03
黙ってイケメンの横顔を見ているとささくれが治る。心が痛めつけられていたわけではないけど、日々の癒しは大切だ。半身浴で身体をリラックスさせるのと同様に、整った顔立ちを眺めることもまた、心の洗濯だと思う。
頬に手を当てて呟いた。
「癒されるー」
ぼーっとする私とはまったく違うことをしていた彼は、ちらりと横目でこちらを見た。
「遠くから見ているぶんには、だろ?」
近づくと、触れたいような逃げたいような、心がバラバラになりかねない状態に置かれるので、適度な距離が精神の落ち着きにつながるのではなかろうか。あちらも、自分の時間を邪魔されたくはなかろう。何せ彼は常に忙しい身。お盆とお正月が一緒にやって来たような街を走り回る人なのだ。ザップさんは彼のことをよく『ブルーライトのお友だち』と呼ぶので、事務仕事のほうが多いのかもしれないが。体力を使う仕事であるのは間違いない。
癒しの恩恵にあずかるひとりとして、そんな彼の邪魔をしないよう、喉を潤す程度の動きしかとらないようにしているものの、視線を浴びるのもうるさく感じていたら申し訳ない。ぐっと目を逸らそうとしても、ついつい焦点があちらに向いてしまうのだ。当然、制御できない私が悪いのだが、彼が持つ非常なる吸引力にも問題があるような気がしてしまう。責任転嫁である。
恋のブラックホールに身を近づける。
「もうちょっと近づいて見つめてもいい?」
「いいよ」
あるとわかっている落とし穴に踏み込むような慎重さで椅子を動かした。距離が縮まると、自宅モードとお仕事モードが混じり合った凄絶な色気の濃さが増す。お仕事をしているのかはわからないが。
彼は何かのメモ用紙を眺めていた。近寄った私がそれに興味を持ったと察したようで、彼は2枚あるうちの片方を見せてくれた。アルファベットと記号が並ぶが、私の知る単語はなかった。
「英語?」
「そう。それと音標」
音標、と繰り返した私に、スティーブンはその意味を短く説明してくれた。ひとつ、ものを知った気分になる。
「なんかの暗号なの?お仕事のやつ?私が見ていいの?死なない?」
「どういうものなのかが気になって見てるだけ」
高度な暇つぶしだった。
クロスワードパズルを解くのが限界である私に、このような文字列をどうこうできるはずもない。早々にメモ用紙をスティーブンに返した。気にはなるけど、逆さまになっても解読は無理だ。
息抜きの時間にまで頭脳を駆使する彼を先ほどよりもずっと近くで眺めるうち、自分が調子にのっていくのがわかった。
「ついでに、て、手を握ってもいい?」
声は震えた。
「いいよ」
気合いは入れたが、胸が痛くなってきた。
ドキドキしながら伸ばした手に、体温の異なる手のひらがのせられる。無造作すぎて喉の奥が引きつった。
嬉しいのに、やってはいけないことをしてしまったような気になる。人の心は御しがたい。頭の中の理性を司る部分が致命的に麻痺した私でも、これには少し緊張した。手汗が滲みそうだ。成人した女子として、どうなのだろう。
「ご、ごめん、私、ちょっとすごい手汗が。あの、やり直していい?」
「いつものことだよ」
「いつもそうなの!?ごめんなさい!!」
私の評価は初めから土の下だったらしい。
ばつが悪く、一旦、なかったことにしようと腕を引く。しかし反対に向こうから手を握られ、狂った汗腺をリセットするチャンスは失われた。もうダメかもしれない、色々と。
女子としてのあれやこれやには目を瞑り、怖々と握り返す。
とてもときめくし嬉しいのだが、このお許しはこう軽々といただいてしまってよいものなのだろうか。ガードが甘くないか?そんなに接触してしまって大丈夫なのか?どこかからか押し寄せる影のような不安が、私の指先を落ち着かなくさせる。悪い気がしてきた。集中していたところを邪魔してしまったのは、やはりよくなかったのでは。
「私、邪魔じゃないですか?」
「邪魔だったら断るよ、僕は」
「そ、そうですよね」
やんわりと断られるのか、きっぱりと拒絶されるのか。図に乗った私が己の発言を後悔することに変わりはない。
つながれた手を見下ろす。
形のよい手は、私の前で無防備にさらけ出される。しっかりしていて、高所から落ちてもどこかに掴まって堪えられそうだ。まあこれは、地上に復帰できるかは別として、秘密組織のみんながやれそうではある。
すらりとした長い指には色気が詰まる。並の私では耐えきれない。どのような私ならば耐えることができるのだろう。ケーケンホーフで、テダレとまでは行かずともそれなりに己を磨いていればあるいは可能だったかもしれない。
改めて観察すると、初めて目にするもののようにも思える。そんなことはないのだが、こうしてまじまじと見ることは少ない。
私は片手を開き、比べてみた。
私と彼の間にはいくつもの違いがありすぎて、これがなんのためであるのかは判断できない。
もちろん、前々から感じてはいた。気づかないほうがおかしい。いかな私とてこれはわかる。
日本人と外国人の違いか、性別か、体格か、戦ったりする人と一般人の差か。
「大きさがかなり違うねー」
「そりゃそうだろ」
