05
スティーブンが風邪をひいた2日後。バイト上がりの私を連行したザップさんは、一軒のお店の前で立ち止まり、深く息を吸い込んだ。小鼻が膨らみ、香ばしい肉と脂の匂いが彼の肺を満たすのがわかった。
光る看板には、ヘルサレムズ・ロットの雑多さが嘘のように整然とした漢字で店名が書かれる。
焼肉屋『上々苑』は、揺るぎない威圧感をもって私たちを迎えた。
怯むのは私だけで、ザップさんは陽気なものだ。
自分の取り分を減らしたくなかったのか、他の人を呼ばなかった彼は、お財布係の私を逃さないようガッシリと腕を掴んで席につく。これまた私が走り去らないよう、横並びである。自分が逃げるときは無理にでも通路側の椅子を選ぶのだろう。経験に即した判断というわけだ。ここまで来てザップさんを相手に逃げる気にはなれない私は、厳重すぎる囲み方に引き気味である。
「逃げないですよ」
「『酔ってない』って言うやつは酔ってんだよ。お前、生でいいよな?」
「できれば甘いものがいいです」
「スンマセーン、とりあえず中生と上タン塩と特上ロース、タレカルビ、ホルモン盛り合わせ、肉5種盛りで。いいよな、?」
「ビールひとつ赤サングリアに変えてください!」
店員さんが離れると、私の腕を掴んでいた手がこちらの肩に回った。揉むようにされて身をよじる。
「くすぐったい!」
「おいおい初っ端からビビんなよ。なんだよサングリアって。女子会と間違えてんのか?焼肉っつったらなんだ?」
「れ、冷麺」
全身でどつかれた。
「ビールとタバコだろーが。レオよりガキか?オメーの年齢は飾りか?いくつだ?」
「ハタチです……」
「20年は飾りかっつってんだよ」
「なんで飲んでもないのに絡んでくるんですかあ」
テーブルにジョッキとグラスが置かれ、炭に火が入れられ、私は地獄の始まりを予感する。鉛のような直感も、そういうときは必要以上に働くようだ。
「俺たちの友情と俺にカンパーイ」
「お友だちでしたっけ……」
「オトモダチだよ。どっからどう見てもオトモダチだよ。それ以外の何に見えんだ」
「なんだろ」
「即答できねえってこた、オトモダチなんだよ」
ザップさんのビールは氷が溶けるように無音でなくなった。追加注文が早い。
お酒が2杯消え、お肉が運ばれると、ザップさんはお肉を威嚇するようにトングを鳴らした。ひとつを私に押し付ける。
お皿は何枚もあり、お肉もたっぷりだ。赤みが綺麗で、脂の色も品がよく見える。お肉の良し悪しの判断方法には詳しくなくてもひと目でわかる。ザップさんが一度も見せてくれないメニューに書かれているであろう品物の金額を考えると、食べる前から胸が焼けた。
「どれから食べるんですか?」
「どれから食いてえの?」
「えっ!」
私の意見を聞いているのか。
「それなら、カルビ……」
「タンから行くか」
「そうなると思いました!」
優しさに期待した私が愚かだった。この人の話は聞くまい。ふてくされて手に取ったサングリアの進みが遅い、と因縁をつけられ流し込むように飲まされて溺れ死ぬかと思った。ゲホゲホ言いながら、お肉の焼けるいい匂いを嗅ぐ。トラウマになりはしないか。
ザップさんは私のためにビールの注文を入れてくれた。真実はもちろん、私のためではない。このビールもまた、テンションが爆発的に上昇したザップさんによってえんやこらと飲まされる。私も他人のことは言えないが、他人のお金で他人に施しをしないでほしい、ような。
焼けた肉はザップさんが1枚1枚、おいしそうに食べていく。彼の横顔は楽しそうで、おいしいものを食べるときはみんな無邪気になるのだなと思わせた。そして追加注文も無邪気になされる。空いたお皿が重ねられ、新しいものがテーブルの隙間を埋める。私はまだお酒しか飲めていない。
「私も食べていいですか?」
「食うなって言われんのわかってて訊くなよ。許されなきゃ何もしねえのか?オメー、食いたきゃ自分から取りに来い。そんなんじゃサバンナで生きていけねえぞ」
「な、なんか良いことを言われた気がする。ありがとうございます」
「人生の教訓ってやつだよ。今、感動したよな?んじゃあレバー追加で」
