07
先日のお詫び、と店長から贈られた包みを開けると、そこにはスイーツがあった。生クリームがたっぷり詰まった、プチ・シュークリームに似たおやつである。早朝から並ばなければ手に入れられないような限定の商品らしく、ぱん、と合わせた手の奥から私を覗き込む瞳に負け、私は店長の悪行を許すことにした。お給料も手当がつけられてなかなかの金額になったし、結果オーライといえば結果オーライだ。もう二度と嫌だけど。ひざまくらなら割り切れるのに、なぜだろうか。拾われた恩義と充分な見返りがあったから許せたのかもしれない。
控え室にスイーツを残し、数もあるので食べたい人は食べてもいいと書き置き(……もちろん私のぶんは別だ)、朝から夜まで店内をウロウロする。お昼にザップさんがやって来て、私に昼食を奢らせようとする事件はあったが、過去に手を出して最終的に華麗なるビンタと蹴りを食らったらしい強い先輩店員がメニュー表を叩きつけると、彼はスタコラサッサと逃げ出した。
休憩時間には外出したのでプチシューは食べられず、20時ごろに帰宅してようやくひと息つく。
家主は今晩、帰らないようなので、のんびりと紅茶を飲みながらスイーツに手を出した。
どうやらこれが良くなかったらしい。
冷蔵庫にも入れていたし、他の同僚も問題がなかったはずなのに、なぜか私だけが食あたりを起こした。
なんという不運。移動中に何かが起きたのか。プチシューとはそれほどヤワなものだったっけ。保冷剤こそなかったが、たいした道のりではなかったはずなのに。
家には私ひとりなので、誰にも助けを求められない。誰かがいたところで、何を助けてもらえばいいのかもわからないが。胃薬程度ならば処方してもらえたのではないだろうか。
そこまで考えて、胃薬の存在を思い出す。一家にひと箱はあってほしい存在。
たぶん、薬箱はある。入っているのが風邪薬だったかなんだったかは詳しく見なかったが、ヴェデッドさんがテーブルに出してくれたことは確かだ。いくつかのパッケージが収められていたし、中には便利そうな胃薬的なものもあろう。あってほしい。誰だって胃もたれくらいは起こすだろうし、時には胃痛胸焼け食あたり。お腹だって壊すに違いない。いや、もしかすると計画的な人間はそんなことにはならないのか?
でもこれは不可抗力だ。運が悪かった。幸運の指輪とはなんだったのか。指に嵌まるそれに文句を言う余力もなく、私はぐったりと、おそらく青い顔でトイレの壁にもたれかかった。大丈夫だろうとは思っても、この苦しみは死の予感に通ずるものがある。バカなりに世を儚んだ。
震える身体と胃痛を抱えながら、テーブルに戻ってスマホを操作する。薬箱はどこにあるのか、それくらいは訊いてもいいのではないだろうか。ここで我慢できるほど、私という人間は健気ではなかった。苦しみの前で、ヒトは無力だ。いや、私が特に無力なのかもしれない。気配りと遠慮をどこかに忘れてきた。どこで失くしてしまったのだろう。元の世界なら取り戻しようもないが、あのころからダメだったような気がしなくもない。
電話をかけるかメールにするか、回らない頭で一応、考える。
悩むまでもなく、私の異常は急を要する。
しかし、彼は忙しいから帰れずにいるのだ。電話番号をタップするのは簡単だが、受け取る側はそうではない。仮にも私は彼の同居人である。何かあったのかと思うに違いない。いやもちろん、何かあったのだけど、これは彼の手を止めさせてまで訊ねるべき事柄だろうか。
ではメールはどうか。
メールならばいつ読んでもいいのだし、便利なように思える。適切かもしれない。
だけどもし、薬箱が説明しづらい場所に置いてあったらどうだろう。結局は誘導のために電話をかけさせる事態になりはしないか。そもそも気づかれない可能性もある。返信だって手間だろう。
そうなると、私ってどうなるんだ?
もちろん、どうにもならない。
自分からあちらに連絡を取ることがあまりないので、やりづらい。帰宅時間が遅れる、程度の内容ならばメールを1通送ればいいのだ。読もうが読むまいが、『連絡した』という事実が大切なのである。
そういうわけで、このとき、私は電話番号も、メールアドレスも、選べずにいた。
それなら別の人、と思ったが、この家まで呼びつけるのもおかしい。住所が開示されているのかもわからないし、勝手な行動は慎むべきだ。じゃあどうしろと。
時々、がくりと意識が飛ぶ気がした。朦朧とする。
なりふり構っていられなくなったので、助けてくれない指輪を放り投げたくなる衝動を抑えながら、スティーブンに電話をかけた。
5コールしても出ないので切った。
明らかに忙しい。会議などの途中だったら申し訳ない。あるのかは知らない。
あるいは、と、なんとなしに大人びた夜を想像した。根拠はゼロだが、当たっている気がする。それなら余計に、お邪魔してしまって悪かった。
いやいや、私は悪くないのでは?
