバウトに説明してくれた。飲みやすいと言われて安心する。しかしアルコールはキツそうだった。知りたくなかったので、度数は探らないことにする。
かちん、とグラスをぶつけ合う。
チェインさんはすいすいとお酒を喉に流す。私は酔わないよう、少しずつ飲んだ。
「食事した?何か食べるなら、頼むけど」
「軽く食べられるものをもらえ、……いただけると嬉しいです。どんなものがあるんですか?」
いつもはお酒だけを飲むのか、彼女は私のグラスにたっぷりのアルコールが残っていることを確認してから、気構えせずにつまめるものを注文して私に回してくれた。お皿はふたりの間にあるものの、食べるのは私だけっぽい。口に運び、お酒に合いそうな濃い味を噛む。
自棄酒を楽しむ(……楽しむ……?)ためにはどうしたらいいのか。女子会と名のついたランチタイムよりも言葉に迷う。助かるのは、お酒を飲んでいるうちは喋らなくていいというところだ。チェインさんは黙って飲みたいタイプに見える。
「私、邪魔になりません?」
「なんで?」
「お酒強くないし、面白い話もできないです」
「初めから期待してないから大丈夫。自棄酒だから、私が飲むのに付き合ってくれたらいいよ」
「えええ?」
自棄酒なのに、自棄酒する原因と思われる私が隣席に座っていいのかな。
場つなぎに、ゆっくりゆっくり、ものを食べる。チェインさんが2杯目に手を出した。
「デート、行ったの?」
「あの方とですか?行ってないです」
急になぜ。今のところそんな話は出ていない。
ふと思い出す。ランチに誘ってもらったとき、誘ってみれば、と言われた気がする。
質問の意味が理解できて、もう一度首を振る。チェインさんは口に運んだグラスをテーブルに戻した。
「誘われてないの?」
「誘われてないです。なんで誘われるんですか?私が誘う側なのでは……」
お互いに、相手の言ったことを不思議がる。誘うのは私で、誘われるのがスティーブンなのではないのだろうか。今はどうだかはわからないけど、チェインさんとお話ししたあのときはまだお仕事に余裕があり、だからこそ『今なら行けるはず』と背中を押されたのだ。せっかく押してくれたのに行動できなかった弱者が私である。
チェインさんが目を細めた。
「そうだった。って、英語がわかんないんだ」
私は翻訳の恩恵がなければ、口と耳では彼らと意思疎通ができない。簡単な文法を組み立ててもらうか文章で示してもらわないと、まともに言葉を交わせないのだ。文章も、筆記体はまだ難しい。本もクロスワードも、使われるのはブロック体だ。
納得したらしいチェインさんは、意外にも、おつまみをかじった。
「休みの日が合わないのかな」
「スティーブン、……さんと?」
「それくらいしか誘わない理由が思いつかないよ。からかっただけにも聞こえなかったし……」
「はあ」
彼女の目が、また私のグラスを見た。減りがないのを責められた気分になって、ひと口すする。
「まあ、そういうことならそのうち誘われるよ」
「どういうことなんですか?」
「ヘルサレムズ・ロットの名所って何かな。……あ、お土産はいらない」
「そ、そうですか」
チェインさんに、いや、秘密組織の人たちに私のリスニング能力が皆無であるとバレたのは、翻訳の仕組みが突然消え去ったときだ。あのときにスティーブンがすらすらと並べ連ねた言葉に関わるハナシなのだろうか。チェインさんが空中に指で描いてくれたマークだけが手がかりだが、具体的な内容は何も掴めずにいる。外国語の嵐に負け、海馬には単語のひとつも焼きつかなかった。
チェインさんが3杯目に手を伸ばした。速い。
「、飲まないの?」
「飲んでます!いっぱい飲むと、ご迷惑をかけるので」
「……ああ、そうだったわ」
「その節はすいません」