「感動してなくても追加するくせに!」
細い身体のどこに入るのだろう。
お腹は張っていっているようだが、目立つほどでもない。
私も、お肉に添えられた玉ねぎなどを焼いて細々と食べる。1玉ねぎにつき0.3ビールを強要されるので、空腹を満たすことができず切なかった。
「私、あんまり飲めないんです」
ザップさんを前にして弱みを見せるのはどうかと思ったが、際限なく詰め込まれそうだったのでグラスを押さえる。お酒でお腹いっぱいにはなりたくないし、そんなことをしたら頭が風船みたいにどこかへ飛んで行ってしまう。
「そーいやそうだったっけな」
以前の飲み会を憶えていたらしく、ザップさんは物分かりのいい顔をした。ホッとすると、首に腕が回って抱き寄せるように締め上げられる。レオは普段こんなふうにされているのか、と知りたくなかったことを知る。
「チマチマやってっからだよ。いいか、物事には勢いってモンがある。勢いに乗りゃあなんとかなんだよ。甘いのが好きなら乳酸菌と同盟でも結んどけ。カルピスサワー!」
彼が声を張り上げて、すぐにジョッキがテーブルに置かれた。私はもう、金額はどうでもいいから早く帰りたくて仕方がなかった。どんなにいびられても断ればよかったかもしれない。いや、でもこのひと時を耐えるのと一生いびられるのなら、ひと時を耐えたほうがマシな気もする。飲み過ぎたらトイレで吐こう。
「イーッキ!イーッキ!」
「やだ!」
「つべこべ言わずに飲めよ。オメーしかいねえからわざわざこうしてこのザップさまが気にかけてやってんだぜ。レオがいりゃあなァ、あいつの前に肉チラつかせてやんのにな」
別の意味で、ここにレオがいてくれたらな、と思った。レオの代わりか、私の前に特上カルビをチラつかせるザップさんは、私の手には負えない。
「で、オメーは食わねえの?うめえぞ、上々苑。こんな機会でもなきゃあ来ねえだろ。食っとけよ」
「横から取らないですか?」
「バッカお前、ンなもん取られる前に食え」
「はい」
難易度が高い。
お肉から脂がしたたり落ち、炭火がそれを舐める。燃え上がりそうな火は氷で抑えた。私のトングはもっぱら、お肉ではなく火消しのために使われている。こんな気回しはしたことがなかったが、誰もやらないのだから私がやるしかない。人間はこうやって強くなるのかもしれない。もっと段階を踏みたかった。
ザップさんの口に入るお肉はとてもおいしそうだったし、とっておきにと確保していたらしい肉切れを焼くときの彼は(……確保しなくても誰も取らないのに)、ドキリとするくらい真剣な表情をしていた。イケメンだ。イケメンの顔を見ると、荒んだ心が癒される。荒ませているのはそのイケメンなのだが。
イケメンに奪われないように気をつけながら、初めて焼けたカルビを食べる。舌の上に肉汁が広がり、拳を握るほどおいしかった。
「おいしい!」
「だろォ?」
「なんでザップさんが勝ち誇ってるんですか?」
「俺がここに来ようって提案したんだろが。俺の手柄だよ。……ギアラ1皿!」
「そ、そうかなあ……」
味の余韻を楽しみたかったのだが、ひと通りの目立つメニューを食べ尽くしたザップさんにより、カルピスサワーのジョッキを唇に押し付けられる。
「私で暇つぶししないでください!」
「俺の酒が飲めねーのか?あ?友情の崩壊か?」
「最初からそんなのなかったじゃん!」
服にこぼれると困るので、飲まざるを得ない。
サングリアと、ビールと、カルピスサワー。
1杯の量が多く、ペースも速いため、アルコールの回りが激しい。腕時計を見ると、まだ1時間半しか経っていなかった。バイト終わりが20時で、移動時間もあったので、もうすぐ22時になる。
ハッとした。
「やばっ!ザップさん、ちょっとすいません!メール打っていいですか?」
カバンを漁ると、ザップさんが面白そうに私の手元を覗き込む。
「誰にだよ?浮気相手か?」
「その話ってまだ続いてるんですか!?浮気じゃないです!スティーブンにメール!」
「オイふざけんな、呼ぶなよ!?ぜってー呼ぶなよ!?肉が冷めるわ!!」
