08
最近の私は、どこかおかしい。
なにか、すっごーく、運が悪い気がする。
どうでもいいところで躓いたのはともかくとして、バイト先で望まぬ派遣業務を強いられたり、ひとりだけ食あたりを起こしたりという目立ったものから、日常における些細な出来事まで、なんとなくおさまりが悪くて落ち着かない。
たとえば、バイトへ向かう途中でのこと。
まず、お財布を落とした。
来た道を焦って戻ると、お財布はあったものの中身が綺麗に抜かれていた。レオにアドバイスされた通り、こんなこともあろうかと必要最低限のお金しか入れていなかったのが救いだ。
次に、階段から落ちかけた。
何もない段で足を滑らせてあわや転落である。手すりに縋り付いて事なきを得たが、あの高さからでは、怪我は免れなかっただろう。
さらに、帰り道に水をぶっかけられた。
無防備に歩いていた私にも責任があるのかもしれないが、打ち水モドキをするときは周囲を見てほしいと切に思った。
加えて、パンプスの靴底がはがれた。
これは履きつぶしたと考えれば納得もできるが、タイミングが悪くてモヤモヤする。
ついでに、目の前に鉢植えが落下し砕け散った。一歩間違えば死んでいる。
違和感が強まり、よく気をつけ始めると、私をあざ笑うかのように、鍵が壊れ、空調の切れたトイレの個室に数時間閉じ込められた。
いよいよ外出にうんざりしたが、家の中でもやけに転びかける。それもまるで、助けの不在を狙うかのように、ひとりきりのときに限って。
他にも、強風でスカートがめくれたり、鋭利なものに服を引っ掛けて破ったり、買ったサンドイッチの具の量が詐欺レベルだったり、髪留めがプツリと切れたり、酔っ払いに絡まれたり、お客さんとぶつかって飲み物を落としたり、目の前で限定の飲み物が売り切れたり、肝心なときにペンのインクがなくなったり、本に落丁があったりと、細かいものを数え上げればキリがない。油断のならない、濃密な日々である。
なぜこうなってしまったのか、考えてみても答えは出ない。大好きな人と一緒に居られるという幸福の反動だろうか。世の中では、様々な均衡が保たれているらしい。私はその調節を受ける真っ最中だとか? 信心深くないので、この思いつきはすぐに捨てる。占いでもしてみるというのはどうだろう。異界のそれは当たりそうだ。
うーむ、それにしたって、ツイてない。
ため息をつく。私には似合わない仕草だ。
今日も、お昼に社割でドリアを食べようと思ったら急にお店が混んでてんてこまいになり、休憩時間が掻き消えた。代わりに、とそのぶん明日の休憩を増やしてくれるそうだが、そんなに時間が空いてもやることがない。
それにしたって、本当にツイてない。
笑えない極め付けは、これである。
どん、と背中に衝撃を受けてよろめいた。バランスを取ろうとふらついた身体が横からオッサンに押されてより傾く。
ぶつかる、と思った通り、私は大柄な男に体当たりする形になった。
「すみません!」
慌てて相手を見上げ、うっ、と怯む。眉が不機嫌そうに寄せられ、ピアスの刺さる唇の両端に力がこもる。咥えられたタバコのせいか、全身からどぎつくいかつい臭いが漂う。
人は見かけではないというが、この場合は見かけに違わぬ人物だった。ベルトに付けられた腰元のチェーンがじゃらりと鳴り、私を威嚇する。
己の危険信号に従って足を引くと、がしりと強く腕を掴まれた。これはデジャブ?それとも真実?こんなこと、前にも、あった、ような?
