06


『決意』というものが、白玉だんごのように捏ねて茹でれば固まるものであればいいのに、とぼんやり思う。
私にはやりたいことがあった。
とても些細で、大胆で、各方面に面倒をかける願いだ。
でも、どうしても、やりたかった。
お昼休憩に電話をしてほしい、と必須連絡以外では使わないアドレスにメールを送る。
了解の返事はなかったが、きちんと電話はかかってきた。
「お疲れさまです」
「お疲れ。どうかしたのか?」
私はごくりと、つばと一緒に迷いを飲み込んだ。
「今日、帰ってくる?」
「うーん……、まだわからないな。それについてはまた連絡する。家で何か?」
「ううん、ちょっと気になって。わかったら連絡ください。わざわざごめん、メールにしろって話だよね!」
「いいよ、電話で」
「ありがとう。じゃあ、また」
無音を取り戻し、呼吸を整える。

私の望む連絡が入ったのは、初めの電話をかけてから数日が経ってからだった。
スティーブンは簡潔に前置きをしてから、変わらず、淡々と不在を予告した。
「ちょっとゴタゴタがあってね。今日は戻らない」
「うん、わかった」
手に汗が滲む。
私は声がかすれないよう、精いっぱい気をつけて問いかける。
「あの、留守を狙うようで申し訳ないんですけど、あなたの寝室に忍び込んでベッドを借りてもいいですか?」
穴だらけの計画だ。何も決まってない。
ただ、挑戦できるのはこの奮い立つ気持ちが持続するうちだけだろうから、早めに言ってしまおうと思った。今できなければ、いつまでもやりきれなさそうだ。虎視眈々と不法侵入を狙う変質者の域に入りそう!
自分の聖域とも言える寝室を不在のうちに侵されるスティーブンの心情を思うと胸が痛む。謝罪しか浮かばない。申し訳なさが石ならば、私は今ごろ溶けてコンクリートになっている。コンクリートがなんなのかは、ホントは私は知らないけど。
断罪を待つ想いで是非を望む。答えがどちらであっても、きっと私は後悔しただろう。
スティーブンは、私が照れと居たたまれなさに負けた撤回をまくしたてないことを確かめるようにたっぷり黙ってから、短く言った。
「好きにしていいよ」
「ありがとう!今日が私の命日だ」
「自分で言いだしたことで死ぬなよ。僕が帰らない日を待ってたのか?」
「はい」
「なるほどなあ」
全身が心臓になったみたいに、どくどくと強い脈動を感じた。頂点に達した緊張が一気にほどけた落差からか、喉が渇く。
二度目のお礼を口にして、電話を切った。
やっぱりやめようかな、と予想通りに後悔したが、頼み込んで許可を得たのだから、もう後にはひけない。ここでやめたら、私の度胸が紙っぺらどころかトイレットペーパーよりも薄くて溶けやすくて破けやすいと証明するようなものだ。証明するまでもない話だが、こうして発破をかけなければ、場もわきまえずに喚き散らして逃げたくなってしまう。好きな人の同居人としての評価は著しく低迷したが、社会的な人格は疑われたくない。
私は地に足のつかないままバイトを終え(……すごいことに、ミスはなかった!)、ヴェデッドさんの夕食をいただき、身を清めて夜を待った。
待ちつつも、胸の中は紺色だ。私の感じる『後悔』の色は紺だったらしい。高校受験の面接よりも気を張り詰めている気がする。あれは私にとっては、そこまで真剣な話ではなかった。それに比べて、今晩の落ち着かなさといったら、ヒツゼツに尽くしがたいものがある。今になって何をと自分でもアホらしく思うが、私の感性って、狂ってるのかもしれない。
テラスから吹き込む風を感じる。外には出ず、ヘルサレムズ・ロットの空気だけを拾い上げた。
(私、なにやってんだろ)
急に心がやさぐれ始めた。
ドキドキしながら好きな人の寝室に踏み込みたくなるのは、まあ、恋する女の子としてはありがちだ。そう信じたい。
許可を得るのも当然のこと。相手は、ドン引きしてもサービス精神で覆い隠してくれそうな男だ。サービス精神のヴェールに包み込みながらもきっぱりしている点が爽快である。彼に断られなかったのなら、悪いことではないのだ。だけど、許されざる罪でなければ犯してもいいのか。そんなわけはない。許容してくれているだけで、罪は罪だし迷惑は迷惑だし、言いたいことのオンパレード。文句が出ないのは彼が大人だからか。真似できない。今の私では無理だ。いつの私ならできるのだろうか。人間として追いつけない。
ヤバい、めちゃくちゃ後悔してきた。言わなきゃよかった。その場の勢いよりも理性を大事にすべきだった。あの無音を思い出すと埋もれるしかない。今からでも謝りたいが、彼は仕事の真っ最中。ゴタゴタがあると言っていたので女性絡みではなさそうだけど、なんであっても忙しいのに変わりはない。すごい体力だ。
緊張すると酸素が足りなくなったり、ボーエーホンノーとかで眠くなったりするらしい。
あくびをかみ殺す。
時が来たようだ。こういう気持ちのことを、なんていうんだっけ。国語の勉強をしておくのだった。
窓を閉めて、足を動かす。やめればよかった。3秒ごとに悔やんでいる気がする。
しかし、私の心の論理的に制御できない部分は(……制御できる部分はあるのか?)、初めての体験と興奮によって恋の業というやつを感じていた。こんな私がカルマ・オブ・ラブを語るなど、私は世にいる恋する乙女に頭を下げて回るべきだ。
ベッドのそばで倒れて一生起きない、なんていうのもあり得ない話ではない。心臓とよくよく相談しながらすり足で近づき、そこでパチンと、胸の風船が割れた。
もう、なにもかも、どうでもいい!
やけっぱちであった。
私はなにを躊躇しているのだ。ここは好きな人の寝室であり、目の前には好きな人の寝具があり、私はそこに乗り込む権利を得ている(……善意につけこんでもぎとった?)。
ならば私がすることはなんだ。後ろを見る人生なんて楽しくない、面白くない、もったいない!考えない、顧みない、恋に従う。それが私の信条だ。この信条、毎回すっぽり忘れるので、一貫性があったためしがない。もともとはなんだったっけな。これじゃなかったことだけは確かだ。
さっきまでの足踏みがマボロシだったように乗り上げて、あ、と身体を戻す。枕がなかった。さすがにそれは刺されても文句が言えないかもしれない。……刺されるなら、言いたいけど。
けど、堂々めぐりの迷いを振り切ったとはいえ、もう一度同じことをするのは身体に悪そうだ。枕がなくても死なない。なんの問題もなかった。
というわけでそのまま隅っこにごろりと寝転び、感覚器官が麻痺したせいで、あるのかないのかもわからなくなった残り香的雰囲気に脳幹を締め付けられながら、目を閉じた。