「呼びませんよ!22時を過ぎそうだったら連絡しなきゃなんです」
「あの人ァオメーの親父か?」
急いでメールを立ち上げる。
どう書けばいいのか迷い、隣を見上げた。
「あの、なんて書いたらいいんでしょう」
「メシ食ってるって書けよ。ありのままに行けよ」
「誰と?って話になるじゃないですか」
「ならねえよ。オメーいくつだ?」
「ハタチです」
「ティーンならまだしもよォ。……ビビンバ食う?」
「くれるんですか!ちょっとください」
当たり障りのない文面をつくると、ザップさんが私の手首ごとスマホの画面を自分に向けてガッツリ見てきて腕を痛めそうだった。レオへの優しさを私にもちょっとまわしてほしい。優しいのかは知らないけど。レオの耐久性がすごすぎるだけかもしれないけど。
「よし、俺の名前も上々苑のことも書かれてねえな」
長い指が勝手に送信ボタンを押した。私のケータイなのに。
「なんでそこまで秘密にするんですか?」
何度も問いかけたことだ。
ザップさんは、理解力のない私に顔を寄せ、お酒くさい息を吹きかけた。
「オメーの金で俺がしこたま肉食ってるって知られたらメンドウなんだよ。カツアゲしてんなって止められるかもしれんだろが。上々苑の肉は邪魔されたくねえから、終わるまで黙ってろ」
しこたまお肉を食べるカツアゲだという自覚はあったんですか?そこにびっくりした。
「終わったら言っていい?」
「終わったらな」
「お肉を取られる心配がないから?」
「そーだよ」
ここまで居直ったカツアゲは最低に清々しい。帰りたい。
早く終わらないかなあと思ったが、夜は始まったばかりらしい。
「テッペン超えてからが本番だ」
「テッペン?」
「日付超えるっつーことだよ。なんで俺がお前の辞書になってんだ。……中落ちカルビ!あと大生2!」
「いち!1でいいです!」
悲鳴虚しく、配られた大ジョッキはふたつあった。無理やり握らされ、ガラスをぶつけられる。あふれんばかりの黄金色ときめ細やかな泡は、味がわかる人にはスイゼンの1杯なのだろう。私はビールのおいしさがわからないので、苦い顔になる。
「うまそうに飲めよ」
イチャモンをつけられた。
中落ちカルビに火が通る、熟した匂いが胃袋をくすぐる。
「お腹すきました……」
「テメーで頼みゃあ取らねえよ」
「え!?」
信じられない。
メニューを開いて目を動かす。予想よりも金額がお手ごろで脱力した。お肉よりもお酒が高いようだ。かぱかぱと飲む人とは来たくない。ザップさんのことである。無理やり同行者に飲ませる人とも来たくない。ザップさんのことである。わかりきった話だが、ザップさんとは来たくなかった。
しかしお肉はおいしかったし、驚異的なスピードで提供された冷麺も食欲をそそる。冷たいスープが心にしみた。
「おいしいー!」
「マジか。どんな味だ?」
「まろやかで、ちょっと酸味があって、冷たくてつるつるです」
「何ひとつとして伝わらねえ」
銀色のお箸が、無遠慮に突っ込まれた。
「あー!取らないって言ったのに!」
「味見だよ味見!うめーなコレ!、お前、俺がもう一個おんなじのを頼むのと、お前が俺にそれを献上するのと、どっちがいいか財布と相談してみろよ」
「……あげる……」
手に入れかけた食事を失い、ついでに傷口に塩を塗りたくるようにビールを飲まされ、そろそろ吐きそうだ。
「トイレ行ってきます」
「ん。カバン、ケータイ、財布。置いてけよ」
そんなことをしなくても私は逃げないのだが、ザップさんはこの手を使って逃げたことがあるのだろう。
店員さんに訊ねて着いたトイレで、まず吐こう!と試みたが無理だった。生理的な現象を自分で起こそうとするのは難しいみたいだ。虫を食べる自分をダメージ覚悟で想像して吐き気を生み出してみたが、普通に気持ち悪くなるだけだった。やらなきゃよかった。
くせで、髪型を整えたり服装の乱れを直したりしてから席に戻る。ザップさんは器を持って冷麺をすすりながら立ち上がり、私を壁際に押しやった。
「電話、鳴ってたぜ。番頭さんから」
「……え!?スティーブン!?」
