02
クラウスが翻訳した資料を読み返し、スティーブンは、「へえ」とどうでもよさそうに呟いた。
「どうかしたのかね、スティーブン? 『Dimension Charm』についての資料のようだが、何か訳におかしな部分があっただろうか」
「面白いものを見つけただけだよ。ほら、ここに。あ、少年も見るかい?」
「え、なんで僕……」
手招きで呼ばれたレオナルドは、立ち上がってスティーブンのデスクに近づいた。細かい字の並ぶファイルは、一連の事件の犯人がアジトに隠していた情報の集大成だ。あやふやな口述のものもあり、それなりの厚さを誇る。
指さされた箇所を読む。
「『言語翻訳の設定と解除』?」
「彼女と僕らが問題なく話せているのは、彼女が『呪われたまま』の翻訳機能のおかげだ。これはその設定方法と解除方法。あの犯人、『知らない』だなんて言ってたがきちんと書かれてるじゃないか。落書きレベルだけど。本当に一度もやったことがなくて効果がわからなかっただけか。そんな不出来な弟子じゃ師匠も報われないな」
「でもなんでそんなものがあるんですか?解除する必要って、あります?お互いにわからなくなるんですよね?」
「いや、わからなくなるのは異世界人だけだよ。内緒話には使えそうだ」
「なんてえぐいんだろう。本当の使い方ですかね、それ」
「さあ? 元々は、段階のひとつだったのかな」
「呪いの全面解除の、ですか」
異世界の死にやすさと状態異常の共有だけが、『Dimension Charm』の効果ではない。すべてを消し去るには、いくつかステップが必要だったのだろう、とレオナルドは首を動かした。これはそのうちの、些細で、重要な変更要素である。解除しても設定し直せる、というのが不思議なところだが、これがないと異常事態においても意思疎通がままならなくなって不便なことがあったのかもしれない。それとも善良な召喚者が(……こんな術を使う召喚者に善良な者がいるのかはわからないが)、異世界人が別の世界でも生きやすいように編み出したのかも。
「その解除方法ですか」
「うん」
「……さんに、やりませんよね?」
「やらないよ」
「じゃあなんでメモってるんですか?」
ペン先から黒色の軌跡が生まれ、2枚の紙にひとつずつ、『おまじない』が写し取られた。
使う気はない。言葉が通じなくなったところで、誰にも得はないからだ。すぐに戻せるとはいえ、ひと手間をかける必要はなく。
書き写したのは、以前に使った『おまじない』と合わせて、その意味を考えるためだった。どこぞの術式かはわからないが、今後、似たような事案が発生しないとは限らない。そのときに素早く何かしらの手を打てるよう、暇を見て謎解きに取り組むのも悪くはない。
説明を聞き、レオナルドは「はあ、そうですか」とぼんやり相槌を打った。
それ、暇つぶしですか?
賢明にも口には出さず、物申したい唇を引き結んで神妙な顔をした。
いつかに(……強制的に)開かれたそれが楽しかったのか、嬉しかったのか、それこそ暇であったのか。最近のがバイト先で連日の飲み会に付き合わされていると知り、ライブラの数人が再びの企画を持ち上げた。
ヘルサレムズ・ロットはいつでもざわつくし、騒動が起こるし、ときには度を超えたいざこざをおさめる必要もある。
つまり、秘密結社は地味に忙しい。
全員で出動すべき緊急事態にこそならないが、日々の繁忙に、一部のフラストレーションは溜まる一方だった。
酒は悩みを流し去る。
酒瓶を積んだカートを後輩に押させた青年がひとり。それはそれで、と乗った妙齢の女性がひとり。こいつの提案には乗りたくないけどそんな機会があるのもまあ悪くないかも、と思う美人がひとり。どうでもいいですけどそれってライブラ的にどうなんですか、と引く弟弟子がひとり。秘匿も仕事も何もあったものじゃないな、と呆れる男がひとり。
最後の関門も寛容だった。
「私は構わないと思うが、どうだろうか。無論、街が急変すれば中断せざるを得ないのだが、くんは我々と切って離せる存在ではない。これで彼女が癒されるというのなら、好ましい集まりだと思う」