うむ、そんなもの、眠れないに決まってる。
この状況ですかすか寝息を立てられるほど私は図太くない。心臓に生えた毛はとっくの昔に恋のレーザー脱毛を食らい、今や焼け野原よりひどい有様である。
人語を失った置物と化した私は、羞恥と多幸感と、大それたことをした自覚に押しつぶされそうになりながら、冴えまくった目と折り合いをつけようと手を尽くす。不眠でイライラする日も確かにあるが、こんなときにも眠れないなんて嫌になる。素晴らしすぎるシチュエーションを楽しみたいから、コウカンシンケイ、というやつの活動が全開なのだろうか。私の好みどストライクなあの男がヒャクセンレンマの妖怪だとするなら、私はそんな妖に釣られて自分から軽い頭を水に突っ込んで溺れる滑稽な女である。ハタチって年齢を重ねただけで到達できるけど、能力については別の話なんだなあってよく思う。20年ってなんだろう。合コンの盛り上げ方しか学んでない。
ただでさえダメな頭が、よりよくない方向に突っ走り始めた。さらに眠れない。こんな最高な夜なのに、逆に悪夢を見るかもしれない。
羊を数えて、76匹のところで必ず間違えて74匹に減少するトラブルを起こしながら、限界を超えたせいで故障した心に従って、ひざまくらに頬ずりしたパパをキモがれないような行動をとり、スティーブンのベッドで過ごす夜長をひたすら満喫していると、どこか、家の中の空気が変わった気がした。
不思議に思って、羊を消す。正体をつかもうとして息を殺すと、ぱちりと明かりのつく気配。次いで、誰かと電話する、聞きなれた、聞こえないはずの声。
私は凍りついた。
(帰ってこないって……言ったじゃん……!)
だから、できたのに。
ゴタゴタをあっさり解決できた有能な社畜により、私の計画は座礁した。船の底は初めから抜けていたけど、暗礁に乗り上げてはもう泥沼だ。
気まずいのに、動けない。これは私の欲望が強すぎるからではない。
部屋に気配が滑り込み、私は咄嗟に寝たふりをした。起き上がってソッコーで謝り倒して人間関係の修復を図ればよかったと気づいたのは、こちらの偽の寝顔を家主に覗き込まれた(……気がした)ときだった。やはり、私が選ばなかった選択が正解だったようだ。
寝たふりはバレていると思うのだが、彼はなにも言わなかった。それはそれで優しさが痛い。

