04
出勤(……といっていいものか)した家主が帰宅したのは、出かけてからそう時間も経たないうちのことだった。
カフェの改装をするのだとかでバイト先から臨時のお休みをもらった私は、スティーブンを見送ってからいつも通りソファに座り、ここで二度寝しようか、それとも真面目に読書にでも取り組もうか、はたまた気の迷いで購入してしまったテキストで英語の勉強に励もうかと1日の大まかな予定を立てる。優柔不断なのかやりたくないのか、選択には時間がかかったが、しばらくだらだらしてから勉強でもしてみようと心に決めてテレビをつけた。
朝に見たニュースがもう一度放送されている。今日は街のトラブルも目新しい事件もないようで、ニュースキャスターはどことなくつまらなそうだった。報道関係者としては、臨場感あふれる絵が撮れないと不満なのかもしれない。
ザッピングするうちに朝ドラ的なものにぶつかって、暇つぶしに眺める。短い時間で終わってしまうそれは、前後のストーリーを知らない私には退屈だったが、二度寝防止には良さそうだった。ドカンドカンという爆炎の演出が激しくて目に刺激がある。
ドラマはそのうちに終わり、また、代わり映えのない映像に切り替わる。面白くなくなったので電源を落とした。ただ単にだらだらするのも楽ではないと知ったのはこの世界にやって来てからだ。もう一生ぶんくらい、目一杯にだらけたからだろう。
仕方なくテキストを広げて目を通す。
難易度の低いものから始まっていて、私でも序盤はするすると解けた。ヴェデッドさんからもらった本や、スティーブンがくれた物語に鍛えられたリーディングは、多少ながら身についていたらしい。私にしてはすごい。リスニングはダメダメだが、長文を読めるようになったのは嬉しかった。こういった能力は受験が終わると頭からすっぽり抜けてしまうが、奇跡的に取り戻せたようだ。生活に密接していれば、皆無と思われていた根性も発揮できるということか。
そうやってシャーペンと消しゴムを静かに動かしていると、玄関の扉が開く音がした。素早く時計を見たが、家主が戻る時間では明らかになく、空き巣や強盗の疑いがよぎった。ゾッとして立ち上がり、空転する頭で逃げ道を考える。
一気に背筋を凍らせた私を見透かしたように、聞きなれた声が「ただいま」と言った。
拍子抜けだ。
「お、おかえりなさい……?」
帰宅の理由がわからず、戸惑いしか生まれない。姿を見て、その気持ちは強まった。なぜここにいるのだろう。それも、かなり疲れた様子で。
見た目的には変わらないのに、彼はどことなくかったるそうだった。
「連絡すれば良かったな」
「ううん、それはいいんだけど、どうしたの?」
スティーブンから飛び出した発言は、私の頭を綺麗に凍らせた。
「風邪をひいて、帰らされた」
無意識のうちに、上から下まで彼を見てしまう。
風邪?
風邪だと?
この、自己管理がすっごく行き届いていそうな人物が?
彼は絶句した私を置いて中へ進み、自室に入ってしばし出てこなかった。
我に返り、私は彼の部屋の前でおろおろと彼を待つ。
労働環境が闇っぽいあの秘密組織から帰らされるような風邪となると、ものすごいものなのではないだろうか。どうしたらいいんだろう。私が風邪をひいたときは、別の要因もあれど病院で点滴を入れられたけど、彼にもそれは必要なのか。やっぱり病気だし、診察は受けるべきなのでは。
部屋から出てきたスティーブンは、私の表情を笑い飛ばした。
「なんだいその顔。ただの風邪だよ」
とても頼りない顔をしていたのかもしれない。自分の頬に触れたが、よくわからなかった。
雛鳥がごとく病人の後を追って歩くと、彼は手際よくお水を用意し、薬箱を開けた。薬箱はとある事情からわかりやすい場所に置かれるようになり、取ってくれと言われれば私にも取り出せるのだが、そんなことは言われなかった。何もかもを自分で済ませるつもりらしい。
「なんかできることない?」
「静かにしててくれたらいいよ」
「すごい雑!……あっごめんなさい」
早速ダメだ。口を手で押さえる。
錠剤を飲む男は、風邪をひいていてもカッコよかった。
どういう薬なのか、パッケージを見る。私のいた世界のものと似ていた。ヘルサレムズ・ロットであっても、これに大きな違いはないようだ。成分表は、見たところで何が人界のもので何が異界のものなのかわからないので目が滑った。英語だと余計に難しい。
