01


珍しくもクラウスへの襲撃に先んじて領収書を提出したザップ・レンフロは、紙束を受け取って内容をぱらぱらと確認したスティーブン・A・スターフェイズの手元を覗き込む。
「今回はまともにハンコをもらったみたいで良かったよ。お前の領収書だけ飛ばすのは申し訳ないと前々から思ってたんだ」
「ウワー、この世で一番白々しい発言」
穏やかに言いながらもきちんと数枚を抜き取った彼は、ザップの目の前でそれを握りつぶした。ザップ曰くの『番頭』の呼び名は正しく、僅かな不正も見逃さない。あわよくば経費で切らせたかった出費を却下され、青年は大げさに首を振った。興味を失ってその場を離れ、意も隙も殺がれたので、全体重をかけてひと息でソファに腰を下ろす。椅子は短く悲鳴を上げたが、すぐに大人しくなってザップを受け入れた。
そんなザップを見下ろし、レオナルドが腰に手を当てる。
「だから無駄だって言ったんですよ。スティーブンさんの目を誤魔化せるわけがないじゃないですか」
「頼まぬピザは来ぬのだよ陰毛クン」
「なに言ってんですか、まったく……」
スティーブンは、呆れた顔のレオナルドに声をかけた。
「君は?」
「え?」
「領収書」
少年の顔が、困ったように歪んだ。指で頬をかく仕草は、彼を年齢よりも幼く見せる。
ここでの活動に必要だと思われるものに金を使うことがないので、渡せる紙は一枚もない。彼が正直に告げると、スティーブンは褒めることも責めることもせず、軽く相槌を打った。ないならば、それでいい。その姿勢を見倣わせたい人物が確実にひとり存在したので、そちらに視線を向けはしたが、口は開かない。1に対して10が返ってくるに違いないし、それらに20で対応する暇があるのなら、さっさと仕事を片づけてしまいたい。彼はできる限り規則正しい食生活を送り、睡眠をとりたいのだ。なにせ身体が資本である。
生活態度だけは誰の手本にもなれない青年は、「そーいや」と口を開いた。
「チビ、お前、スクエアのほうにある『天使の輪っか』ってホテル知ってっか?」
「チビじゃねーですよ」
反射的に言いながら、レオナルドは首を傾げた。
「知らないですね。スクエアって、そこのですよね?」
「おう。スターフェイズさんはどうッスか?」
面倒な話に巻き込まれる予感をおぼえる。しかしスティーブンは一応、頭の中で地図を開いた。
「知らないな」
「俺も知らなかったんですけど。こないだそこの前を通ったんですよ」
この間と言っても、つい2日前の話だ。
ちょっとした買い物を済ませるついでに通りに視線を送った彼は、ガラス戸越しに知り合いを見つけた。この中に知らぬものはいない、異世界から来た女の姿である。
控えめにネオンを輝かせる小さなホテルは、ザップから見て道路を挟んだ向こう側に建つ。縦長のそれは個人経営の雑貨屋とドラッグストアに挟まれ、雑多な通りの夜に似合わぬようで相応しい気配を漂わせる。
見上げると小窓がいくつかあったが、どれもが分厚いカーテンで隠され奥は見えない。目を凝らすとすりガラスだとわかった。カーテンがなくとも、見透かせなかっただろう。
レジの親父にせっつかれ、ポケットから金を取り出して品物と交換したザップは、好奇心に引き寄せられるまま凝視する。良好な視力はホテルの名が『天使の輪っか』であり、通常の宿泊施設の形を取りながらもどこか異界的で世俗的なピンク色に染まるその扉を異世界人がくぐる瞬間を間違いなくとらえた。
レオナルドはこのあたりで、ザップの笑みに雑誌を叩きつけて黙らせたい衝動にかられた。
雑誌などは片手で受け止めて殴り返せるだろう青年は、ぐっと身を乗り出す。レオナルドに耳打ちするふりをして、聞こえよがしに囁いた。
「男連れだったんだよ」
無手であった己を罵倒したのは久々だ。ちょうど板挟みになる位置に立っていた少年は頬をひきつらせた。ガムのように粘着質な笑みが、レオナルドの横をすり抜ける。受け止めたスティーブンは、「具合でも悪かったんじゃないか?」と言った。
これはザップの求める答えではない。いくらか動揺を誘いたかったのだが、男はどこまでも涼やかである。こいつはまたくだらない話を、と言いたげな表情が気に障る。