「おいおいお嬢ちゃん、ぶつかっといてスイマセンのひと言だけか?」
「あ、あの、ほんとにごめんなさい」
「態度がなってねえよ、態度が」
「そんなこと言われても」
取り巻きとおぼしき、ヒョロい男がふたり、私の両脇を囲んだ。辺りを見回したが、誰も立ち止まろうとはしない。この程度はヘルサレムズ・ロットの平穏だとでもいうつもりか。
「ちょっと来いよ、世の中の常識ってモンを教えてやる」
「あ、ああああ、ごめんなさいごめんなさい!」
悲鳴むなしく3人がかりで引きずられ、私は普段は使わない道に投げ込まれた。こんなこと、前にもあったような。嫌な記憶が過ぎり、今回は何も拾ってないのに、と泣きそうになる。これが『不運』のひと言で片付けられる話で終わるとは思えない。
退路を塞がれた私にできるのは、なけなしのお金を差し出すことくらいだったが、そんな必要もなくカバンをむしり取られた。ケータイだけはスカートのポケットに入れていたので、カバンの中身はお財布とハンカチだけである。
チンピラはお札を抜き取り、小銭をズボンのポケットにねじ込み、空っぽのお財布を投げ捨てて踏みにじった。
「ちょ、ちょっと」
窃盗のみならず、そこまでするか。
不運にも私がぶつかってしまったチンピラは、賭けで大損したばかりであり、非常に不機嫌だったらしい。そのようなことを断片的に口走りしキレた男らは、憂さ晴らしのためならば、多少の非道には躊躇しないのだった。
死にたくない私は、黙ってボコられるわけにはいかない。当たり前だ。どうにかして逃げなければ。
にじり寄るチンピラを制止するように手を動かすと、ヒョロい男がそれを掴んだ。ヒイッ、と可愛くない悲鳴が漏れる。
「いい指輪じゃねーか」
「恋人からのプレゼントか?ん?」
もらいものの幸運の指輪である。持ち主の危機においてもまったく働かない憎いやつだ。
指から『幸運』をもぎ取られ、輪っかはチンピラのリーダーに渡された。プラチナだと思い、気に入ったらしいが、たぶん違う。ザップさんがそんなものを私にくれるはずがない。しかし言えない。せめてそちらに気を取られているうちに、と個人的には賞賛すべき素早さでポケットに手を突っ込み、『死にそうになったらこれを壊せ』との言葉に従って地面に落とす。私が靴底を叩きつけるよりも先に、激情したチンピラがスマートフォンを踏み壊した。
爆発でも起こってくれないかなと思ったが、何も起こらなかった。
「ええ!?嘘!?」
ホントにただの情報保護目的か? 私は何を信じればいいの?え、え、どうしたら?
些細な抵抗が気に入らなかったチンピラに、ヘルサレムズ・ロットのパパ界隈においては残念極まりないらしい顔面を張られた。とても痛い。痛くて怖くて泣きそうだ。か弱い私は膝が笑っちゃってしょうがない。なんか、何も起こらないので自力で逃走しないといけないのだな、と理解した。そういう発破をかける意味があったのかもしれない。勘弁してよスティーブン。あの男に限って、そんなバカな。
壁に押し付けられたが、まったくもって嬉しくない。こういうのは、お願いだからイケメンから甘やかされながら楽しみたい。潤いが足りない。顔面のランクを50は上げてこいと言いたい。最近、いや、ヘルサレムズ・ロットでは、少ない自慢の体型は不幸を呼んでばかりだ。ヤバい、本当にヤバい。どうしよう。
「このアマ、余計なことしようとしやがって……」
「ちゃんと謝ったじゃん!お金あげたじゃん!帰してよ!」
「謝罪したことを自分からカサに着るってのはおかしいだろうがよ」
「なんでそこだけ正論なの!?」
確かに!としか言えない。浅はかですみません。こういうところに人間性が出るのだろうなと思った。
人として性格がよろしくないと判明しても、被害者は被害者である。ここ最近で、一生ぶんは暴力を振るわれたのでは、と感じるほど理不尽だ。ゴングはいつ止む?
そういえば先ほど、ものすごい痛みを食らって今も汗だくなのだが、力が入らずめちゃくちゃキツいところを見るに、もしかすると私は人生初の骨折を成し遂げたのかもしれない。あるいはヒビ。スティーブンと共有していたらあちらも独りでに骨が折れたのだろうか。色々な意味で、脚を使うお仕事なのに。
「ほんとやだ、ほんとやだ」
3人がかりは卑怯である。2人がかりにも勝てないのに、増やすなんてとんでもない。自傷したところで今やただ自分が痛いだけだし、どうすればいいのか。恐怖で吐きそうだ。理不尽な暴力には言いたいことしかない。けれど、言うだけの度胸も力もなく、私はただひたすらに、立派な一般女性として、命だけはとりとめたい気持ちでいっぱいになりながら世を儚んでいた。死にそうな気がする。どう考えてもこのままだと危険だ。もうすでに危険だけど!これ以上に!