私の手からパッケージが抜き取られ、薬箱は元の場所に収まった。さらりとした動きにときめく暇もない。彼もたぶん、こちらの胸のドキドキなどはいつも以上にどうでもよく感じている。
「他になにかあったら言ってね。朝も言ったけど、私、今日は休みだから。買いものにも行けるよ」
「ああ、うん。そのときは頼むよ」
「……そばについて看病、というのは」
とんでもなく邪な気持ちは、表に出してから後悔した。具合の悪い人に言うものではない。慌てて首を振った。
「ないよね!ごめん!静かにしてるね」
「よろしく」
危ない危ない、ただでさえ不安定な好感度が失墜してしまう。
寝に行くスティーブンを見送った私は、広げたテキストの横に放置したスマホを手に取った。『風邪』、『看病』のワードで検索をかけたが、接近を暗に拒否された私にできることはなさそうだった。あの人は何もしてほしがらなそうだし、言われた通り、おとなしくするべきだ。
しかし、好きな人がぐったりしているのに(……してるのかな……)黙っているのもどうなのだろう。
画面を暗くし、経験のなさに困り果てる。咳も熱もありそうには見えなかったが、風邪のショショウジョウというやつは出ているはずだ。そうでなければ、誰か(……クラウスさん?)にバレて帰宅を命じられるはずがない。メンバーにうつしてしまうと考えて告白したのだろうか。でも、そういうタイプとも思えない。仲間に、主にクラウスさんに手間をかけさせるくらいなら、彼は初めから秘密組織に出勤したりはしないのでは。
もしかすると、仕事をするうちに自覚症状が表れたのかもしれない。秘密組織の活動にとても熱心な彼が退勤を選ぶくらいの風邪。本当に、私は放置して大丈夫か。こんな場合の対処法を知っておけばよかった。
悩んでいると、スマホが長く震えた。電話だ。相手はK・Kさんだった。
「もしもし、です」
「ちゃん。今、バイトは大丈夫?」
「はい。今日はお休みなので」
「そう。じゃあもしかしてあいつの家にいる?」
「はい」
彼女は私にスティーブンの事情を伝えるために電話をかけたようだった。もしも彼が私への連絡を怠ったら、バイトから戻った私が仰天するだろうと考えて。
「でも、知ってるなら話が早いわ」
K・Kさんが私を気遣った。
「風邪は、菌のほうがあの男を嫌がってすぐに治るとは思うけど、ちゃんがうつされちゃったら大変だから、できるだけ近寄らないようにしてね」
私への優しさをひとつまみくらいスティーブンに分けたほうがいいのでは、と思う。私が悟れないだけで、これは彼女なりの『心配』なのだろうか。あまりにも高度だ。私は形だけの了解を伝えた。同じ家にいるのだから、近づかなくてもうつってしまうことはあると思うのだが、万が一にも私が余波で風邪をひいたら、K・Kさんはスティーブンにどんな言葉をかけるのか。想像できるようで難しい。
あ、と思いつく。仕事のある彼女には申し訳ないが、ちょうどいいので訊いてしまおう。
「K・Kさん、訊きた、……お訊きしたいことがあるんですけど」
「寂しいから、もっと気安くしてね。何かしら?」
「私がスティーブンにできることって、何かありますか?看病って、どうやればいいのか、全然知らなくて……」
K・Kさんは予想通り、「ほっとけばいいのよ、あんなの」と口にしてから、食い下がる私に穏やかな声を向けた。
「だけど、そうね。心配する気持ちはわかるわ」
「スティーブンは、静かにしてればそれでいい、って感じだったんですけど、ちょっとでも手助けがしたくて」
「ワイワイしてるザップっちに結構厳しかったし、頭でも痛いのかしらね。私ももっと騒げば良かったわ。薬は飲んでた?」
付け加えられるひと言がキツい。
「飲んでました」
「それなら、寝てれば平気。お水は持ってた?」
「……たぶん?」
小さめのボトルとグラスを持っていた気がする。
「朝の食事は?」
「そういえば、あんまり食べてなかったです」
食欲がなかったのだと今ならわかる。そんな日もなくはなかろう、などと軽く見ていた自分が情けない。バイトのお休みに浮かれていた。
K・Kさんは、消沈した私を励ました。
「急なことでびっくりしたのね。殺しても死なないような男が風邪なんて思わないものね」
「う、まあ、はい」
イメージと違ったのは否定できない。私と共有でもしなければ、病気なんてしないと思っていた。
