01
テレビは見ていなかった。寝心地の良い大きなソファに座って、黙々と本を読んでいた。
そんな私に、シャワー上がりの、我が知り合いきってのイケメン、かつ好みドンピシャ、空気清浄機よりも私の心を澄ませる男が、お水は要るかと訊いてくれた。ありがたくいただく。気遣いのできる大人だ。冷たいお水は喉に気持ちよかった。私にしては集中してたのかもしれない。推理小説には興味がなくて手を出したことがなかったが、読んでみると面白いところもある。登場人物の名前をおぼえるのは難しいけど、ころころと変化する場面やトリックは、ついていけないからこそ感動する。なんでこんなものを思いつくのか不思議だ。
もともとスカートが好きな私は(……一枚で済むから!)、今日の就寝スタイルにも柔らかい生地のワンピースを選んだ。ネグリジェというには圧倒的に色気が足りない。
腰を下ろしているので、膝上の肌色は一部が露出する。空調がちょうどよくて、暑さも寒さも感じないのが快適だ。
お水のおかわりとしてローテーブルに小ぶりなボトルを置きがてら、スティーブンは私の隣に腰を下ろした。私がビクついたのは、怖いからではない。不意打ちで接近されると全身の表皮がポッと熱くなるのだ。慣れない。
そんな私を華麗に無視し、彼は彼の作業に入った。1日の疲れをソファに吸い込ませるように身体を預け、脚を組んでスマホをいじる。何をしているのかいつも気になるが、大方、お仕事関連のテコ入れか何かなのだろう。
人のケータイを覗き込むつもりもない。ページに目を戻し、ちょっとだけ、ほんの数cm、隣ににじり寄った。すぐに後悔して元々の位置よりも遠くに逃げた。どう見ても不審者である。
先ほどよりはフワフワした心地で文章を追ううちに、また喉が渇いた。読みながら緊迫感を感じて力が入っているみたいだった。ロジックに置いてけぼりにされる私にでも質の良さがわかるのだから、これはかなりの良書だ。
本を閉じて、お水をまた飲む。ふう、と息をつくと、物語への没入が霧散した。
スティーブンはケータイをテーブルに置いた。きちんと裏返してある。うっかり私が送信元の名前を目にしないように気を配ったのだろう。あるいは、癖だ。私は危険に飛び込みたくないので、とても助かる。
彼は、私の膝の上のハードカバーを見て言った。
「気に入ったかい?」
大きく首を縦に振る。
「うん! トリック?なんかは想像がつかないけど、何回か読んだら、読んだぶんだけ面白く思えそう」
「良かった。僕もそう思うよ」
その同意は、できれば後半の発言にかかっていてほしい。私にこのトリックは想像できないだろうな、といった頷きであったのなら、ごもっとも具合に涙をのみそうだ。私の頭の回転は電子レンジのトレイよりずっと遅い。
「スティーブンは一回読んだだけで全部わかる?途中で、犯人とかも当てられた?」
これは彼が先に読みたいと言った本だ。貸した(……といっていいのか?彼からもらったのに)翌々日に返ってきた。帰宅から眠る前までの細々とした隙間時間に読み切ったらしく、その集中力と読書スピードに驚いたものだ。私は3日かけても4分の3程度しか読めていない。同じように夜に読んでいるし、私の方が自由時間は多いのに、この違いはなんだろう。
「これは当てやすいよ。ヒントもきちんと書かれてる。ミステリ愛好家なんかに挑戦するタイプの作品なんじゃないかな」
「へー。アイコーカなんているんだね。トリックとかいっぱい知ってるのかな。どんなふうに考えたら手がかりを見つけられるんだろ」
キーワードは頭に入るが、それを寝ながら考えて結びつけて組んだ骨組みはガタガタで、吹けば揺れ、だいたい支柱となる人物が死んでしまって崩壊する。付け焼き刃の推理はこのようなものだ。それを繰り返し、もう3人が死んだ。こんなに死ぬんだ!?と驚いた。それでも諦めずに読み続けられるのは、死に方のバリエーションがすごい、とか、探偵がイケメンだ、とかではなく、きっとこれがスティーブンからもらったものであるからだ。そういうものだと、私は思う。