あからさまにふてくされた年上の姿に、レオナルドは胃が重くなるのを感じた。スティーブンが平静であることも少年の落ち着きを奪う。空気の色が真逆ほどに異なって思えた。
ザップの不満げな表情を無視し、スティーブンは興味を失ったように彼から目を逸らした。異論たっぷりな声が彼を追いかける。
「なんスか、その余裕? 男連れで夜のホテルですよ、あのチャンが? ちょっとくらいびっくりしましょうよ」
返事は簡潔である。
「彼女の目に僕以外が映るとは思えない」
「なんだこの人!?」
ふたりの声が重なった。
とてつもない発言に心を乱されたのはザップのほうだった。彼自身、あの異世界人に浮つくところがあるとは思えず、どうせバカバカしい理由でも隠れているのだろうとあたりをつけてはいたが、目の前の男の振る舞いは限りなく無風である。仮にも同居人であろうに。いやいや、もう少し重要な関係であろうに。
「でもこの台詞……、めちゃめちゃ似合う……」
レオナルドの呟きはザップにしか拾えなかったが、理性ではどうにもできない部分で、彼もこっそり同意する。金持ちが違法な薬を高額紙幣のストローで吸うような、頭に染み込む説得力がある。
もちろん、スティーブンはジョークでそのようなことを言ったわけではない。
ずっと傍で彼女を見ていればよくわかる。
どう考えても彼女には無理だ。何もかもが無理だ。
二枚舌を弄することも、彼に違和感を覚えさせずにいることも、平然と笑うことも、心移りを隠し通すことも、何もかもが、明らかに、不可能。そもそも実際に、あの目には自分以外の誰も映らないであろうと確信させるものがあった。
彼の言葉の裏にある歴然とした事実を読み取り、レオナルドも口元を手で覆った。無理だ。可哀想なほどに無理だ。
手を当てた顔を動かし、ちらりと傷跡を目に映し、ああ、でも、たぶん、とレオナルドはついでに思った。
その人物の頭には、心には、自在に動かせるいくつもの身体がおそらくある。
ヘルサレムズ・ロット。
クラウス。
ライブラ。
血界の眷属。
レオナルドの知らない仕事。
レオナルドにはわからない世界。
たとえば、日常。
そして、私生活。
彼はどれに対しても柔軟な対応を見せ、リーダーとは別の方向からレオナルドたちを牽引する存在だ。対応すべき事柄の数だけ、切り替えられる精神を持つのだろう。
そのうちにあるどれかひとつ。レオナルドがあるときに垣間見た、ちょっと奥まった部分。
(この人も片足突っ込みかけてるんじゃ……)
自然と眉尻が下がる。気疲れしたあのときを思い出した。
(ややや、まさかこの人に限って)
と、否定すると同時に浮かぶのは、頬杖をつく仕草だ。
(まだ持ってんのかなー、さんの写真……)
目は自然と、副官の電話を探したが、デスクの上には見当たらなかった。
視線に気づいて、スティーブンがレオナルドを見つめ返す。
「まだ何かあるのかな?」
「えっ!あ、いやいや、僕は最初から何も!」
考えを読み取られてしまいそうで、慌てて手を振る。
追及はなく、レオナルドは救われた。
「そうかい。じゃあ、そこのボンクラを頼んだよ」
「ボンクラってなんスか!?」
「辞書はそこだ、ザップ」
「ひでえ言いぐさ。ケツにつららを突っ込まれたレベルの冷ややかさだぜ、なあレオ」
「もっと言ってくださっていいと思いますけどね僕は。辞書はそこですよザップさん」
「調子乗んなよ」
引き締まった細身の腕が、ぎりぎりとレオナルドの腹を締め付けた。少年が自由のきく手で銀髪を掴むと、「ハゲたらどうしてくれんだ」とザップは彼よりも軽い身体をじゃれるように引き倒す。
朝からひどい騒がしさだ。クラウスには悪いが、とスティーブンは額を押さえる。
(クラウスには悪いが、挑みかかったあいつをぶちのめしてもらったほうが静かで良かったな)
常に標的となり、刺客を洩らさず叩きのめすクラウスは、紅茶を片手に喧騒を背にする。うるさがってはいないようで、黙って繊細な花弁の様子を見ていた。
スティーブンは束の間、同じようにカップを持ち上げ眼差しをやわらげる。クラウスの周りにはいつも一律な空気があり、それはスティーブンを和ませた。
ほわりとしたものを感じたからか、ひとしきりレオナルドをいじり倒したからか、ザップは少年から手を離して立ち上がった。