何が悲しくてこんなくだらない死に方をしなくてはならないのか。『ドッキリ!』の札を持ってきてもらいたい。
けれどチンピラたちに優しさはないようで、ひと通り、暴力によって不健全に溜飲を下げると、こちらの懐をまさぐって隠し金がないか探し始めた。今度こそ、家の鍵くらいしか持っていないし、それは奪われるとちょっと困る。いやいや、もっと困ることはいっぱいあるのだが。このままだと困ることだらけで、埋もれてしまうくらいの窮地にごぼごぼと溺れたまま浮かび上がれなくなってしまう。
かと言って、私に何かができるわけでもない。言わずもがなである。
彼らにとってはストレス発散的な意味しか持たないので、殺す気こそなさそうだが、世の中にはうっかりミスという言葉がある。そのようなものは、ヘルサレムズ・ロットでは特段、取り上げられる話でもなく。
「こいつ、もうなんも持ってねッスね」
「ケッ、しけていやがる」
「どうします?」
「ツーホーされたところで、ここじゃあどうってこたねーしな。せっかくだし連れてくか?」
どこへかは訊きたくない。なんでかはもっと訊きたくない。せっかくってなに?
「みなまで言わせんなよ、照れるだろ……」
「なんでそういうところはシャイなの!?絶対おかしいよ!」
これって全部私が悪いのかな!?
死にやすい異世界人でありながらも、トリップ直後にトラックに撥ね飛ばされ道路の汚れと化さなかった自分の幸運さに強く願う。こんな理由で死にたくない。誰がどう考えたって嫌だ。
ちなみに残念なことに、傷の共有がなくなり、彼の中で私の優先順位がガタ落ちしたことがよくよくわかっていたので、某色男からの助けを望む気持ちはまったく表れなかった。それはそれで、どうなのか。
最近の私はすごーく『不運』であり、幸運の指輪を手に入れたチンピラはとっても『幸運』だった。これは、私なりの罵詈雑言である。
彼は私のカバンを、通りに向かって投げ捨てた。おそらく、利き手がそちら側だったからだろう。ストリートの地面に転がったカバンを、誰かが蹴り飛ばす。
それを親切にも拾い上げ、持ち主を探してくれた人がいた。
路地を覗き込んだ彼は、こちらを引っ張り上げようとするチンピラ3人と、「もうやだもうやだもうやだ」を繰り返すマシンと化した私を視界に入れ、カバンを持ったまま踏み込んだ。目が合い、ふたりとも目を見開いた。相手は驚愕に。私は歓喜に。
「……さん!?何をしているんですか!?……何をされているんですか!?」
強盗傷害殺人未遂以外の何に見えるのだろう。
私は干からびた声で叫んだ。
「ツェッド大好きもう無理たすけてお願いします!」
「おいテメー、ヒーロー気取っ……」
チンピラは最後まで言えないまま、私にはよくわからない何かに拘束され、叩きつけられて昏倒した。技の名前を教わったが、馴染みのない響きは記憶に残らなかった。
なんとあっけない。手を離された私はバランスを崩して地面に膝をついた。痛かった。
「……え?終わり?」
ヘルサレムズ・ロットの秘密組織が強すぎて怖い。
ツェッドは血を振り切るように両手を空け、膝をついて私を励ました。
「通報します。それから、さんは病院ですね。無事でよかった」
「あ、う、うん、お願いします……?」
無事ってなんだったっけ?私のつらさってなんだったっけ?