実は、知った今もぴんとこない。ひどく具合が悪そうには見えなかったからかな。『風邪』とはどうしようもなく苦しくて、不調は嫌でも浮かんでしまうものだと信じていた。
ポツリポツリと打ち明けると、K・Kさんはわざとらしくため息をついた。
「ははん。弱みなんて見せません、なんて顔してるんでしょーね。むっかつくー。嫌んなっちゃうわー。無理に見栄張ってんなら笑っちゃうわー」
「あの、なんでそんなに仲悪いんですか?」
「なんか気にくわないのよ。可愛げがないからかしらね」
曖昧な返事だ。説明すると長くなると思ったのか、私にはわからない話なのか本気でそんな感じなのか、なんか本気でそんな感じだったらスティーブンが可哀想になってくる。どんな態度をとってもダメっぽい。
「とりあえず、ちゃんは不安がらないで。いつもと同じようにしてたらいいの。病人は置物よ、置物。してほしいことがあったら言うでしょうし」
「わかりました。ありがとうございます。お忙しいのにごめんなさい」
「私からかけたのよ。それじゃあ、何かあったら言ってね」
「はい」
電話を切ると音が消える。まるで家の中には私以外の誰もいないみたいだ。
だが、と振り返る。この間にも、彼はぐったりしているのだ。
……たぶん。
私の風邪はすごかったし、ああいうものではないといいなあ、と地に足がつかない思いで紅茶を飲む。
ずっと眠っているのだろうか。まさか、仕事をしていたりして。それは身体に鞭を打ちすぎだ。
様子を窺うべきか悩み、何度も部屋のほうへ視線を動かす。集中できず、テキストはとっくの昔に閉じた。手持ち無沙汰に、アメコミ風の漫画を読んで時間を潰す。
何も要求はなく、私は静かに黙っているのが正しいのだろう。ゴムボールよりも弾みやすい頭だって、厳命されたことを守るくらいはできる。助けになれたら嬉しいとは思うが、邪魔にはなりたくない。そして私は何をしても絶対に邪魔になる。
悶々と漫画の台詞を追いかける。
その耳が小さな物音を拾った。
弾みやすいゴムボールが蹴られたように肩を跳ねさせ、立ち上がる。
「な、なんかする?私がする?」
「たぶん無理だからいいよ」
彼がトイレを指差したのを見て、「確かに!」と納得した。『たぶん』というより明らかに無理である。
紅茶のお代わりでも、とキッチンでケトルと向き合う。茶葉から出すのはもったいない。ティーバッグをカップに突っ込んで、待ち時間に冷蔵庫を開ける。やはり、私がどうこうできそうなものはない。夜にヴェデッドさんがやってくるのを待とう。私はどこまでも役立たずな同居人だった。
琥珀色はまだ薄い。
しゃがみこみ、暗所を覗き込む。ヴェデッドさんと私しか知らない瓶詰めのドライフルーツがそこにある。
お酒に漬かるフルーツの調子をどう見ればいいのかはさっぱりだが、シブい感じに染まっていた。普通に食べてもおいしいのかな。ラム酒の匂いは嗅覚を刺したが、味は違うのか?
よいしょ、と膝を伸ばして顔を上げ、悲鳴を喉で押し殺す。冷蔵庫から飲みものを取り出すスティーブンが不思議そうにこちらを見ていた。
「探しものか何かか?」
何をしていたかまでは視界に入らなかったようで救われる。
「そ、そうそう。そうなの。えー、どこかにお菓子を隠しておいたはずなんだけど、どこだったか忘れちゃって」
「ハムスターみたいなことをするんだな」
「ハムスターってそんなことするの?」
「そうらしいよ」
「へー」
良い評価なのだろうか、それは。決してハムスターを軽んじるわけではないけど、貶されている気がする。どこからどこまでがハムスターっぽい行動なのだろう。おやつを隠すところ?それとも隠したことを忘れるところかな。胸が痛い。
ティーバッグを引き上げて捨てる。
スティーブンが言った。
「砂糖は?」
無糖の紅茶が私っぽくなかったのかもしれない。首を振る。
「最近ちょっとダイエットしてるからやめてるんだ」
「そうかい」
フォローを入れたりしないのが逆に紳士的っぽい。それともだるくてやる気が出ないとか。もしかして、単純に私への扱いが雑なせい?キュンとしてしまったので、末期だと感じた。熱が出そうだ。
熱といえば。
「熱ある?」
「あっても、薬で下がったんじゃないかな」
「じゃあ、冷えピタとかはいらない?」
「うん。もっと手っ取り早いのがあるしね」
何かとんでもないものを乱用しているのでは?