「なあ、ガキンチョ。お前、なんでが男とホテルに入ったんだと思うよ?」
「その話、まだ続けるんですか」
上体を起こしたレオナルドは、うんざりした顔でザップを睨んだ。ザップは意に介さない。
「ケツロンが出てねえだろが。このままじゃスターフェイズさんも浮かばれねえだろ?」
「僕を勝手に殺すなよ」
「スンマセン」
そのまま怒られればいいのに、と思った少年には気づかない。
ザップはレオナルドの抵抗を押さえ込み、ポケットを無理やりひっくり返してケータイ電話をもぎ取った。
「あー!何するんですか!」
チャンに電話する以外のナニに使うんだよ」
「自分の電話でしてくださいよ!」
「俺のは着拒されてんだわ」
「何したんだあんた!?」
着信拒否を設定した張本人は、時計を見て、異世界から来た彼女の不運を心にもなく嘆いてやった。今日は昼前に出ると言っていたから、お気に入りのソファで二度寝でもしているころなのではないだろうか。気持ちのいい時間を、よりにもよってあのザップ・レンフロに邪魔されるのだ。彼女の平穏な日常においてこれを哀憫せずに、何を憐れんでやれば良いのか。
だが、そんなスティーブンも、ザップとレオナルドのやりとりには耳を澄ませる。マルチタスクな男には、嫌でも聞こえてしまうというのも正しいのだが。
初めと同じように椅子に腰掛け、アドレス帳に登録された番号をタップして後輩の電話を耳に当てたザップは、尻で身体を押さえつけられどうしようもできずやきもきするレオナルドのため、といったふうに受話の音量を上げた。
電話がつながり、わざとらしい声が、遠いスティーブンの自宅に向けられる。
「よォ、。俺俺」
レオナルドの電話番号から聞こえたザップの声に、電話の相手が戸惑った。
「……ま、間に合ってます!」
「オイオイオイ、切んなよ。切ったら番頭がどうなるかわかんねえぜ」
「えっ、ど、どうなるの?」
「なんかこう……、B級映画ばりに爆発したりするんだよ。もしくは親指おっ立てて溶鉱炉に沈む」
「なんで!?」
「なんでだよ!!しねーよ!」
が起き上がる、もぞもぞした音を、感度のいいスマートフォンが拾った。
「寝てたのか?こんな時間まで?イイご身分だなオイ。こっちは朝から晩までせっせこせっせこハチみてえに働くってのに、のんきにぐうたら二度寝か?」
「う……、すいません。寝心地がいいソファなんです」
「どんなソファだよ。たけーのか?ポルトローナ・フラウか?」
「わかんない。スティーブンに訊いてください」
「まあどうでもいいわ」
「ホントになんなんですか!喉渇いたからお水飲んでいいですか!」
「あ?ダメだっつったらどうすんだ?」
「ええっ?……困りますけど……」
ザップが腹を抱えて笑い転げた。レオナルドの上で。風船が強くこすれたような悲鳴が上がった。
その間に飲みものを口にできたは、ザップが生き返るよりも先に用件を訊ねた。
彼がまともに答えるはずもないが、レオナルドだってこんな質問は口に出したくない。気まずいではないか。それも、猛烈に。
ひいひいと苦しげな呼吸音が途切れる。笑みの形はそのままだった。
「一昨日のことを訊きてえんだ、チャン」
「おととい?」
「オウ。夜、スクエアの近くにいただろ。アレだよ、ジャムステのある」
「ジャムステ?」
「食いモン屋だよ。オメーのバイト先から北東に……」
「あの、方角で言われてもわかんなくて」
「ホンット話通じねえな」
「す、すみません」
これは彼女が悪いのだろうか、とザップ以外に話を聞く男たちはが気の毒になった。
はしどろもどろに2日前の夜にいた場所の特徴を並べ、お互いの示すストリートが同じものであると突き合わせた。
「ホホーウ」
音声しか伝わらないはずだが、には不吉な舌舐めずりが見えた気がした。
銀髪の青年の声が弾む。
「そん時、誰かと一緒だっただろ。アイツ誰だよ?」
横目で窺われ、スティーブンは穏やか極まる笑顔を返した。声がデカい、と音もなく唇が動く。ザップは見なかったことにした。
答えはあっさりとよこされる。
「バイト先の人です」
「男だよな?」
「はい。見てたんですか?」
「めちゃくちゃ見てたぜ」
「声をかけてくれなくてよかったです!」
「なんだお前」