チェインさんの胸もお腹もあたたかかった。
時間をかけて、ようやくリンゴのお酒を半分飲んだ。酒豪の前でなよっちい飲み方をするのがちょっと申し訳ない。テンションを下げたりはしないだろうか。
「ねえ、」
「はい」
「アレとご飯行ったんだって?」
「『アレ』?」
「全身から下品なニオイをさせてる男」
十中八九ザップさんなのだろうが、ここで『それってザップさんですか?』と言うのも失礼そうだ。
私のビミョーな顔色を見透かし、チェインさんが「そいつ」と顎をひいた。
「どこだっけ?焼肉?」
「はい」
「むしられたでしょ」
「えーと、はい。私、全然食べられなくて。でもすごいおいしかったです。チェインさんも、今度どうでしょうか」
ダメ元で言う。こういう話題が出たら一度は誘ってみるのがフツーなのでは、と思ったのだが、外国では違うのだろうか。上っ面だけだと批難されればそれまでだ。
勝手に気まずくなって、スッとする液体で喉を潤した。逆に乾きそうな感じもする。お水をお願いできる雰囲気でもない。
答えるため唇を舐めたチェインさんは、とても色っぽかった。
「行くのはいいけど、ふたりきり?」
「……あ、いえ!」
見惚れてしまった。
「他の人がいても、全然! ただ、今度はちゃんとお肉を食べられたらいいなとは思います」
「目標が低すぎない?」
「半ばトラウマで」
「付き合うのやめなって言ってるよね?」
優しい忠告に頭を下げるしかない。しかしなぜか、もう無理な気がする。番号は着信拒否が設定されているとはいえ、彼には連絡先もバイト先も知られていて、もっと目立つつながりもある。
私がうまく頷けなかったので、チェインさんが眼差しを白くした。
「それさ……」
綺麗な声に、大きな音がかぶさった。
「よう、おねーちゃんたち。ふたりかい?」
「よかったら俺らが奢るぜ」
返事も待たずに、私とチェインさんを挟むように男がふたり、椅子に腰を落とした。
チェインさんはまったく動じない。私は態度の大きい男性にビクつく習性ができたらしく、ちょっとだけチェインさんに身体を寄せた。無意識だった。何回かリアルに痛い目に遭っているので、できるだけ物腰柔らかに接触を図ってもらいたくなる。
「おふたりさん、名前はなんてーんだ?」
チェインさんは慣れているようだった。
「飲み終わったら教えてあげる」
「オッ、いいねえ」
「こっちのあんたは?やっぱりヒミツかね?」
「え、ええまあ、あの、はい」
これは合コン扱いでいいのか?盛り上げるべきか。盛り上がってどうするのだ。
チェインさんがかぱかぱとグラスをあけてゆく。ナンパ男たちは引き気味の自分を奮い立たせるように、こちらも負けじと杯を重ねた。私は飲んでるふりでテキトーに話を合わせておく。相槌はほとんどが「さすがです!」、「すごい!」、「カッコいいなあ」、「私も頑張らなきゃですね!」、「なるほどです!」のローテーションだ。これで結構、会話が波にのる。
「2軒目行こうぜ!」
調子が上がってきた男は了承も取らずにお会計を済ませ、その小計に頬を引きつらせた。男のメンツがあるのか、文句は言わなかった。根はいい人なのかもしれない。
座ったままのチェインさんに、ワイルドな笑顔を近づける。
「カレシいないって言ってたよな?こんな美人なのにもったいないぜ。ちょっと飲むだけでいいからさ」
肩を抱かれかけたチェインさんは、太い腕をするりと避けた。私はチェインさんのオマケとして身を小さくした。
レディーススーツに隠された細腕が私の腰に絡みつく。男ふたりと私がひとり、合わせて3人がギョッとしてそれを見る。
美人がとんでもないことを言い出した。
「カレシはいないって言ったけど、コイビトがいないとは言ってないよ、お兄さん」
「えっ」