いや、私の気のせいに違いない。あるいは秘密組織のメンバーにはウケるジョークのひとつだ。
「私、なにか役に立てないかな。……静かにはするから!」
「じゃあ僕の代わりにあのバカを殴ってきてくれ」
「誰?」
「ザップだよ。人が弱ってるのをいいことにイタ電の嵐だ。なんなんだあいつは?暇なのか?どうして暇なんだ?何があいつをそうさせるんだ?実際に用事はあるらしいが前置きが長い。細切れで実況してくるな。要点だけまとめて喋れ。今の僕によくそんなことができるな」
言うたびにイライラしていくのがわかった。このふたりの間に何があったのか、聞きたくない。きっと、時どき私のケータイにもかかってくる『上々苑』の催促の電話に似た部分があるのだろうなと察せた。話がまとまったので、ここ数日は音沙汰がないが。
私が笑えずにいると、「冗談だよ」と笑って髪を撫でられたが、トキメキと同時に、半分ほどは冗談ではなかったように思えた。
「僕はもう少し寝る。用事があったら呼んでいいかい?」
「もちろん!なんでもする!……できることなら!」
「ありがとう」
冷めた紅茶を持って、キッチンの明かりを落とす。
「お大事に」
彼と別れて、私は定位置に戻った。
漫画を開く手は、さっきよりも落ち着いていた。スティーブンといくつか会話ができたからだろう。熱もないと言う。ケータイの電源を切るわけにはいかないから、電話には困らせられるかもしれないが、また夜まで眠れば、もうちょっとくらいは良くなるかもしれない。
ゆっくり休めばいいのにと思ってしまうのは、私の考えが甘いゆえだ。
彼のお仕事の大切さとヤバさとそれへの姿勢はほんのりわかるようでもあるが。
社会って、大変だ。
ヴェデッドさんが来てくれると、話はとても早く進んだ。看病の仕方はさりげないのに手厚く、食事や身の回りのことへの気配りも細やかだ。身につけられればと観察したが、手際がよくて混乱した。
私は普通の夕食をとり、スティーブンはこちらには来ず、安静にしたまま消化によいものを食べたようだった。今日1日で完璧に治して明日から平常に戻る、秘密組織の根性しか感じられない。病み上がりを理由に連休がほしくなりそうな私は自分の小ささに震えた。
タイミングが悪く、キッチンで会ったきり、私は彼を見かけなかった。ヴェデッドさんによると、随分と快復したらしくて安堵する。彼も胸を撫で下ろしたはずだ。
シャワーを終えて、部屋で短く日記をつける。初めの初めにやってみてから気が向いたときにちまちまと書くためか、ノートはそれなりに溜まってきている。
『スティーブンの風邪』という一大事件を書き留めてからノートを片付け、眠る準備をする。
スマホを充電器につなぐ。一瞬光った画面は、暗転する直前に再び煌々とした。
点滅した名前を見て、あたふたしながら耳に当てる。
スティーブンの声がする。
「寝てたかい?」
「い、いえ、まだです。どうしたの?しんどい?……そ、添い寝しますか?」
「しなくていいよ。君にうつると困る」
「めんどくさいもんね」
私は一度、めちゃくちゃ迷惑をかけている。
「それで、えーと、なに?」
なんの用事も思いつかず、先読みができない浅さもあらわに質問する。
スティーブンの手腕は、風邪をひいていても強烈だった。
「君の声が聞きたくなった」
これは人類が発していい台詞か?