言いつけられたことを思い出して、一瞬、心臓が強く跳ねた。電話には出なくては。
スマホの画面がお肉の脂でくすんでる!とショックを受けつつ、履歴からリダイヤルする。
3コールも鳴らずにつながった。
「ご、ごめんなさい、ちょっとトイレに行ってて」
「そんなに焦らなくていいよ。邪魔して悪いね」
テーブルの下で足を踏まれた。ムカッとして睨みつけると、焦りまくった私に爆笑するザップさんが電話する私の太ももを笑いに任せてたたいてくる。背中より肩よりお腹より、叩きやすい位置だ。ミニスカートなので痛いわ乱れるわで面倒くさかった。私も酔って気が立っている。電話を少し耳から離して、ザップさんを一度、叩き返した。
「ちょっと、もう、ほんっとやめてください!電話してるんですよ!してなくてもいやですけど!」
「減るもんじゃねーだろ。出し惜しみすんなよ。身体は触られてナンボだ」
「キモいセクハラ親父みたいなこと言ってる!あっ!しかも私の冷麺ホントに全部食べた!?」
「オメーが『差し上げますゥ』って自分から渡して来たんだぜ。自分の発言に責任持てよ」
「なんか所々で言い負かされてる……」
「つか電話してんじゃねえの?」
「あっやば」
私を叩くザップさんが悪いのではと文句を言いたくなったが、後にする。
「話が逸れてごめんなさい!えーと、どうしたの?メール、届いてる、よね?」
今は23時だ。届いていなかったら、もっと早くに連絡があるはず。
「ちゃんと届いてるよ。返信もした」
「ご、ごめんなさい、見てなかったです」
「知ってる」
私はメールの着信に気づけるように工夫を凝らすべきだ。
「その返信の内容なんだけど、何時くらいに帰るかの目処は立ってるかい?時間によっては迎えに行くよ」
スティーブンは仕事の合間で、区切りも見えているらしい。
一緒に帰りたい。
ものすごーく一緒に帰りたい。
私はザップさんを見た。ザップさんは私に構わず、ふたりぶんのビールをお代わりした。私はいいです、と必死でアピールしたが、意味はなかった。
小声でザップさんに呼びかける。
「何時くらいまで続くんですか、これ!」
「こんなんは序の口だ。朝まで帰りませんって言っときゃ誤差は6時間で済む。フカしとけ」
「何を言っているのかわかんないです」
具体的な時間は教えてもらえなかった。
「えー、と。決まってないみたいです。ごめんなさい、先に帰って寝ててください。スティーブン、ほんとに、ほんっとに一緒に帰りたかったです……」
酔ったか、疲労か、理性が緩んで弱音が出た。相手はまだ仕事中なのに、勝手に飲みに出かけている私が愚痴を吐くのは迷惑だ。仕事中でなくても迷惑である。私なら夜中に同級生から突然の嘆きメールがきたら身構える。
スティーブンは良い人だ。真剣に受け止めて、心配してくれた。
「君、大丈夫なのか?誰と飲んでるんだ?」
言っても言わなくても、私にとって大変な事態に陥る気がするが、彼の優しさが乾いた私の心を励ました。頑張ろう。この焼肉でザップさんへの借りを(……借り……?)返して身軽になりたい。
「大丈夫です。ごめんなさい」
「……相手は?いつもの彼らじゃないのか?」
「……えーと……」
助けを求めると、ザップさんはいつの間にか頼んだらしいアイスクリームを食べながら、呆れ顔で私を責めた。
「まだ喋くってんのかよ。切れよ。イチャついてんのか?」
イチャついてないです、と眉根を寄せる。苛立ちはまだ残っており、些細な嫌がらせとして、彼の手元からアイスクリームをひったくって遠ざけた。
「足だけじゃなくて手癖もワリーのか、チャンは。……あっコラ!テッメ!電話中に俺のアイス食うなよ!!借金でお前のポケット満杯にすんぞ!!」
「こわっ!!」
アイスクリームは奪い返された。
電話の向こうで、スティーブンが「ザップだな」と正解を言い当てた。ここまで騒げば、そりゃあわかる。
バレました、とザップさんに教えると、彼は時計を見て舌打ちした。テッペンを超えられそうにないと思ったのかもしれない。
スティーブンが私に訊く。
「ザップと、他には?」
「他?……あ、私たちだけです」