「癒されるんでしょうか、さん」
「癒されはしないだろうな……」
「癒されますよォー、あいつ、俺らのこと大好きッスからね!ッシャ飲むぞオラー!!」
「久しぶりにちゃんに会えるわねー、元気かしら」
チェインが一歩、下がった。
「半数以上が不幸な気がしなくもないわ」
「誰が幸せになるんでしょう、これ」
ツェッドの声は喧騒に負けた。
バイト終わりに待ち伏せされたは、喜び勇むザップと、通夜に向かうようなレオナルドに連れられ、何度目かになる部屋へ迎え入れられた。
道中に話を聞いたため、待ち構えられていたことへの驚きは軽減されたが、ツワモノの揃うライブラの面々から放たれる無自覚の迫力には尻込みする。
ソファに座ったに、ウエルカムドリンクを装ったビール缶が渡される。挨拶もできないまま乾杯を唱和した彼らは、個性さまざまに酒を飲む。
「ちゃん、夕食は?」
「まだです。K・Kさんは、ご家族と一緒じゃなくていいんですか?」
「今日はみんな、ちょっとだけ帰りが遅いの。でも、あまり長居はしないで帰るわ。それまでよろしくね、ちゃん」
「は、はあ、よろしくお願いします」
まだ18時前だし、と時計を見て納得した顔のに、軽食が勧められた。空腹を埋めるよう、戸惑いがちに食べる姿を見守る顔は3つ。そのうちひとつは困り顔だ。レオナルドである。前に催された飲み会の惨劇が思い浮かぶ。いつの間にか抱き合っていた女性ふたりの姿は鮮烈だ。
その片方であるチェインが、サンドイッチに手を伸ばしがてら、ザップの足を踏んだ。
K・Kは立ち上がり、飲み終わってくしゃくしゃにされた空き缶を部屋の隅に捨てに行く。スティーブンのデスクの横を通り過ぎた。
そのとき、風をきった彼女に引き寄せられるように、一枚の紙が舞い落ちる。気づき、振り返ったK・Kは、それを拾い上げて、何気なく内容に目をやった。
「ごめん、落としちゃった。これあんたのよね?」
呼びかけられ、スティーブンが「ん?」と応じた。
「僕の机から落ちたなら、僕のだと思うよ。なんだっけ、それ」
「イヤミな言い方するわね。ええと、何か書いてあるわ」
スティーブンのデスクから落ちた、一枚のメモ用紙。
サッと、ある羅列がスティーブンとレオナルドの頭に走った。
「K・K、ちょっと待っ……」
「まさかそれ」
ふたりが慌てて制止するより早く、張りのある声がそれを読み上げた。
耳珍しい副官の狼狽えた声音に興味をそそられた場がわずかに静まり、『おまじない』はの耳に届いた。
響いた言の葉に、彼女自身は、自分に異変を感じなかった。知らない音に瞳を動かす。
脱力して椅子の背もたれに体重を預けた男は、「うん、悪かった。僕が悪かった。僕のせいだな、うん、悪かったよ」と呟いた。
それを聞き、理解できないことにあわを食ったのはだった。グラスから酒をこぼすのも構わず立ち上がる。
聞き覚えはある。授業だとか、映画だとか、耳にする機会はあった。
しかしここに来てからは、文章以外では触れなかった発音だ。
「……え、待って?なにか起こったの?」
「どうしたの、ちゃん?」
顔の青ざめ具合は全員から見えたが、彼女の背筋に冷や汗が伝いそうだと察したのはスティーブンだけだ。
ただならぬ空気に、K・Kがスティーブンに駆け寄った。
「ちょっと、ちょっと何?なんなの?ちゃんはどうしてびっくりしてるの?」
「僕に説明されるのと少年に説明されるののどっちがいい?」
「レオっち!お願い!」
「ブレないなこの人……」
えーとですね、とレオナルドはできるだけ簡潔に解説した。
唖然とするまともな反応の中に、異彩が混じる。
「マジでわかってねえのかコイツ。おーい、ー」
「え、え、呼びましたか?呼ばれましたか!?」
名前にだけ反応した姿は真実そのものであり、クラウスとスティーブン、レオナルドは、重々しく頷いた。彼らには彼女の喋る日本語が変わらず理解できるが、彼女には彼らの言葉がただの英語にしか聞こえない。そして彼女は英語が得意ではない。