ツェッドの視線が、壊れた私のスマートフォンに向く。画面もケースもぐちゃぐちゃだ。
「見つけられてよかった」
ホッとしたような口調と内容に眉根を寄せる。
「な、なにが?」
「あれ……?壊しましたよね、電話?」
「はい」
正確には壊されたのだが、そう仕向けたという私の武勇伝にしておこう。
「ご存知ないんですか?さんの電話が壊されると、スターフェイズさんに通知が行くようになっているそうなんですが……」
不思議そうなツェッドは、私が存知の上で破壊を試みたと信じていたが。
「……知らない!!」
前もって言ってくれないから心の中でスティーブンに文句をつけてしまったではないか。それならそうと説明してくれれば。ドキドキする空気に流されて、詳しく訊ねなかった私の自業自得なのか。
「え、え、それで、なんでツェッドが?」
そこはこんな重要なメンバーではなく、もう少し手の空いていそうな人に依頼が行くのではないだろうか。だって、うっかり私がケータイを落として蹴ってトラックに轢かせてしまったらどうするのだ。お頭も注意も薄っぺらい私ならあり得ると、考えないわけがない。
「その電話、……以前からお使いですよね?」
「う、うん。あの、その話長くなる?すごい痛いんだけど……」
「すぐに救急車が来ますから、安心してください」
説明は嬉しいが、待ち時間の暇つぶしみたいだ。
「さんとスターフェイズさんがつながっているとき、さんに何かあってはいけない、ということで改造したそうです」
「そのときは『壊せ』なんて言われなかったよ」
指示されていれば楽に済んだことが確実にひとつあるのでは……、と盛大な疲労を感じる。
「あなたは外に出られませんでしたし、侵入や不審があればすぐに対応する準備もあったみたいですから。『迂闊に扱えないものである』と理解したあなたなら、うっかり壊さないよう、逆に自分から遠ざけてしまうだろう、と考えたそうです」
「ウーン、見透かされている」
そして外に出られるようになった現在、いざというときのために教えてくれた、と。情報保護のためじゃなかったらしい。信じなくてごめんなさい。
「えーと、それで、なんでツェッドが?スティーブンに通知が行くんでしょ?」
「待機していたとき、聞いたことのない音が鳴ったので内容を訊ねたら、さんのブザーだと答えてくれまして。あの人は有事に備えて基本的にはあそこに居ますから、では僕が、と。……スターフェイズさんは、『まさかこう立て続けにあるとは思わなかった』と言ってましたよ。作動するときがくるとは、と言いたげでした」
同感だ。
それから、さざ波のような喜びが打ち寄せる。
「わ、私のためにわざわざツェッドが……?」
それほど交流もないのに、自分から進んで助けに来てくれるなんて。
「すみません、実はバイトに行くためにちょうど出るところだったので、『わざわざ』というほどでもないんです。GPSもありましたし」
「なんでみんな嘘がつけないんだろう!」
秘密組織はフリーダムに正直だ。GPSってなんだっけ。
痛みを忘れたくて、口を動かす。
「ねー、バイト、なに?」
「大道芸……のようなものです」
「すごい! 私はカフェでバイトしてるの。今度来てよ!お礼に奢るから」
「レオくんが言っていたところですね。ありがとうございます。ぜひ伺います」
でも奢ってくれなくていいですよ、と続けられ、ザップさんとの違いを見た。
汚れも何も関係なく、ごろんと地面に横たわる。
「……すごい痛いんだけど……」
「すぐに救急車が……、あ、来ましたね」
「早く運ばれたい」
ツェッドは私を横抱きにし、路地から通りに連れ出してくれた。
これまでに感じたことのない触感だった。
もはや自室のような病室で、折れてはいなかった脚を伸ばしてやさぐれる。骨折ではないのは幸いだったし、ヤクザキックみたいなものも受けなかったが、治療のときは痛くて帰りたかった。細かい傷もしみる。女の顔を叩くなんて最低だ。暴力も最悪だ。司法の裁きを受けろと念じる。
忙しい人たちからの丁寧なお見舞いでは、ふらりと現れたチェインさんが「食べて元気出しなよ」と甘いものをくれ、K・Kさんが気晴らしの本をくれた。レオには泣きついて慰めてもらう。「顔が崩れる!最低!」と手を握ったら「大丈夫です!」と力強く励まされた。大丈夫なのは知っていたから、すごく頼り甲斐を感じた。
ツェッドは私に、紙の蝶をひらひらと舞わせて見せてくれた。とんでもなく癒される。最近の不運でくすんでいた心が晴れていくようだ。涙腺が緩む。泣きはしなかったが。
恒例となったクラウスさんからの花を渡してくれたのは、なんと、ザップさんだった。
「ボロ切れか?」
指先で花瓶を支えて遊ぶ姿は、真似できない器用さを表す。落とさないかハラハラした。そして口が悪い。
「ぶつかると絡まれんだっつーの」
「知ってます……」
「わかってんならなんか持っとけや。これからなんかあるたんびに毎回うるせーブザー鳴らされるとメーワクだからよ」
「そんなにうるさいんですか?ごめんなさい」
「トクベツな女からの着メロかと思ったらオメーなんだもんな」
それは、音量的には普通の着メロなのでは?