ベッドの、私の逆側に体重がかかったのを感じ、通気性のいい度胸が吹き飛んだ。飛び起きて手を合わせる。
「ごめんなさい!すいませんでした!ホントに!……なんで帰ってきてるの!?」
「やることが片付いたからだよ」
「だ、だよね!」
中途半端で放置する人ではない。
私の顔は青ざめているはずだった。
「ホントにすみません!ほんと、ほんとに!もうしないから嫌いにならないでください!」
「君、そのままだと落ちるぞ」
「私には床がお似合いです」
「床に落ちた君をベッドに引っ張り上げるのが手間だから、それ以上、後ろに行かないでくれ」
「ヒイッ!引っ張り上げなくていいです!お邪魔しました!」
ベッドという名のサンクチュアリから飛び退くように降りて後ずさる。当たり前なのだけど、『あとは寝るだけ』といった様子のスティーブンからは、目がくらみ、喉が詰まり、耳まで熱くなってしまう、全方位を無差別に刺激する魅力が放たれていた。主観だ。
私は両手で顔を押さえてそっぽを向いた。彼の空気にあてられて、溶けて甘ったるいスープになりそうだ。私のアンテナの感度がおかしくて、本当はそれほどの話ではないのか?
彼は明かりを落とした。
「僕は寝るから、どうするのか、1分以内に決めて動いてもらえるかな」
「1分!……い、いや、その、私……」
口ごもると、スティーブンは嘆かわしそうに肩をすくめた。
「君が後悔しないなら、戻ろうが戻らまいが、僕はどっちでもいいんだけど」
「う」
「せっかくの機会なのにな」
「う……」
「君のことだから、二度と言い出せなくなったりして」
「うぐ……」
「面倒になった僕は、もう許可を出さないかもしれないのに」
「ううっ」
「あれからずっとやりたがっていた夢が叶うひと時を目の前に」
「う……う」
「君が策を弄して振り絞った勇気も無駄になる」
「ううあ」
「ここまで来られたのに出て行けるなんて、君は存外、理性的だ」
「あああ……」
私の膝は、笑うのを通り越して大爆笑だ。
母音しか出せない私に、スティーブンがあざとく首を振った。
「僕も頑張って仕事を片付けて、楽しみにして帰ってきたのに、こんな結果になるとはなあ」
「すみませんでした!お邪魔します!!」
欲望をくすぐられ、私は全面降伏した。白旗を掲げながら、ベッドの隅で膝立ちになる。
「ど、どこまでならオッケー?」
「邪魔になったらどかすから、深く考えなくていいよ」
「そのときは、ベッドから叩き落としてください」
「そうするよ」
「今だけはもっと雑に扱って!」
「僕を早く寝かせてくれ」
「すいません」
秘密組織の朝は変わらず訪れる。
布団にもぐり、小さく丸まって、汗をかいた手のひらで頬を冷ます。肌がじっとりするだけで、効果はなかった。
自分に負けて上目で隣を窺うと、あちらは私の存在なんぞは空気と変わらないと言いそうな態度でスマホを充電器につないでいた。私は呼吸するだけのデキの悪い彫像に徹しよう。
ああ、もし、もしも、こんな日に限って寝相が悪くなったらどうしよう。
ぞっと、不吉な考えが浮かぶ。
日常ではそこまでおかしくはない、はずだ。眠っている自分は知らないが、お布団が乱れたこともない。誰かに指摘された憶えもない。忘れているだけである可能性もなくはないけど。
別の意味でドキドキした。
「あの、変な寝方したらごめんなさい」
「困ったら起こす」
「うん」
困らせたくない、切実に。