私たちはしばらく、他愛のないお喋りをした。バイトのことだったり、書いていた自分の原稿にレオがコーヒーをこぼしてしまった話だったり、ギルベルトさんが秘密組織への差し入れとして焼いたクッキーの感想だったり。ギルベルトさんのクッキーはすごくおいしかったそうだ。ぴしりと背筋を伸ばして立つ包帯まみれの姿を思い出し、ははあ、と私は首を振った。万能そうだ。
「クッキーは君もたまに作ってるよな。あれは全部、ヴェデッドのレシピかい?」
「検索して見つけたやつもあるよ。チーズクッキーとかは調べたんだ。私は元の世界でもそうだったけど、ヘルサレムズ・ロットに来てからはもっとクッキーを食べる機会がなかったから、今になっていろいろ試してみたくなって」
「いくつかもらったけど、おいしかったよ」
「だよね!私もおいしいと思った」
バイト先にも配り好評を得たので問題ないとわかってはいるが、彼にそう言ってもらえるとひと安心だ。お世辞である可能性には目を瞑った。でも、お世辞でしたら、そんなことを言わせてしまってすいません。
「『パパ』のところでも食べなかったのか?君の話を聞いてると、なんでも出てきそうなイメージだったから意外だ」
「パパねー」
望めば、なんだって手に入る生活だった。高級なものをたくさん買ってもらったし、おいしいご飯も、頼めばおやつまで出てきた。どれもお金の味がして、世慣れぬ私は背徳感と過剰に膨れ上がる自意識に感動したものである。今となってはドン引き案件だ。隣の男にその全貌(……ほぼ)を掴まれていると思うと気が気でない。ハタチにもなって調子こいてた。
「出てこなかったなー。パパの趣味じゃなかったのかも」
「そういえば贈り物のクッキーに毒が入ってたんだ、とかなんとか言ってたっけ」
「え、誰が?」
「君が」
そんな話までしていたのか、私は。些細すぎる話は忘却の彼方だ。
「ひざまくらは毎日?」
またスマホをいじってから、彼は私に問いかけた。パパの話がやけに長引く。お仕事場で、パパについての資料かなにかでも出てきたのだろうか。
「うん、ほとんど毎日。なんか、こう、生脚指定でね、頬ずりとかされてキモかった」
舐められかけたときは逃げた。日本円換算で8万のお給料が手に入るとしても肌を舐められるのはいやだ。誰だってパパには舐められたくないだろう。
「生脚指定は徹底してるなあ」
「あ!スティーブンもやったげよっか!?自慢だけど、柔らかくてあったかいよ!」
「やめとくよ。興味がないし、あったとしてもその話のあとではやりたくない」
「ちょっとわかる」
本をどけ、自分の太ももを手で撫でる。手触りはいいと思うのだが、もう一生、使い道はなさそうだ。太ももって、ひざまくら以外にはどんな娯楽的な用途があるんだろう。最初で最後がパパだと思うと切なさが湧く。
「今のところ、ひざまくらはパパ専用のままかあ。いつでも言ってね!まくらになるから!」
「そうするよ」
「ホントにいつでも言ってね?」
「うん」
きちんと返事をしてくれる彼に申し訳なくなってきた。
「あなたって優しいね」
「時と場合と相手によるよ」
「これはどれ!?リラックスタイムだから?時間があるから?……わ、わ、私が相手だから!?」
言ってから、どんな答えが返ってきても感情が大幅にブレそうだと思い、わたわたと質問を取り消した。彼は要求通り返事をやめた。
土下座すれば『私が相手だから』という最高の返答をしてくれたのだとしたら、どうしよう。土下座して訊けばよかったかもしれない。