どんなメロディーだったのだろう。ザップさんの説明は大雑把で的を射ず、私の想像力ではうまく再生できなかった。
「あ、そうだ……。ザップさん、ごめんなさい」
「俺がオメーから金借りたのをスターフェイズさんに告げ口した謝罪か?」
「違うよ!してないよ!」
「んじゃあーなんだよ」
毛布の上から私の脚を叩いてくるので、反対側の脚で蹴ろうとすると「脚癖ワリーぞ」と怒られた。
「その、もらった指輪をなくしたんです」
チンピラに絡まれたとき、指輪は強奪された。しかし捕まった男たちの所持品にそれはなく、ツェッドによる攻撃の衝撃か、連行されるときの揉め事か何かでどこかへ行ってしまったのだと思われる。
せっかく、この人が、この人がくれたものなのに、申し訳ない。そしてもったいない。この人がくれたものなのに。この、ザップさんが。
もう一度謝ると、ザップさんはまた私の脚をノックする。
「指輪ァ?……ンなモン、なんで俺がオメーにやらなきゃなんねえんだよ?」
「……えっ!?忘れたんですか!?感動したのに!大事にしてたのに!」
「なんの指輪だよ?俺は結婚詐欺には手ェ出してねえぞ。たぶん。出してたとしてもオメーは選ばねえし」
ザップさんのことだから、盛大に嘆いて賠償でも要求してくるとばかり思っていたし、応じるだけの理由もあると構えていたのに。
優しさなのか、本気で忘れたのか。
「幸運の指輪ですよ。くれたじゃないですか」
ザップさんが私の脚の上に座ろうとしたので、急いで枕を投げつけた。片手で受け止めて投げ返される。顔に当たって痛かった。
「んあー……、憶えてねーけど、なくしたってんなら弁償しろよ」
「やっぱり来た」
向けられた手のひらに枕をぶつける。感謝と後悔が薄れ、払う気がかなりすり減った。
「つかオメー、幸運だったらこんなことにゃならねえだろ。パチモンだったんじゃねーの?」
言葉に詰まる。
幸運の指輪を嵌めていても、日々の出来事が好転したようには思えない。むしろ、どちらかといえば悪い方向に突き飛ばされ続けたのではないだろうか。地味な不運から、こんな不運まで。多彩な不幸に見舞われた数日だった。
しかし、記憶にないとはいえ、くれた本人がそれを言うか。
不満そうにすると、ザップさんは人差し指と親指で丸をつくった。
「どんなやつだ?」
ぽかんとしてから、デザインの概形をしぼり出す。ほぼ毎日つけていたのに、意外と注目していないものだ。
「銀色で、細くて、シンプルなやつです。ザップさんの指には小さいと思います」
彼の手指は形がいい。あの指輪もユニセックスなつくりだった。それでもどこか、付けづらそうだ。
「別れた女性からのプレゼントだった、とか言ってたような」
あのときは別種の事情と恐怖で思考も凍りつきがちだったが、なんとか記憶を掘り起こせたのは、ザップさんからの善意の施しが信じられないほど珍しかったからに他ならない。
ザップさんはベッドに座ったまま身体を倒した。
「んあー、そういやそんなモンもあったな。『幸運』だとか言いながら持ってると調子出ねーからオメーにやったんだっけか」
「ええ!?」
「スピリチュアル系のバッタモン売り飛ばしても二束三文にもならねえし、そんならオメーに貸しつくったほうがワリが良さそー、……とか思ったんじゃねーの?俺のことだし」
「客観的で素晴らしい考察!知りたくなかった!」
「オメーの金で食うメシはうまかったなあ。次は焼肉行こうぜ焼肉。あ、借りた金はスッちまったけどイイよな?」
「よくない!」
ザップさんと行く焼肉なんて、嫌な予感しかしない。成長期などとっくに過ぎた細身の男に似合わぬ食事量で、金額など気にせずトコトン暴食するに決まっている。お酒もたっぷり飲むだろう。食前と食後では体型に開きがあるに違いないのだ。私のバイト代では、とても(……ではないけど?)まかなえない。そんなお金があるのなら、ヴェデッドさんに日頃のお礼がしたい。受け取ってはもらえなさそうだが。
「持ってて調子が出ないものを私に渡さないでくださいよお」
「名前だけ見りゃあお守りみてーなモンじゃねえか。心強かっただろ?な?俺のおかげだよな?」
「うーん……」
「そこは頷けよボロ切れ」
「なんなのこの人!?」
指輪の形をとる魔法っぽいアイテムの効果を楽しみにした気持ちは、ある。何か起こればそれこそラッキーだな、とも思ってつけ続けた。