絶対に眠れないから、せめてこのどストライクな男の寝顔を目に焼き付けよう、と徹夜する覚悟でいたのに、縛りから解き放たれて心がとろとろになったのか、好きな人の気配を触れるくらいの間近で感じて幸せにひたったためか、私は彼の横顔を見つめるうちに、自然と夢に沈んでいた。



の呼吸が規則正しくなり、スティーブンにそそがれていた視線が消える。
スティーブンからすると、彼女の寝顔は珍しいものではまったくない。彼女が家にいるときに彼が早めに帰宅すれば、10回に6回はソファの上で見られる。
そういうわけで彼は、特筆すべき感想は抱かなかった。
ただ、他者を招き入れる気などさらさらなかった場所に自分とは違うものがいると考えると、奇妙ではあった。煽ったのは彼自身なのだが、違和感や、なにかがちぐはぐになった心地がする。似たような経験は多いのに、どうにも首を傾げる理由は、ここが明らかなる彼の領域だからかもしれない。
スティーブンは身を起こし、ついさっきまで手に汗を握っていたにわずか、近づく。眺めていると、『異物』に対する境界線が徐々にあやふやになってゆく。たとえば本棚におさめたぴかぴかの新しい本が、やがて周囲と馴染むように。
なんとなしに、必要もないのに掛け布団の調子を直してやる。小さく身じろぎした彼女を見て、スティーブンは不意にしっくりきた。
その変移をとらえたわけではなかろうが、がうっすら、瞼を開いた。
距離の近さに混乱して血圧を上げるかと思いきや、彼女は動かなかった。しばらく、お互いに相手の動向をみる。
が喋った。
「好きです」
「なんだい急に」
「わかんない……。寝ないの?邪魔?蹴り落とす?」
「もう寝るし、蹴り落とさない。君の中の僕って、そこまでひどいやつなのか?」
手がのび、スティーブンの服をつかんだ。
「お眠りにあわせて、息して動いてあったかい抱き枕はどうですか!?」
「ありがたいけど、翌朝には『抱き枕』が自分の提案に殺されて冷たくなってる気がするよ」
「フクジョウシ?」
「うーん、たぶん違うな」
スティーブンは、の肩に手を滑らせた。自分のほうへ引き寄せる。『抱き枕』が、服をつかんだままの手に力を込めた。基本的に抵抗はされないので、スティーブンは構わずに進めた。彼女の身体は、止むを得ずこみ入った複雑な恋的要因により、ぽかぽかとあたたかかった。
が唇をかんだ。
「うう、好き。心臓痛い。スティーブンがヨユーで悔しさを感じる。実は全然ヨユーじゃなかったらいいのに!悔しい!気持ちいい!」
「僕も、実は全然余裕じゃないよ」
「あざといよぉ」
スティーブンの胸に、額が押し当てられる。
「……めんどくさくなったらどけてね」
「うん」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
会話も、言葉も、音も消える。
明け方まで寝室を包む、絹のような眠りの幕が下りる。
秒針の歩みすら聞こえず、かすかな衣擦れと呼吸のリズムが、暗闇の中の手がかりだった。

しかし、そうは言ったものの、ふたりとも、そのまま少し、目を開けたままでいた。


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