K・Kが全身を震わせ、に飛びかかった。思い切り抱きつかれ謝罪を口にされたほうはたまらない。早口は部分的にしか聞き取れず、どう言えばいいのかもわからない。
「ホントに……、ホントに翻訳が消えちゃったのね……!でも大丈夫よ、できるだけゆっくり話すわ!難しいところがあったら聞き返して。何回だって言いなおすわ。それとも筆談のほうがいいのかしら。文字を読むことについては翻訳が効いてなくて、勉強したって言ってたわよね?それだったら紙とペンを持ってくるから」
「すぐに戻せるから安心してくれ、K・K。あと、全然ゆっくり話せてないよ」
「うう、今回ばっかりはあんたに『紛らわしい』って言えない……!ごめんなさいねちゃん……」
は目を回し、もう何が何やらといったふうで、誰に助けを求めるべきか強く悩んだ。
レオナルドが眉尻を下げた。
「スティーブンさん、あの、早く戻してあげないんですか?」
急かされたスティーブンは、責任感のためか名残惜しげに身体を離したK・Kの腕の中からを引っ張り出した。ザップは「もっと遊んでやろうぜ、何言ってもわかんねーんだから」と提案したが、3人ぶんの冷ややかな視線を食らって鼻を鳴らした。
この場で、翻訳機能の設定方法を口にできるのはスティーブンだけだ。レオナルドは一見しただけで、詳細に記憶してはいない。K・Kが持つ紙にも、解除のまじないの一文しかない。クラウスですら、スティーブンに任せる姿勢をとる。
不安たっぷりな異世界人に、彼は、誰もに好感を抱かれそうな笑みを向けた。優しいそれに、がホッと息をつく。彼に任せれば解決しそうだ、と安堵したのがよくわかった。
スティーブンは口を開いた。
飛び出すのは、まじないではなかった。
「そんなに怖がらなくても平気だよ。怖がった顔だって、泣きそうな顔だって、怒った顔だって、照れた顔だって、どんな表情をしていても君はとても可愛らしいけど、見るのならやっぱり笑顔がいい。君が笑っていると落ち着くし、心が和むからね。君が思うよりも僕は君を気にしているんだ。向かい合って話をしたい。君の声を聞いていたい。君をからかって、恥ずかしがる姿を見るのも、僕だけの特権だと思うと、君には悪いが嬉しいよ。君に『好きだ』と言われるたびに僕がどんな気持ちになっているか、きっと君は知らないだろうし、僕が言葉を尽くしても完全には伝わらないんだろう。それだけが少し残念だ。君と僕の間にはたくさんのことがあって、君につらい思いもさせてきた。前にも言ったように、僕は今だって君の知る通りの生活をしているし、今のところはやめるつもりがなくて、もしかすると僕がわからないだけで、君は嫌な気持ちを殺しているのかもしれない。それでも変わらず受け入れてくれて、僕を好きでいて、これからも受け入れようとする君を、僕はすごく尊敬している。こんなことを言える立場じゃないが、もう少しワガママを言ってほしいくらいなんだ。もちろん、できないことはある。だけど君の願いなら、できるかぎり叶えたい。君はきっと、そんなことをしたら僕に迷惑をかける、と思っているんだろうな。だけど僕は君に頼られたい。君が心配するような、気にする必要のない話じゃなくてね。いつかそれも含めて、君が僕の想いを受け入れてくれるときがくるといい。そうなるように、僕もあれこれ手を尽くすことにするよ。きっとすぐに、わからずにはいられなくなるだろう。でもそのくらいのステップなら僕が進めてもいいよな?僕は君より年上だし、たぶん君が言った通り君よりもキャパシティが大きいから、基本的には君のペースに合わせるつもりではあるけど。一歩か二歩か、君が呼吸困難を起こさない程度なら許されたいところだなあ。ハタチの君をつついて面白がっていても、僕は君のイメージよりは頑張り屋さんじゃないからね。早めに気づいてもらえると助かるよ。……ああ、そうだ、そのうち、デートでもしようか。行きたいところはふたりで考えよう。君と一緒なら、どんな場所でも楽しいだろうな。伝えようとするとだいたいすぐに逃げられてしまうけど、そして切ないことにそこまで信じてもらえていないけど、僕は君が大切だ。口にしたら君が倒れてしまいそうであまり言えないんだが、とても君が好きだよ」