「……ふたりか?」
「うん」
「もう一度訊くんだが、ザップと?」
「うん」
「ふたりきりで?」
「はい」
「何をしてるんだ?」
「えーと……、……替わります」
ザップさんにスマホを渡す。彼は目を細めてから、へらりと笑って応答した。
「スンマセーン、がどーしても俺とメシが食いたいって言うもんスから、メシ食ってました。近くッスよ。……え?名前?なんつったかなー、ああそうそう」
ザップさんは窓から外を見て、1ブロック以内の飲食店の名前を挙げた。
「え?あー、問題ないっす。終電過ぎたらタクらせ……、……あー、マジか。え?え?店、すぐそこッスよ?えー?あー、チェックし直さなくていいです。……あー、はい。うぃーす。じゃあ1時間後に前で。……ッス。へい。……あ、替わります?」
ザップさんが電話を持つ手をこちらに突き出した。私は完全に、お酒と空腹と謎の精神的疲弊でぐったりだ。
「おら、。なにへこたれてんだ。電話だよ電話。スターフェイズさん。早く切れよ。あと1時間しかねえぞ」
耳に押し当てられたので、そのまま受け取る。ザップさんがお酒とお肉をまた注文した。お酒には明らかに私の好みに合わせたと思われる名前が混じっている。飲ませる気しかない。
「あ、もしもし……」
「なあ、君、脅されてたのか?」
「えっ?」
「ザップに」
「そう……ではないはずなんだけど、ごり押しはされた、かなあ」
「押し切られた感想は?」
「二度とやりたくない!」
スティーブンがため息をついた。
「クラウス以外は全員そう言う。……ザップにも伝えたけど、1時間後に迎えに行くよ」
え!と、しきりに時計に目をやってしまう。
「ひとりで帰れるよ。ザップさんも、あと1時間でやめる、みたいなこと言ってたもん」
「うん。でも、1時間後の君はたぶん、帰れなくなってる」
「……えっ?私、どうなるの?」
「じゃあ、後で」
「えっ? ねえ、私どうなるの?スティーブン?」
電話は切れた。
お酒のグラスがやってくる。当然のように、ザップさんはそのうちのひとつを私に持たせた。
へべれけの彼に時おり逆ギレされながらお酒を勧められ、物理的に敵わない現実と精神的に抵抗できない状況と理不尽な理屈に逆らえず、私は先見のできる大人が言わんとしたことを理解した。
オーダーストップの時間が来たのをいいことに、お会計を済ませてしまう。肩の荷が下りた。
私は酔っていた。空になった(……させられた)グラスは数えたくない。
アルコール度数や重みでいうと、チェインさんと交わした名前もわからないお酒のほうがキツかったけど、下手な鉄砲ナントヤラ。お腹の中で色んなお酒が混ざっている。こういうの、よくないんじゃなかったっけ。
ザップさんも、タバコの吸い口を噛みながら宙を見る。たまにお腹をさすっていた。
「もう、これで、オッケーですよね?」
ザップさんは『あと一回くらいならむしれるかな』みたいな顔をした。勘弁してほしい。誠心誠意、懇願する。私のお財布事情よりも彼の金銭的余裕のほうがギュウギュウだと言うが、それはそれである。知らないです!と言いたいし、言った。お互いに酔っていて、ザップさんもいつもより寛容だった。態度はもちろん横柄だ。
「んじゃあケツでも揉ませろよ」
「やだよ!」
「まだスターフェイズさんセンヨウーとか抜かしてんのか?ちゃんと使ってんのか?」
「ザップさんに関係ありますか?」
「ほっとくと錆びんぞ」
ひどい言い方だ。どう錆びるんだろう。
背もたれに寄りかかり、ずるずると横に滑る。ザップさんに触るとお金がかかると魂に刷り込まれたため、彼とは反対のほうに傾いた。
壁にもたれて目を閉じる。今日1日で目にした光が、チカチカとまぶたの裏で点滅した。
「寝んのかよ」
「スティーブンが来たら起こしてください」
ザップさんは最後のお酒を飲んでから、「お」と言った。
「来た来た」
「え!?」
目を開けるとタバコの煙で燻られた。
「騙されてやんの。バーカバーカ。そんなタイミング良く来るわけねーだろ。ハーレクインの読みすぎか?」
「最低……。もうザップさんのことは信じない……」