野太い声と、私の声が重なった。
グラスから離れたもう片方の、すべすべした手が私の頬を包む。
ナンパ男たちに見せつけるように、チェインさんの唇が寄せられた。
私に。
全身からクエスチョンマークが躍り出ているであろう私も、混乱しながらチェインさんの肌に触れる。チェインさんは小さな音を立てて私から唇を離し、男たちに向かってつやっぽく口角を上げてみせた。ヤバいのに手を出してしまった、と言わんばかりの男たちの顔色は、リップ音というものはどんなにかすかでも人の耳に届くものなのだな、と私に思わせた。
「奢ってくれてありがと。飲み、また誘ってね」
魅力的な声音に気を惹かれたが、ここで彼らは、たった今、お財布から飛び去ったお金を脳裏で数えたようだった。
無粋な乱入者のレッテルを貼られ、真も嘘も見抜こうとせず、ばたばたと逃げるように男たちが店を後にした。
残されたのは即席のラブシーンを演じた女ふたりである。
「会計もチャラになったし、飲み直そ」
「まだ飲むんですか!?……ていうか今のって、キスなのでは!?」
自棄酒に余計なオトコは必要ない、というスタンスか。チェインさんはグラスを追加した。
「口じゃないよ」
「そ、そうなんですけど、チェインさんはそういうの、大丈夫なんですか?」
「はダメだった?」
ダメではない。抵抗はなかった。チェインさんだったからだろうか。
「初めてなのでびっくりしました」
「私もに抱きつかれたときはびっくりしたから、おあいこね」
「そう……かな……?」
ハグとキスは同じ天秤にかけていいものだったっけ。いや、悪くはないのだろう、悪くは。しかし、戸惑う私がおかしいのか?これは、ヘルサレムズ・ロットの常識なの?外国だからなの?知らない世界だ。
「チェインさんはいつもこうやってるんですか?」
「そこにがいたから手っ取り早く使っただけで、普段はツブす、……っていうか、相手が勝手にツブれてく」
「身に覚えがあります」
手っ取り早く使われた私は、せめてツブされないよう細心の注意を払って、もう1杯だけ、リンゴのお酒をおかわりした。
駅まで送ってくれたチェインさんは、改札の前で私の腰をぽんと叩いた。
「キスはただの虫除け。浮気じゃないよ。口じゃないし。が私に抱きついたのと同じ」
「う、うわき!?」
「だから、違うってば。スターフェイズさんにちゃんと説明しといて。秘密にしようったって、は絶対にボロ出すから」
最後の最後に侮られた気がする。
彼女は私が背を向けた隙に人混みに紛れてしまったようで、振り返ったときにはもういなかった。
スティーブンに連絡もしてあるし、それほど酔わずに済んだので、安心して家に帰る。
中に入り、玄関口で、唇の横に指を当てる。あれ、すごい、やわらかかった。
アルコール独特の揮発的な匂いの中に、チェインさんのものであろう、女性らしい香りが混じっていた。そのブレンドはおかしいくらい彼女に合っていて、同性の私でもくらりときた。
嗅覚から脳を揺さぶられた直後、羽毛でくすぐられるように吐息がかかった。酒気を帯びるのにちっとも不快ではなく、どんな種類のお酒を飲んだのかは知らないが、蒸留されたそれらの良い部分だけを凝縮したような心地よさがあった。
押し当てられた唇は柔らかく、ウォッカで湿って、ほのかに熱を持っていた。まるで電流が奔ったような衝撃だ。
こういう世界があると知ってはいたが、まさか体験することになるとは想像もしなかった。できるわけがなかろう。それも、チェインさんと。面倒なナンパを退散させるための嘘っぱちだとはわかってるけど、なんだこれ。
1時間以上も前のことなのに、今ごろになって顔が熱くなる。口づけを受けた箇所ごと、口元を手で覆い隠す。