「ちょっとお金がなかったので……」
「オメーいつも金ねえな。持てよ。せびれよ。なんのための尻だよ。そんで俺に貢げよ」
「切っていいですか?」
「まーまー、待ちたまえ。大人のギャグが通じんやつだなチミは」
レオナルドは戦慄する。この人の怖いもの知らずぶりには、ある意味で頭が下がるところがなくもない。
冷静になってかぶりを振った。
やっぱり何も下がらない。
「なあ、その男とホテルに入ったよな?」
女の声が肯定した。軽い返事が気にくわないザップは声を太らせた。
「はああ?なんで入ってんだよ?浮気か?金目当てか?バイト先でゲロゲロな付き合いしてんじゃねえだろーな?オモシレーからもっとやれよ。お優しいザップさまが妥協してやっから、稼いだ金は8:2で俺が8な」
「浮気じゃないです。話すと長くなるんで……」
「いいから話せよ。番頭がSFXも真っ青な爆発見せんぞ」
「あの、さっきからそれ言ってますけどスティーブンそこにいるの?」
「いるわけねーだろ」
しゃあしゃあと言ってのける。スティーブンはクラウスと目を合わせ、「いないことにされるのはよくある」と肩をすくめた。自分でも、面倒なことが起きるといないふりをする。
「スターフェイズさんがいると都合が悪い話か?」
「いえ、近くにいるのにザップさんと話してたら邪魔だろうなと思っただけです」
「イイコぶりやがって。……んで?ナニしてたんだ?」
説明はとてもシンプルで、ザップにとってはつまらなく、レオナルドの安堵を呼ぶものだった。
「バイト先のその人、すごい浮気性で。カノジョと浮気相手の予定がかぶっちゃって修羅場になって、ケリをつけるために3人で顔を合わせてホテルで話し合おうってことになったらしいんですけど、そこにひとりで行くのが怖いからついてきてほしいって言われて、中まで付き添ったんです」
ザップが大きく舌打ちした。
スティーブンには別段、思うところはなかった。詳しくはもちろん知らなかったが、頼まれごとのたぐいだろうと予想はついていた。無理やり連れ込まれたのなら、迷惑と傍観と火付け役の極地で享楽にふけるザップ・レンフロも見逃しはしない。後が怖いからだ。彼は損得勘定には抜け目がない。
「そんだけか?」
「はい、そんだけ」
「スターフェイズさんに言ったか?」
「言ってないです」
「なんでだよ」
「その同僚の自業自得だけど、言いふらすことではないのでは」
「クソッ!育ちのいいお嬢さまかよ!マジでつまんねえやつだな!ボコられまくって頭のネジ飛んだか!?」
「ひどい!!」
ネジはもともと飛んでるかもしれないけど、と彼女は心の中で付け加えた。
「あ!ザップさん、変なデタラメは言わないでくださいね、スティーブンに!」
「たとえば?」
「えーと……、うーん、私が男の人とホテルに入って、朝帰りでした、みたいな。うっ、バカすぎて嫌われたらどうしよう……」
「朝帰りならバレるだろ常識的に考えて。あの人だぞ。強請りのタネにもできねえよ。もっとドロドロな展開を所望するぜ俺ぁ」
「確かにそうかも!もう切っていいですか?」
「俺が切るまで切んな」
「まだあるんですか!」
とレオナルドとスティーブンの心情が一致した。
もうひとつ、と、相手には見えもしないのに長い指が立つ。
「オメーんトコのカフェじゃあ野郎の店員を見かけねえけど、もしかするとその浮気クズだけか?」
「ク、クズ……」
レオナルドとスティーブンは足並みを揃えて、青年の常を思い返した。
隠す気のない裏側は、異世界人にも簡単に読み取れた。
「脅す気じゃないですよね?」
「それ以外にどうすんだ」
「じゃあ教えないです。おやすみなさい」
「バカヤロウ今何時だと思ってやがんだ!そうねだいたいねー、じゃねえよ!」
「何も言ってないのに!」
切られる寸前、またもやザップが引き止めた。今度は声を潜める。
「な、忘れてないよなチャン」
「ええ?」
訝かられ、腹立たしげに小声を険で尖らせる。
「『上々苑』だよ『上々苑』!」
「断ったじゃないですか!」
「無効だ無効。俺は日頃からオメーを助けてる。違うか?些細なご恩返しだよな?」
「そんなにお金ないんですー」