起こったことがことごとく期待外れでも、最後まで効果の発揮を待ち続けた。
「ワクワクしたし、嬉しかったですけど……」
「だっろォ!?」
「このやりとりで何もかもがマイナスです」
ザップさんは嘆かわしそうに、自分の額をぴしゃりと打った。ベッドの上であぐらをかく。想定外の体重に弱い病院のベッドが、ギシギシと軋んだ。
「恩知らずなやつだぜ。モジャモジャどチビくんといい、最近の若いやつァなってねえよ」
「う、ごめんなさい……」
善意でもないが、悪意でもない。彼の調子が悪かったのも、私の運が悪かったのも、誰のせいでもない。偶然に過ぎない。
体良く押し付けられたのだとしても、縁遠かったスピリチュアル感に私自身が物珍しさをおぼえたのは本当なのだ。ここはやはり、初心に戻って素直に感謝するべきだ。
「あの、でも、あのとき気を遣ってくれてありがとうございました。なくしちゃってすみません。お見舞いも嬉しかったです」
ザップさんは腕を組み、鷹揚に頷いた。
「焼肉」
「……わ、わかりました」
「『上々苑』」
「『上々苑』?」
「オウ」
どこだろう、それは。名前も知らないし、場所もわからない。どんなお店なのか、店名の響きからも読み取れず、間抜けなトーンで了承するしかなかった。
私の頭の動きを見て、ザップさんは勝鬨を上げるように拳を突き出し、寝返りを打ってベッドに乗り上げる。脚が圧迫されかけて抗議する。無視された。
「逃げんなよ、ぜっ……!てえー!逃げんなよ、なあちゃんよ、上々苑だぜ上々苑!」
嬉しそうによだれを啜る姿を見るに、私は最悪の約束をしてしまったようだ。上々苑とは何ものなのか。
それは本当にカフェ店員のバイト代で支払えるお店なんですか、とは問えなかった。テキトーで信用ならない肯定が返るだけだ。私がお金不足で食い逃げ疑惑をかけられ拘束されたとしても、この男はギャハハと笑ってひとりで逃げるのだろう。もう有り金を渡すから、それで勝手に食べてきてもらいたい。同席したくない。
遠い目を時計にやると、午後が近づいていた。
「ザップさん、お仕事は良いんですか?」
「『の見舞いッスよ』っつったら普通に見送られたし、良いんだろ」
お昼休憩に混ぜられているのではなかろうか。
早く食べに出かけたほうが、と進言するタイミングで、がらりと部屋のドアが開いた。会話に夢中でノックが聞こえていなかった。
ザップさんと同時に顔を向けると、紙袋を提げたスティーブンが、軽く片手を持ち上げた。
「やあ、お疲れ。怪我は?」
「大丈夫です。脚もすぐ治るって」
「良かったな」
「うん」
ここに来てからずっと、治療代を人に(……おそらくスティーブンに)任せきりで胸が痛む。いつか返せるといいのだが、こちらも受け取ってはくれなさそうである。
ザップさんが私を跨いでこちらににじり寄り、私の耳元に顔を近づけて早口で言った。くすぐったくて首をすくめる。
「覚えとけよ、上々苑だぞ、上々苑。マジでお前、上々苑だからな」
「わかりましたってば!くすぐったいから正面から言ってください!」
だから、上々苑ってなんなんだ。
肩を押しのけて「上々苑って」と質問しようとした「じょ」の時点で口を押さえられた。
「ぜっ!てー!言うんじゃねーぞ!!ボコられても口割んなよ!」
どんだけお肉を独り占めしたいんですか、という言葉はくぐもった音にしかならなかった。
ベッドから飛び降りたザップさんは、スティーブンから距離を取りつつ、手短な別れの言葉を告げてそそくさと病室を出た。
一気に、場が静かになる。
椅子を勧める前に、スティーブンは折りたたみのそれを開いた。
椅子はベッドに寄せられ、『あれ?前からこんなに距離近かったっけ?』と、手を伸ばせば届く位置取りにドキリとした。脚が痛くてもトキメキは常に心の留守番をしているのだ。
「端末を壊す話、憶えていてくれて助かったよ」
見るも無惨な姿へ変貌したスマートフォン。情報漏洩を防ぐため、余さず回収されたのだろう。
「スティーブンの言ったことですから!憶えてるよ!」
「ああそう。いつもそうだと嬉しいよ」
記憶に残しているつもりだが、自信はない。自分でも冗談くさい台詞だと思う。彼はより強く思ったはずだ。