スティーブンは異世界人の腕を取り、ひたと彼女の瞳を見つめたまま滔々と言いきった。
しばらく間を置き、異国語の奔流についてゆけなかったの曖昧な反応に満足したのか、クラウス主従以外の呆気にとられる面々に、色男はしゃあしゃあと首を振って笑ってみせた。K・Kが物理的に距離を取った。
「本当に通じてないんだな。いやあ、なかなか面白かった。じゃあ戻そうか」
「なんなのこいつ」
「なんだこの人!!」
「満喫し過ぎかよ」
「通じてたらが死んでたから、これはこれで良かったんじゃないかな」
「しかし、スティーブンの気持ちは伝わったのではないかね。こういうものに言語の壁はないと言う話もある」
「そ、それはそれで……」
ひとり置いてけぼりの異世界人が、得体の知れぬ空気に追い立てられるようにスティーブンの陰に隠れた。
「なんかもう何もかもが気に食わないからとっとと戻しなさい」
ドスの効いた美女の唸り声が取り立てると、スティーブンは何も見ず、幻想的な『おまじない』を唇で唱えた。
突如として消滅し、突如として蘇った翻訳機能に、が驚かないはずがない。
K・Kの言葉が日本語として聞こえ、彼女は心底から安堵した。
「わ、わかる!聞き取れる!なんで!?」
強い力で抱きしめられ、混乱は深まる一方だ。
「これは私のせいなの!ごめんねちゃん、この男の持ち物に怪しくないものはないってわかってたのに!迂闊だったわ……」
「どの流れでも僕が罵倒されるんだよな」
誰に同情すれば良いのかわからなくなったが、その対象はたったひとりである。
ザップが膝を打つ。
「くぅーっ!どうするよ、訳してやって翻訳代むしるしかねえよな?内容、憶えてるか?」
「憶えてません」
「記憶力がミジンコかよ。雌犬、オメーは?」
「憶えていても教えると思う?もし思ってるならその甘さにびっくりするんだけど。動物園のコアラもそこまで楽観的じゃないでしょ」
しかし、内容を知りたいのはザップだけではない。
長々と語りかけられた日本人も、クエスチョンでいっぱいだった。
原因と理由を呑み込んだあと、宥められたK・Kから新しいグラスを渡されたは、変わらぬ態度の男に訊いた。
「あの、さっき、なんて言ってたの?ごめんなさい、わかんなくて」
与えられた本を何冊も読むことで、文章はいくらか攻略できるようになっていたが、リスニングとなると話は別だ。
中身を記憶しきれなかったレオナルドとザップに、多少のキーワードは取り留めたチェインとツェッド。憶えていても言いたくないK・Kと、これは本人から聞くべきだろうと静観するリーダーに囲まれ、は推理した。
ものすごく褒められたか、ものすごく怒られたかのどちらかだろう。彼は穏やかな声音であったので好意的なものだと信じたいが、基本的には声を荒らげない人物であるので断定はできない。
スティーブンは明確には答えなかった。
「聞き逃すと悔しがりそうなことを言った」
「え!?なんで言葉が通じないときに言うの!?どんなこと?悔しがるってなに?」
助けを求められ、レオナルドは顔を背け、チェインは適当に首を振った。指先で宙にひとつ、マークを描く。
それを見て、は目を丸くした。
「……あっ!も、もしかして、まさか、ねえ、あの、愛とか囁いたりした?」
反対側から、ザップの野次馬的肯定が飛んだ。中立そうなクラウスも、と目が合うとこくりと首肯する。
「えええー!?」
悲鳴ののち、異世界人が途方にくれた。
「なんで私は英語ができないの?」
返答は、非常に端的である。
「勉強不足だからじゃないか?」
「正論!すいませんでした!」
ソファに沈んで悲嘆の湖に飛び込んだ彼女への慰めは、レオナルドの頭にはうまく浮かばなかった。
気の毒なのだが、このまま知らせずにいるほうが平穏で、静かであるような気がした。
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