限界までしぼられたザップの声は聞こえずとも、受話音量の上げられた電話からは悲壮な声がわかりやすく響く。時おりあふれる殺しきれない怒声がレオナルドの頬に冷や汗を浮かばせる。下品な部分ではスティーブンがクラウスに話しかけることにより、余計なステップを踏み飛ばすきっかけを揉み消した。
「だから、テメエの比較的グンバツなカラダはなんのためにあんのかって訊いてんだよ!」
「比較的!?なにと!?」
「この俺だよ」
「土台が違うじゃないですか」
「つべこべ言わずに肉体労働でもぎ取って来い。もう呪われてねーんだし。その金は俺が誰よりも有効的に活用してやっから」
「ザップさんが爆発しますように!おやすみなさい!」
叩きつけるように電話が切れた。
レオナルドの顔に、彼の電話が落とされる。鼻にぶつかったそれを受け止め、少年が批難に喘いだ。上に乗る輩は重いし、顔は痛いし、胃もキリキリするし、朝から踏んだり蹴ったりだ。
「冗談の通じねえやつだぜ」
「僕はザップさんのお行儀が一世一代のポーズでありますようにと念じてますよ」
文句は右から左に抵抗なく流れ、室内は一気に静けさを取り戻した。
スティーブンはマウスに手をやる。やかましかったが、事情は呑み込めた。
彼女の行動に悪いところはあまりない。やりそうだとも思う。何かで釣られて土下座でもされたか、と予想もつく。彼はをよくわかっているので、これと言って、悩むことも怒ることも怪しむこともない。
ないのだが、いやはや、しかしまあ。
(それは大丈夫なのか?)
職場の男に頼まれたとはいえ、夜にホテルへ。
この出来事そのものは心なしか面白くない。
(なんというか、……そいつが嘘をついていたらどうするんだ?)
飲み会での『お持ち帰り』は警戒するくせに、そこは素直か、丸め込まれたか、見るからに男が本気で恐怖していたのか。
無駄な要素が9割を占める実りのない会話だったが、ひとつだけ、頭の端に留め置かれた。



18時を過ぎると、店内の客はひいてゆく。カフェで夕食をとる者もいるが、多くは家に帰るか、他の店へ移動するのだ。
すると店員は暇になり、必要もないのにテーブルを拭き直したり、椅子の位置を正したり、伝票の整理を始めたりする。
気の抜けた雰囲気はバックヤードにも伝わり、夜の15分休憩をとっていた成人男性と、仕事を上がり、着替えを済ませた成人女性は、だらだらと椅子に座って間食のクッキーを歯で割った。
「ピーク過ぎたね」
「どうせならピークのときに休憩行きたかったよ俺」
「それは無理でしょ」
バイト仲間からも『浮気男』として親しまれる青年は、このカフェに勤める唯一の男性店員だ。普段は厨房にいるが、夜は別の店員と交代して外に出る。このときも、帰るの代わりにフロアに立つはずだった。
がこの男にとある頼みごとをされた記憶は新しい。休憩時間のカフェラテ5杯ぶんの奢りをちらつかされ、土下座までされては、嫌な内容ながらも断りづらい。『やだよ!ひとりで行ってください!』と突っぱねても、身体に爆弾を巻かれ首筋にナイフを突きつけられたかのように怖がってパニックに陥り震える男に含むところはなさそうだったので、カフェラテ10杯を条件に仕方なく引き受けた。
は朝方の電話を思い出し、めんどくさいことにならなければいいなあとため息をつく。あのザップに知られて、良く転じたことは少ない気がした。電話の終わりに焼肉について了承させられたので、引き換えに黙っていてくれるとは思うが。
まだ時間もあるし、と疲労に負けてダイエットを休んだが2枚目のクッキーに手を出したところで、ばたばたとドアが開く。顔を出した店長が、彼女を手招いた。
「恋人さん来てるよ」
「え!なんでですか?」
「終わるまで待つつもりーとか言ってた」
「えー!」
「もう上がるって言っといたから早く行きな」
「ありがとうございます。じゃあ、お先に失礼します」
頭を下げたの肩を、店長が気安く叩いた。
引きずられるように休憩を終わらせられた男性店員も、と並んで店に戻る。詳細の明かされない大人なビジネスマンふうのハンサムな『恋人さん』と、甘さの抜けないハタチを満喫するの接触が気になるのか、店をまとめる立場でありながら、客がいないのをいいことに、店長も長身を見上げる。
「お疲れさまー。わざわざ迎えに来てくれたの?私を?ホントに?」