「ケータイの、装置?みたいなやつ。ありがとう。おかげでサイアクにはならなかった」
「『サイアク』?」
「なんか色々。……死んだりとか?」
警戒は、自意識過剰なくらいがちょうどいい。私はどれも全然機能する暇がなかったのだけど。だってあれは無理だろう。チンピラに囲まれ、金品を強奪されたうえで押さえつけられたら、並みのハタチでは勝てない。スティーブンの判断とツェッドさまさまである。
スティーブンが「ああ」と渋い顔をした。私も顔をしかめる。
「私、最近、ツイてないんだよね」
「それは運の問題かな」
できればそのひと言で片付けたい。異世界人としての呪いは解けたので、これが私個人の体質だったりすると最低だ。
「ずっと不運続きなんだよ。これも偶然、仕方なくぶつかっちゃった結果だし。なんなんだろ」
不幸を呼び寄せ続けた気がする。
求められた通りに手を差し出すと、スティーブンが、私の手を取って、指の付け根をなぞった。その仕草で頬が熱くなったので、もう片方の手で包むように押さえた。
「君が持ってた、ザップからの指輪は?効果はあったかい?」
指先からドキドキしてしまって気が散る。
「え、ええーと、なんかあんまり、って感じ。ザップさんも、持ってて調子が悪い気がしたから私にくれたんだって言ってたし、幸運パワーはなかったのかも」
「それは残念だったな。その指輪は今、どこに?」
「それが、わかんなくて。なくなっちゃったみたい」
奪われた経緯に足して、私がそれからあのリングを見ていないと話すと、彼は思案するように目を細めた。
「……効果がなかったなら、失っても問題はなさそうだ」
「ザップさんには悪いことしちゃったけど」
「それは君のせいじゃない。あいつも気にしてないし、便乗して何度かタカられるかもしれないが、そのうち忘れるよ。そういうやつだ」
「あ、ありがとう?」
降り注ぐような沈黙が落ちる。まだ手を取られたままで、そろそろ動悸が激しくなってきた。指がむずむずする。できればそのまま握ってほしいような、そんなことをされたら肺の奥から恋の塊がこみ上げてむせ込んでしまうような。
「も、……もうちょっとだけ、手を、に、握っていただくことは……」
煩悩が勝った。言った直後に後悔したが、彼は黙って握ってくれた。優しさはお金では買えない。
「ありがとうございます」
「ザップとはなんの話をしていたんだい?」
「ええ?」
話題の車線変更が激しい。
「お見舞いと、指輪の話と……」
私のお金を水泡と交換したことと上々苑のことは、秘密にする。絶対に言うなと釘まで刺されたし、無視すると後が面倒くさそうだ。
「それくらいだよ。あと、最近の若者はなってない、みたいなハナシしてた」
スティーブンは目を丸くした。
「へえ、あいつも自己分析ができるようになったのか。凄い進歩だな。反動で、厄介ごとが起きなきゃいいが」
「ザップさん……」
可哀想になってきた。日ごろの所業のせいでかなり扱いがひどいが、彼は心が強くて、悪評やナチュラルな本音はちっとも胸に響かないのだと信じたい。そうでなければ言葉のトゲが痛すぎる。
まあ、響いていたらあそこまで飛び抜けた個性は生み出されなさそうだし、きっと本当にスルーが得意なのだろう。
「あ、そうだ。ケータイ、壊しちゃったんだけど、どうしよう?新しいもののケーヤクとか、教えてくれる?」
ひとりで手続きするのは難しそうだ。私の理解力が乏しいとかではなく、誰だって緊張くらいしようもの。
「僕がやっておくよ。どうせまた、サッといじる」
「そっか。じゃあお願いします」
任せきりだなあ、と情けなくなるが、口出ししても私がどうにかできるわけではない。
「任せきりでごめんね」
「向き不向きがあるから、気にしなくていいよ」
私に向いているものとは、と深淵に沈み込みそうになった。
「そうだ。私、ケータイを壊すのは情報保護?とかのためかと思ったんだけど、そういうのは大丈夫だった?スティーブンとか、K・Kさんとか、チェインさんとか、レオとか、いっぱいアドレス入ってたんだ」
「回収させた。今はガラクタと変わらないスクラップだ。アドレスは、こっちでまた登録しておく」
「あー、安心した。大事な個人情報だから心配だったんだ」