玄関口で扉にもたれたままジッと動かない私の気配を不審がった家主が、私の様子を見にやってくる。酔っ払って動けないことを心配してくれたのだろう。
私は彼の顔を見づらかった。いけないことをした気がする。チェインさんに言われたとおり、もちろん浮気ではなく、これは、こう、何ひとつ、誰にも非はないのだが、私がひとりでグッとときめいてしまったがために起こった不運な気まずさだった。
「どうしたんだ?」
至極当然の質問に、私は謎のトキメキを告白した。
「キスされて、ドキドキして」
単刀直入すぎて何も伝わらない。
へえ、と言ったきり、スティーブンが不自然に黙った。
「……誰にだい?」
「チェインさん」
アホな自分が情けなくて声が痩せた。
私は心の中で彼女に謝った。なんてことないナンパ撃退の一場面で、ものすごく感動してしまってごめんなさい。メールでも謝ろう。
「……君、いつの間に新しい扉を開けたんだ?」
呆れ顔のスティーブンに連れられ、テーブルに突っ伏す。
スティーブンと向かい合い、誘ってきた男たちの話をしてから、チェインさんの豪胆な対処法を解説した。語りの順序がいつも以上にバラバラで申し訳なかったのだが、この心の震えを伝えたい。
話のさわりをひと撫でした彼はため息をついてから、今日のうちで一番、どうでも良さそうな顔をした。相槌も雑になった。
「で、どこにキスされたんだっけ?」
私は唇の横を指差した。ときめきによる顔の赤らみはひいている。血色の名残があるならば、それはお酒のせいだ。
スティーブンは自分の顔に指を這わせ、私の示すところと同じ位置に触れた。
「バレなかっただろ」
「うん。男の人たち、すごい引いてた」
「こういうのはめげたほうが負けだからなあ。君も貴重な体験ができて良かったな」
絶対にめげないであろう男の拍手が私を祝った。
「女の人とのキスのこと?」
「チェインとのキスのことだよ」
「……確かに!チェインさんだもんね!」
「うん」
納得してから、ウッ、となる。未だフワフワしたままの私たちの関係がこれにより、さらなる高みに到達したのでは?私とチェインさんを表す的確な単語が見当たらない。分不相応にもチェインさんという人物を好きになっただけでなく、うっかりときめいちゃってすみません。耐性がなかった。これでもっと馴れ馴れしくしてしまったらどうしよう。距離感、距離感、と自分に言い聞かせた。
というか、同じ人を好きだったふたりがキスをするとは、どんな境地だ。奇妙すぎる。そしてそれをその『好きな人』に洗いざらい暴露する私のバカさったらない。ちゃんと説明するよう彼女に言いつけられはしたが、これで良かったのだろうか。
考え込み、お水に手を伸ばす。
スティーブンは、彼は彼で、爽やかな笑顔を引っ込めていた。表現しづらいが、自分に呆れたような感じだ。
「どうしたの?」
「ちょっと自分の面倒な部分を見つけたから、整理しようとしてる」
「へー」
彼ならば、簡単に終わらせてしまうのだろう。
スティーブンは、頬杖をついて言った。
「知らないと思うんだが、僕は君が好きでね」
「ふぁ」
言葉を失う。
続けるつもりはないようで、唇はぴたりと合わさって、もう動かない。
私はぶり返した頬の熱を手のひらに吸い取らせた。
スティーブンは私のぽかんとした反応を気にしなかった。気を取り直したように、また、音が動き出す。
「……好きみたいなんだよ」
「急に客観的」
もっと自分を信じて。
なに?と続きを催促する。
「なんていうか、実際に体験してみて、君のすごさが身にしみてわかった」
ため息は、私の熱っぽさを緩和した。呑み込めないけど、彼は私を褒めたらしい。
すごいことを聞いたのでは、と漠然と感じた。
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