「わざわざってほどじゃないけど、そうだよ。どう嘘をつけばいいんだい」
「それもそうだ。ありがとう、すんごい嬉しい! 連絡くれてた?」
スマートフォンに光を入れたが、彼女のそれに通知はない。
「あれ? 悪い。送信ミスかな」
ここにレオナルドらがいれば、ホントかなあ、と言っただろう。
いなかったので、誰も何も反応しない。
「じゃあ、入れ違いにならなくてよかった」
「終わる時間は知ってるから、それは大丈夫だよ」
ところで、とスティーブンは温和な顔をの同僚に向けた。彼女が、ふたりの名前を紹介した。
「彼は、いつもは見かけないな。男性の店員は彼だけかい?」
「うん。普段はキッチンなの」
勢いに乗り、店長が男性店員を笑い飛ばした。
「こいつロクデナシで、浮気ばっかしてるんですわ。だからこの店で働く女の子にはみんな、コナかけられないように気をつけろって言うんですよ。でもその点、は心配なくていいですね。こんな素敵な恋人さんがいるんだから。なっ」
突如として背中を刺された店員はたまったものではないが、自らの行いを顧みると反論もできない。笑い声を乾かせた。
スティーブンが、「ああ」と頷く。
「君か」
どこか親しげに見える表情に、青年は無邪気に首を傾げた。
「え、なにがスか?」
「いや、ここの食事はうまいから。どんな人がつくっているのか気になってたんだ」
「あ、ありがとうございます!」
この言葉は、仕事に真面目に取り組む彼にとって、とても誇りに思えるものだった。
が手を振る。
「それじゃ、お先に失礼します。明日もよろしくお願いします」
「ん、気をつけてね。恋人さんに守ってもらえよー」
「うっ、すいません、すごいときめいてるのに、言われると照れます」
「琴線がわからんね。難しいやつだ」
「そんなところも可愛いんだけど、慣れてほしい気もするよ」
「ヒイッ、あざとい発言!殺しにきてる」
「琴線がわからんね」
恐縮したの身体に、するりと手が添えられる。誰よりも驚いたのはそうされたほうで、身体をこわばらせてあたふたしながらぎこちなく歩いた。嬉しいけれど、密着度が高くてどうしようもない。そんな顔だった。
スティーブンが店長と青年に別れを述べる。手慣れた作業に気後れした青年に、『恋人さん』は傷跡の目立つ顔でにこりと笑いかけた。通常ならば特別に注目を浴びるであろうその痕跡も、ここがヘルサレムズ・ロットであるためか、彼自身がそう錯覚させるのか、彼の一部として定着し切っているからか、このときも、誰の胸にも異質な印象を与えなかった。
「君も。また、彼女をよろしく頼むよ」
ガラス戸を押し開け、店を後にする男ともう一度目が合った。経験を感じさせる、柔らかい微笑みだ。
どこからどう見ても、ひっくり返したって、彼は温厚であった。
しかし、どのような感覚が働いたのか。

ふたりの姿が消えてから、青年は店長に、ぽかんとして問いかけた。
「あれ?なんか今、俺、あの人に釘刺されませんでした?」
「は?」
店長は遠慮なく眉根を寄せた。
「何言ってんの?あんな優良物件があんたにそんなことする理由がないだろ。なんの釘だよ?あんた、なんかイライラさせたんか?浮気男だからか?」
「店長ひでえ」
「事実じゃねーの。はい、仕事仕事」
青年は腕を組んだが、店長の言う通り、あの『優良物件』に念を押される理由は見当たらない。
結果だけ見れば男女並んで仲良くホテルに入ることになっていた2日前の夜に思い至れなかった青年は、まあ気のせいか、とすべてを綺麗に片付けた。


翌日、ぺらりと問いかけた。
「なあ、俺ってお前の恋人さんになんかした?」
は「ええー?」と頬に手を当てた。
「初対面じゃん。……じゃないですか」
「だよなー」
「なんかされたんですか?……されてましたっけ?」
「や、なんとなく、昨日、ちょっとドキドキしちゃってさ」
一拍の空白。のちに、甲高い声がバックヤードを切り裂いた。
「ええー!?ちょ、ちょっと!あの人にも浮気するの!?」
青年は思い切りの肩をどついた。
「しねーよ!!」
あらぬ誤解を受け、『恋人さん』のことは、頭から消えた。
ただ、あの笑顔は忘れられなさそうだな、と強く印象づいた。



0819