当たり前だ。同じなわけがない。でもちょっと感動する。
つないだ手を断腸の思いでほどき、代わりに手のひらを無理くり合わせると(……合わせていただくと)、その気持ちはいや増した。照れて頬も熱くなった。
「靴のサイズも全然違うしね、パーツが、こう、アレだよね」
「どれかな」
説明が下手にもほどがあり、何ひとつとして回答をお届けできない。
「身長の差?」
「それだけじゃないと思うよ」
「クラウスさんのほうが大きい?」
「うん」
「合わせたことある?」
「ないよ」
「まあ、見た目、おっきいもんね」
「彼にはうちの誰も勝てないんじゃないかなあ」
巨躯を思い出して、何度も首を振る。彼は全体的に何もかもが規格外だろう。ぱっと見ではちょっと怖い。睨まれたら気絶しそうだ。スティーブンに睨まれるのもかなり恐ろしいが、それとはまた別の方向に走る気がする。
それなのにあんなに穏やかで紳士的で、人を魅きつける。一度会ったら、様々な意味で忘れられない。
握手してくれたときの手もとても力強かったし、やっぱり彼が一番か。
合わせた手指に不埒な目を向けていると、手の角度がわずかにずらされた。長い指が、こちらの指の間に滑り込む。そのまま仕切り直すように握られる。
手のひらがカッと熱を持ち、これはヤバいと振りほどこうとするも、自明の理であるかのように離れない。私にできる抵抗は「あああ」と不明瞭に悲鳴を上げることだけだった。
「な、なんで」
「そういう流れだろ、これ」
「そ、そうなの?」
彼は平然としているので、どうやら私がおかしいようだ。本当にそうなのだろうか。無秩序に乱れた心を必死で押さえつける。手に釘付けだった視線を動かすと、にこりとあざとく微笑まれたので人生を儚んだ。殺意がなくとも人は死ぬ。
「君、汗がすごいよ」
「ホントにごめんなさい!!」
わかっているなら離してほしい。いやでも、離さないでほしくもある。恋する女として、これは許される範囲なのだろうか。
「き、嫌いになる?」
「嫌いにはならないけど、言ってて自分が傷つく質問はやめたらどうかな」
気遣いのある寛容なお答えだった。そうですね、と項垂れる。
でもこうなると、硬直していても仕方がない。私から見ると、これは貴重でありがたい状況なのだ。たとえ好きな人に手汗を指摘されたとしても、逃しがたい好機なのである。そーっと握り返すと、胸の奥のほうが恋の炎で焼け焦げそうになった。火災保険とかいうのはきくかな。確信できるが、顔は赤い。なぜ私はこうなってしまうのだろう。もっと、こう、余裕を持って触れ合いたい。
「明日からまた頑張れそう」
「そのエネルギーは何日くらい持つんだ?」
「ええっ、もしかして、答えによってはまたやってくれるの?定期的に!?」
「いや、気になっただけだよ」
「心をくすぐるのがうまい」
案の定というべきか、期待は綺麗に外された。わかってはいたが少し悔しい。歯噛みすると気が逸れて手汗がひいた。
これ以上騒ぐとこの時間が終わってしまいそうで、声を落とす。
「いつまで握っててくれる?」
スティーブンは時計を見た。釣られて、私も目を遣る。
「風呂に入りたいし、そろそろ離そうか」
そうは言いつつも離すタイミング自体はこちらに任せてくれるらしく、私はその情け深さにひれ伏すしかなかった。
物わかりよくなりたかったのだが、無念さが溢れたか、私の動きはやけにゆっくりだった。手のひらがスッとしたのは、たぶん汗のせいである。スティーブンにも同じ感覚を味わわせていると思うと心苦しく、拭くものを探したが、手近にはない。彼はあいた手を握ったり開いたりして、体温の名残と湿気を逃がしているようだった。顔向けができない。私の身体が頭の言うことを聞いてくれればいいのに、どうして情けないことになるのだろうか。手をつないでもらえただけで(……いただけただけで!)、私の頭にはポヤポヤとした桃色のお花畑が広がるらしい。ただでさえダメなオツムはもう、全滅だ。
彼はあっさりと、この数分の出来事から抜け出した。未練だらけなのは私だけだ。
「先に入るなら、行って来ていいよ」
お風呂の話である。心の切り替えが早い。そもそも、切り替えるほどの話ではなかったのだろう。こんなことは彼にとっての日常茶飯事、かつ些細な行為だ。こちらは精神を思い切りかき回されてあちらこちらへゴロゴロと転がっているのに、酸いも甘いも恋も別れも技術もあざとさもかみ分ける男はどこまでもテクニカル。天地ほどもレベルが違うと口惜しさも消える。私ってなんなんだろう。
……しかし、お風呂か。
こうなると、後悔を引きずらないことを標語とする私の提案はたったひとつだ。
胸を高鳴らせつつ「スティーブン!」と呼びかける。
「一緒に入る、というのは」
スティーブンはどこまでも自然体だった。
「そうしないと君がショックで倒れて救急搬送されてICUにぶち込まれそうだって言うなら、まあ、選択肢に入れてもいい」
「ICUってなに?」
「集中治療室」
選択肢に入れる気など、1パーセントもなさそうだった。
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