また目を閉じる。
肩を思いっきり揺さぶられて頭がくらくらする。ぼやけた視界に、案の定というべきザップさんの顔が映る。
「うう、無理」
「この神的なイケメンを前にしてその言いぐさはなんだよ」
「どっちかっていうと顔は好みだけど、なにもかもが無理……」
ザップさんが肩をすくめた。
「スターフェイズさん、こいつダメっすね。錯乱してますわ」
焦点をずらして、ばちりと頭が覚醒した。
「正気を保ってるみたいで安心したよ」
「スティーブン」
立ち上がろうとしてよろめいた。テーブルに手をつく。スティーブンがハハハと笑った。
「ほら、やっぱりな」
「優しく受け止められたい……」
ザップさんが席を立ち、私も通路に出る。ふらつきは120%の配慮によって支えられた。
酔っているように見えたザップさんは、しっかりした足取りだ。
「ザップさんは平気なんですか?」
「そんじょそこらに転がってる尻の錆びたハタチとはちげーんだわ」
「錆びてないです!」
「君はザップじゃなくて足元を見て歩いてくれ」
「はい」
店を出て、外の空気に身体をさらす。常軌を逸した一晩だった。癒しを求め、すぐ近くの体温にすり寄っておく。
ザップさんが頭を掻いた。
「スターフェイズさん、ついでに俺も送ってってくださいよ」
「お前は恋人の家が近いだろ」
「なんで知ってんスか」
「なんでだろうな?……明日は二日酔いでも出て来いよ。おやすみ」
「どもー」
「ザップさん、おつかれさまでしたー……」
彼は片手を振った。
「また行ってやるからいつでも呼べよ。あと着拒解除しとけよ」
「……行って……『やる』!?『行ってやる』!?え!?」
聞き捨てならないが、追いかけるだけの気力はなかった。
スティーブンに寄りかかる。いつもは照れてできないことも、血の代わりにアルコールが通っていそうな頭ならできた。そして、彼は気遣いがとてつもないので、お仕事帰りの疲れた状態であっても受け止めてくれた。
調子づいて、『今ならいける……!』とそろりそろりと抱きついたが、何も言われなかった。それどころか抱き返され(……抱き返していただき!)、脳がふやけていなかったら、私はここで畏れ多さに飛びのいていただろう。
しかし、身体というのはおそらく、だいたいにおいて脳みそが支配しているものである。その脳みそはアルコールにひたっていて、本能がむき出しだった。
もう半歩、近づいた。
「すぐ帰る、すぐ帰ります。ごめんなさい。あと30秒だけ……」
背中をさすってくれる手は優しく、沈黙はちょっと気まずかった。
「お疲れなのに気持ち悪いことしてすみません」
「酔ってるんだなあと思っただけだよ」
「悪質でごめんなさい」
黙って頭の中で30秒を数えたが、そのカウントが正確だったとは、とても思えない。
そこからの記憶はあやふやで、どうにかシャワーを浴びて着替えて胃薬を飲んだ私は翌日、開口一番でスティーブンに謝罪した。迷惑のかけ方が半端ではなかった。
だけど彼は気にした様子もなく、「面白かったからいいよ」とあっさり話を切ってしまった。
「でも、信用できる知り合いであっても、僕やK・Kやチェインなんかの前でしか酔わないようには気をつけような」
なにかするらしい。何度か抱きついた記憶があるので、そのあたりだろうけど。悪癖だ。
「えーと、ザップさんは」
「信用できるか?」
どう答えていいかわからなくなったことが、一番の答えだった。
信用はしているのだが、『信用』のジャンルが違う気がする。
しどろもどろに説明すると、スティーブンは「ああ、わかるわかる」とビミョーに適当な返事をくれた。彼はザップさんをどう思っているんだろう。
ああ、でも、しかし。
これでザップさんとのゴチャゴチャしたつながりが流れたこともあり、私は今までよりは冷静に彼を見られるようになるかもしれない。
ここで、今朝確かめたお財布の軽さを思い出した。
……冷静に見ても、評価が変わらない可能性も、なくはない。
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