02
帰宅の挨拶に対して「おかえりなさい」と返してから、自分の声が湿っていると自覚する。鼻声のようだ。
あちらも首を傾げる。顔を合わせる前にティッシュで目尻を拭いたが、ほのかにじっとりした下まつげは隠せなかった。
「あの、ちょっと顔洗ってくるね。お見せできないです」
「どうしたんだ?」
「泣いてしまいました」
「……悪いことで?」
言いづらかったが、下手に言葉を濁しても見破られて恥ずかしくなるだけだ。じっと見下ろされ、顔を隠しつつ白状した。
「動物ものの映画を観て……」
グラスにお水を注いで、注ぎ終わるまで。その程度の時間を空白で埋め、彼はぞんざいに息をついた。
「そうかい。じゃ、僕はシャワーを浴びてくるよ」
「うん」
「君はもう終わってるよな?」
私の恰好は、寝るモードのワンピース姿だ。時間も時間。あとはベッドに入るだけである。
気勢をそがれたような後ろ姿がバスルームに消え、私はエンドロールが流れきったテレビの電源を落とした。
久々の映画は128分の大作で、子犬と子猫と独身男性の切ない2年間を描いたものだ。フィクションだが、実話をもとにしたように構成されていて、とても真に迫るストーリーだった。元の世界ではこんな感動モノには興味なんてちっとも湧かなかったが、オススメされ、感想まで強要されてしまえば、観ないわけにはいかない。
私は作者の思惑通り、瞳にうるりと涙の膜を張った。号泣はしなかったが、要所要所で胸を締め付けられる。私にも情緒や繊細さは存在したようだ。
しかし、映画で泣いたところを好きな人に見られてしまうとは。心優しく感受性が豊かな女性らしかっただろうか。プラスのイメージなら嬉しいのだが。
後片付けをし、たまには彼もひとりで夕食をとりたいかもしれない、と気を回して「おやすみなさい」と言った私は、そそくさと逃げるように部屋に戻った。ちょっとだけ気恥ずかしかったというのもある。
彼には意にそわぬ泣き顔ばかり見られている気がする。狙って可愛らしく涙を流せれば、お砂糖ひとつまみくらいは大人になれるかもしれないのに。成長しないし、技術も磨けない。
泣き映画なんてもう観ない、と宣言した私は、変哲も無い連ドラの展開を目で追った。ライトなものがいい。心を動かされるのはとても苦しいことだし、自分が自分でなくなった気がしてしまう。そんな気持ちになるのは、好きな人の前だけでいい。かき乱されてマーブル模様になる精神を、あたたかい幸福で包みたい。恋がこんなに大変で、難しく、楽しいものだとは知らなかった。いつだって発見の連続で、いつだって心臓は硬直の危機にさらされている。筋肉痛になりそうだ。
好きな人を思い浮かべて上昇する機嫌とは裏腹に、ドラマはつまらない。そのうちにうつらうつらしてきた。
テレビを暗くし、無音の中でカーディガンを身体にかける。ソファに横たわり、丸まることもなく、力を抜く。
空気の圧迫感。それから何かを感じて意識が浮上する。
付けっ放しだった明かりは、まぶたの裏を白く染める。
そこに、いつからか影がかかっていた。
目を覚ますきっかけはそれではなかったが、一度気づくと、目を開けずにはいられない。
喉奥が引きつった。
「ヒイッ……!」
超弩級に好みの顔があった。間近に。
吐息が触れ合う距離に驚きすぎて、渋滞を起こした頭では考察もできず、身動きをとることも忘れた筋肉が機能を放棄する。
声を出したら負ける、と謎の強迫観念に襲われた。喉に蓋をする。瞳を直視できなかったので、目も閉ざして顔を背けた。
怖い。怖すぎる。なんの魂胆があるのか。すごく知りたかったが喋ったら負けだ。大根の根毛よりもやわい私の根性に免じて、あちらに折れてもらいたい。
しかし、私の決心はダメダメだった。辛抱できず、まぶたをこじ開ける。
「あの、なに?ただいまのキスの流れ?ネコミをオソわれてる?」
「そうしようかと思ってたところだけど」
「だ、『だけど』?」
「起きたからやめとくよ」
「えっなんで!?襲ってよ!」
「寝込みじゃなくなったし」
「じゃあもっかい寝るから」
「それって君的にアリなのか?」
「ダメです……」
起きてるときにされたい。
焼き始めたホットケーキからふつふつと空気が抜けるように、胸から気力が漏れ出た。早くひっくり返さないと焦げ付いてしまいそうだ。
恋の炎で炙られる私をそのままに、チャッカマンで薪に着火した張本人はさっくり離れて行った。ちょっと不安定な体勢だったようだが、さすがは自宅、さすがは自分で選んだ家具(……たぶん?)、そこは手慣れたものであった。よくやっているのかもしれない。それで慣れたとか。うむ、なくもない。手練れだ。
私も身を起こし、狐につままれたような顔でスティーブンを見上げた。
前にもこんな一大事があったのだろうか。あったのだとしたら、一度も目覚めなかった私はなんなんだ。
答えを怖がりながら「何回かしてくれてましたか?」と訊ねると、「君の想像とは違う」と否定らしきものが降る。
彼は今の大ごとをけろりと忘れたような顔で夕食をあたために行った。追いかけて、ねえ、と話しかける自分の声は切羽詰まっていて、ワガママに聞こえた。ハタチなのに!
「なんで起きてたらダメなの?」
躍起になる私を、スティーブンが笑った。
「寝てたほうが大人しいんだよ」
「当たり前でしょ!?寝てるんだよ!?」
どことなく経験に基づいた響きがあったが、必死だった私には感じ取れなかった。
「静かにするから!ね、お願い!お願いします!」
この懇願がすでにうるさいというのは置いておきたい。
だが、どんなに粘ってものらりくらりと躱される。私よりも夕食ほうが重要らしい。それもそうだ、大切な栄養源である。私に構ったところでエネルギーが消費されるだけなのだから、激務で疲れた身体への労わりを優先するべきだ。そんなことは、縋りつく私にだってわかる。
周囲が見えるようになったので(……わりかし)、私は肩を落として引き下がった。
「すいません。……寝てたらチャンスある?」
スティーブンが小首を傾げた。
「寝てたら、というか。死にそうになったり怖気付いたりしなきゃ、起きててもチャンスはあると思うよ」
私は心臓をなだめた。
すごく頑張ればいけるかもしれない。今までは無理だったけど、ここまで食い下がったのは私だ。死にそうになるのは頭の問題なのでちょっと制御し難いが、見かけだけでも平常心を装って、我を忘れたりしなければいいのだ。怖気付くのは気合いでなんとかしよう。気合いなんて機能が私に備わっているとは、到底思えないのだが。
ロマンチックさなんてもはやどうだっていい。生きるか死ぬかの瀬戸際である。生きるか死ぬか。キスができるかできないか。呪いや記憶が関わる切ないキス・アンド・クライを抜けて、平和な口づけを夢見てもいいのではなかろうか。
おそらく、平和をぶち壊しているのは私なのだけど、そこは都合よく忘れよう。
身体の横で強く拳を握る。
「……怖気付かないようにします!」
「おっ。それならそこに立って僕を見上げて視線を合わせてから、3秒後に目を閉じてみよう」
「うっ……、修行してきます……」
覚悟はシャー芯より簡単に折れた。
泣き映画よりも、自分の弱さが胸に効く。
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