誰になら発言を許されるだろう。
答えはひとつ。掌握する赤い糸で投網ができそうなこの男である。
私はぱたりとベッドに倒れ込んだ。
あざとさに心臓を貫かれて黙り込む私を、貫いた本人が憂いた。
「君、ちゃんと呼吸できてるか?」
「できてないって言ったら人工呼吸してくれる?」
「残念ながら僕は風邪に苦しんでいて動けないから、電話を切って救急車を呼ぶよ」
「それじゃ間に合わない!切らないで!」
寝転んだまま、こっそりと困り果てる。
どんな話をすればいいの?私は話術に長けているとはとても言えない。
「なにを話したらいいかな?私がスティーブンをすごい好きな話?」
「そういえば、君のバイト先は改装するんだっけ?」
「カケラたりとも触れてくれない!」
私がヒートアップするという予測は正しい。
「1日で済む改装だからそんなに大きくは変わんないみたいだけど、テーブルとか椅子とかは新しくなるって言ってたよ。前よりも明るい雰囲気にしたいんだって。そういうのが流行ってるらしくて」
「マメだなあ」
「だよね。そのうち制服も変えるって話もあった」
「経営に意欲的だ。悪いけど、そうは見えなかったから意外だよ」
「ゴーイングマイウェイ?って感じだもんね」
計画を教わったときは驚いたものだ。そんな余裕があるのなら店員を増やせばいいのに、それはしないようだった。
寝返りを打つ。
「ねえ、風邪ひいたのってみんなにバレたの?」
「気づいてすぐ、バレる前に言った。拡がるとまずい。そしたら帰らせてくれてね」
「そうだよねー」
話題はここでふっつりと切れたが、私は気まずさをおぼえなかった。無音でいても、電話がつながっているから、どことない安心感がある。
しかし、声が聞きたいと所望されたのだから、喋らないといけないのか。
静寂に酔ったように頭がぼうっとする。あちらも私もなんにも話さない。これは私待ちだ。絶対にそうだ。どうしよう。
「えーと……」
時間を稼いで、知恵をしぼる。
「えーと、……えーとですね、スティーブンが好き」
「ああ、顔が?」
「顔もだけどね?」
平然と言われると、私がそこしか見てないみたいに聞こえてしまう。
「部屋に行ってお見舞いしたかったなー」
「素晴らしい気遣いだなあ、嬉しいよ。でも、『入っていいよ』と言ったとしても、君は入って来られない」
「う……、ごめんなさい……」
ドキドキしてしまって、お見舞いどころではなくなる。見抜かれていた。
「ね、あの、入れたらお部屋に入っていい?」
「入れるならね」
「じゃ、じゃあ、寝室で同衾も夢じゃない!?」
「君に懸かってるんだと思うよ」
「くう……っ!!」
立ちはだかる壁を乗り越えたい。
身震いした私に、「まあ」と言葉が続く。
「君が勇気を出した日に僕が帰らなかったら、君の頑張りは無駄になるけど」
「悲しい。でも命は救われそう」
その日にスティーブンがどこかの美人さんを相手にお仕事をしていたらどうしよう。傷が移らなくなってよかった。
「素顔だからこんなにダメなのかな?」
「性格じゃないか?」
「ダメってところを否定してほしかった!」
「ああ、ごめん。そうだよな。ダメな君も好きだよ」
「あー!リップサービスなのはわかってるのに胸が苦しい!今すぐ抱きしめてほしい!」
「僕も残念だよ、風邪さえひいてなければなあ」
「うう、心にもない発言をさせてしまってすいません」
限りないサービスであった。
枕に頭をのせる。
「……風邪、明日には良くなってるといいね」
家に彼の気配があると気分は上がるが、健康が一番だ。休日にならないお休みは、損をしたみたいになる。
「引き継ぎもせずに1日抜けたから、忙しくなりそうだ」
「そういうものなの?」
「そういうものだよ」
「私も社会に出たらわかるのかな。わかりたくない……!」
「向いてなさそうだ」
「なんか引っかかるけど私もそう思う!どんな職業も向いてなさそう!何が向いてるんだろ」
私が独白で締めてから、スティーブンはしばらく黙っていて、ふいに「あれ?」と不思議そうにした。
「なに?」
「言わないのか。ちょっと予想が外れた」
「なんの?」
「言うかなと思ったら言わなかった。たまにあるんだよな。返しも考えてたのに」
「私?」
「そう、君」
「なにが?」
「僕が説明したら面白みが減る」
「ちんぷんかんぷんだけど、スティーブンが私を笑おうとしたことだけはわかった」
その理由を読み取れない自分の限界を感じる。
眠りの挨拶は、電話をかけてきたほうが先に口にした。
私も同じことを言う。
「おやすみなさい」
「楽しかったよ」
彼はケアがうまい。私のほうが楽しんでいたのに。
ずっと通話状態だったスマホには熱がこもっていた。
ギュッと胸元を押さえる。
「ときめいた……」
スティーブンと長電話をしたことがあまりなかった私は、通話履歴の経過時間を確かめて思わずスクリーンショットを撮り、耳に残る響きに耐えきれずゴロゴロとベッドの上を転がった。
これすらも私をいじる計算のうちかもしれないが、だとしても、いい。とてもいい。余韻が気持ちよかった。
風邪はひいてほしくないけどこれはもっとやってくれないかな、と新たなエサを知った恋の獣は罪深い欲望を抱いた。
0823