あれが原因で迷惑をかけるのはよろしくない。助かるためにはそれしかなかった(……考えつかなかった)ので、『私が電話を壊したのが間違いだった!』などとは思えないが、回収がうまくいかなかったならばとても後悔しただろう。
スティーブンはしばらく口を閉ざした。
喋りづらくて、私も黙る。
お水を飲もうとしたが、握ってほしいと理性をかなぐり捨てて懇願した手は、まだふたりの体温が混ざったままだ。そして反対側の手ではお水が遠い。
わずかに手を引くと、するりと離されるかと思いきや、「水?」とミラクルな察しの良さを発揮されて、そのままお水を渡された。
「なんでわかるの?」
「話すと長くなるからやめておくよ」
「ええー?」
起きているのに、グラスのお水の減りがなかったからだろうか。喉が渇く頃合いと見られたのかもしれない。
「以心伝心だ?」
「ああ、うん、じゃあそれでいこう」
「久々に雑!」
しかしこの気の無い返事で癒されてしまうのだから、私はもう取り戻せないのかもしれない。こう、ストッパー的なものを。
前からわかっていたか。
2日もしないうちに、脚を簡単に固定されたままの退院を許され、私はバイトの無断欠勤と有休申請の申し開きの電話をかけた。
どう言おうかと口ごもる私に、店長はやけに物分かりよく、声音をニヤニヤさせながらあっさりと申請を受け入れた。知らぬうちに、こちらにも根回しがあったらしい。視野の広さと気配りの徹底ぶりに頭が下がりすぎて異界に落ちそうだ。これは、言ってしまえば自業自得であるというのに。
ため息をついて、テレビのチャンネルを回す。ニュース番組でザッピングをやめ、ぼうっと主立ったタイトルを頭に入れる。
2日程度離れていただけでも、止まらない報道は、知らない話題を流し続ける。
テレビの取材。リポーター、テレビカメラ。今も、街のどこかを駆け回っているのだろう。生存率が低い地区にも突入するのかもしれない。どの職業も、危険とプライドと責任感を背負って進められる。
画面を見ているようで見ていなかったが、耳に入ったニュースタイトルにひかれて焦点を合わせた。
ニュースキャスターの持つフリップには、アクセサリーの写真が貼り付けてある。ネックレスだったり、ピアスだったり、指輪だったり。
「これらは、数ヶ月前から出回り始めた害のある装飾品です。製造・販売元は摘発されましたが、摘発前に購入された商品は今でも街のどこかで使用されている可能性があります」
ゲストが合いの手を入れる。
「『害』とはどのようなものですか?」
台本に沿った質問に、キャスターは淀みなく答えた。
「はい。多くの場合、これは持ち主に『不幸』を与えます。度合いは異なりますが、物によっては命に関わる危険性もあるそうです。手口としましては、気に入らない相手に対して贈り物を装い渡すケース。それからこっそりと持ち物に紛れ込ませるケースが多いようです。皆さま、お手持ちのアイテムに、最近手に入れた、あるいは見知らぬ『銀色の装飾品』がないかご確認ください。疑わしいものを見つけた場合は、下記の電話番号に……」
私は、「……は?」としか呟けなかった。
ザップさんが別れた女性から贈られた、銀色の指輪。
調子が悪くなったザップさん。
それを渡された私は、うなされるほどの不運にとりつかれ、果ては偶然が生んだ悪状況により尊厳ごと死にかけた。
私から指輪を奪った『幸運』なチンピラは、乱入したツェッドによって見事に倒され、お縄となった。
「……ちょっ、……ええ!?」
飛び跳ねてから、脚が痛くてソファにうもれるように横たわる。
これは、私は、誰に文句を言えばいいんだ。やり場のない憤りとやるせなさが、みぞおちの辺りで渦巻いた。
え、だって、ホントに? 嘘でしょザップさん?
勘弁してほしい。本当に冗談じゃない。
スティーブンみたいに後腐れなく別れようよ。恨まれてるじゃん。すごい恨まれてるじゃん。なにしたんだあの人。おかげで関係のない私が泥船に乗り込まされてしまった。
痛み止めの切れた脚がじんじん痛んだ。
すんごく、忌々しい。
原因がわかり、連日のトンデモな不運も、きっとこれで終わりを迎えるのだろうけど。
脚がとても痛い。原因がわかると、余計に痛みが増す気がした。
上々苑は、絶対に取り消してもらおう。
どこかへ消えた『幸運の指輪』が、ドブか何かに落っこちて、永遠に発見されませんように。
とりあえず、それだけ祈っておいた。
0814