どことない残念感をお水で飲み下す。ほとんど同じ動きで、隣の彼もグラスを持ち上げ、置いた。些細なことが嬉しくなって頬が緩む。わずかに顔を動かしてこっそり横顔を窺うつもりが、目を合わせてあざとく微笑まれたものだから、ソファから転がり落ちてテーブルの角に頭をぶつけて死にそうになった。打ち付けてもいない側頭部がじんじんする。血がめぐり、自分の頬と目元が色づいたのがわかった。あざとい。あざとすぎる。殺す気できている。いや、これは彼にとっては殺す気すらない、足元の小石を蹴飛ばすよりも簡単な動作なのに違いない。私は小石だ。微笑みひとつで蹴飛ばされ、道路の向こうまで飛び、壁にぶつかって脆く粉々になる。照れという群衆に踏みつけられ、行き着く先には砂埃しかない。
「か、カッコいい。こ、これ以上好きになったらどうしよう、お、おかしくなっちゃうかも」
スティーブンは、『まだおかしくなる余地があるのか』と言いたげに見える顔をした。自分でもそう思うは思うのだが、これは被害妄想であってほしい。
気力を振り絞り、なんとか背をソファにうずめる。ずるい大人だ。私が彼を好きで好きで時どき正視できないと知りながら、こんなことをしてのける。
悔しさを込めてじっとりした視線を送る。
しかし指でちょいちょいと呼ばれれば、目の前にエサをちらつかされた躾のなっていない犬がどんな行動をとるかは、わかりきったことである。お尻を滑らせてそっと近づく。照れるし恥ずかしいしドキドキするしで血管が痛いが、距離がせばまること自体はとても嬉しい。
スティーブンはこちらの具合などは意に介さず、「僕」と口を開いた。
「日ごろの疲れが溜まってるみたいなんだ」
「そうだよね、忙しいもんね。お仕事もいっぱいあるみたいだし」
「うん。それで、ちょっと君におかしくなってもらいたいんだが、いいかい?」
「えっ?」
身体を引く前に、体重がかけられた。私に。私の肩に。彼の。
私は衝撃を通り越し、混乱の200mハードル走ですべてのハードルをなぎ倒し、心中の審判に反則を言い渡された。
左肩にかかる重みとゆっくり伝わる体温が、私の心をかき乱した。おかしくなる、などと言いはしたが、おかしくなれるだけの力もなかった。
これが現実だとするならば、私は今、スティーブンから軽く寄りかかられている。
「あの、これはまさか、あの、えーと、……私に寄りかかってますか?」
「寄りかかってる」
「だ、だよね?」
預けられる体重は私にも支えられる程度に留められている。
「思ってたよりも、まともなままだ」
私もそう思う。おそらくだが、振り払ったり逃げたりしてこの最高な現実を逃したくない、という理性が働いているのだ。リッパーを押しつけられ、繊維1本にまで追い詰められた忍耐が私の正気をギリギリのところで保っていた。身体は正直すぎてつま先までぽかぽかだが。指の間に汗をかき始めた。
もじもじと足をすり合わせる私の姿は、いじらしく見えるだろうか。
「あっ、そ、そのまま抱きついてくれても……」
スティーブンがちょっと離れた。
「待って待って、冗談です!引かないで!も、もうちょっとやって」
服を掴んでしまった。手を肩の位置まで持ち上げる。無実だ。まだ未遂だ。
「そういう意味じゃないよ。……普通に座ってくれるかな」
「はい」
じっと前を向く。冗談みたいな気軽さで体重がかけられた。あちらにとっては、バランスの悪いクッションのようなものなのだろう。
「そのままひざまくら?」
「君も安売りするなあ。面倒そうだから僕はいい」
膝に体温を感じれば、私はぴーぴーとひとりで喚きたてる。そんなものは、見ようとしなくてもわかる未来だ。
黙ってクッションになることにした。
何回か、呻きながら窓を突き破り道路に飛び出してもおかしくなさそうな精神状態に陥ったが、彼はまったく、何も気にせず、私にもたれたまま昼食の話をした。
心臓の鼓動が安定したころに、訊いてみる。
「これ、疲れ取れる?」
「取れないよ」
「え!?ここは嘘でも元気になってよ!」
狼狽して後ずさってしまう。
彼の重みがなくなり、「あ!」と口走ったが、今度は案の定、夢のひと時は終わりを迎えた。
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