自分の常識が食あたりに侵されそうだ。
仕方がないので立ち上がり、久しぶりに気力を振り絞って服を着替えた。髪を適当にまとめ、鍵とお財布とスマホを手提げに突っ込んで家を出る。ちょっと離れると色々なものを売っている便利なお店があるのでちょうどいい。私ってこんなに強かったのか。吐き気と震えに襲われて初めて新しい自分に気がついた。
「す、すいません、胃薬ありますか?」
店員さんは私の顔を見て、「あっ、具合悪いんですね!高いのと安いののどっちがいいですか?」と訊いた。どっちでもいいよと思ったが、「効くほうください」と言うと安いほうを出された。何が入っているのか、逆に怖い。叩きつけるようにお金を払って、一緒に買ったお水で飲んだ。マシになってくれると助かる。
明かりを消すのをすっかり忘れていた家に帰り、なけなしの根性で真っ暗に戻す。パジャマに着替え、不安だったのでもう1錠だけ薬を飲んでベッドに倒れ込んだ。寝て忘れたい。何もかも。
翌朝、目をさますと、時計はいつもと同じ時間をさした。慣れのためか、物音か。
お腹の具合はかなり良くなっている。ただ、まだ食欲が湧かなかったので、ヴェデッドさんに伝えて朝食を抜いてもらう。彼女は、それでは、と言って温かくて消化に良さそうなスープだけ出してくれた。
思い出してみると、しんどさのあまりに記憶が飛び飛びだったが、テーブルの上のゴミなどはきちんと片付けていたようで、私は昨夜の自分を褒めた。甘いものを夜中に食べて理由もわからない食あたりを起こしたというのは、どことなく恥ずかしく感じる。このまま、なかったことにしてしまおう。
ケータイを見ると、スティーブンから着信とメールがあった。どちらも深夜である。
返信画面にもっともらしい言い訳を打ち込んでいると、朝を待ってくれたのか、改めて電話がかかってきた。
「あ、もしもし」
「昨夜は出られなくて悪かった。何があった?」
ついさっき捻り出した『理由』を告げる。なるべくばつが悪そうにしようと演じかけたのだが、我慢弱かった自分をよくよく振り返ると、哀れ過ぎて本気で情けない声が出た。
「ごめんなさい、レオに電話しようとして間違えちゃった。邪魔にならなかった? 迷惑かけてすみません、ホント」
「……それなら良いんだけど。本当に何もなかった?」
「はい」
「後から『何かあった』ってわかったら問い詰めるけど大丈夫かい?」
「え!?怖っ!!」
どんだけ信用がないんだろう。問い詰められたくない。
「だ、大丈夫です、はい。何もないです……」
無言が恐ろしくて言葉尻が弱くなった。もうバレるのか?私に知能プレイは逆立ちしても不可能か。
判決を待っていると、スティーブンは納得した様子を見せた。わかった、と言う。それからひと言お知らせを付け加えた。
「今夜は帰るよ。夕飯に間に合わせる」
「やっ、……たあー……」
喜びかけて、失敗した。私は朝から、おいしそうな野菜スープすら満足に飲めなかった。夜までに回復するとは思えない。
不自然な沈黙は私を責めた。
「……ま、待ってますね」
「うん」
返事が短い。いつも通りか。
「お仕事がんばってください……」
「ありがとう。君もね」
「う、うん」
挨拶を残し、電話が切れた。胃の中で、無害なスープがぐるぐると暴れ回る。別の意味でお腹が痛い。
今日は無理にでも残業して夕食をスルーできないかなと思ったが、こういうときに限って店長は優しいのである。前に無理を言った負い目があるのか、私は時間ぴったりに帰された。
トボトボと家に戻ると、スティーブンとヴェデッドさんが話している声が聞こえる。ただいまー、と言うと、ヴェデッドさんが私に心配そうな顔で言った。
「おかえりなさいませ。大丈夫ですか? 朝からとても具合が悪そうだったと、ちょうど旦那さまに話していたところです」
「うわー!ヴェデッドさん!ありがとうございますごめんなさい!ごめんなさい!すみません!」
ドアに背をぶつける勢いで後ずさる。空腹も感じないほど体調が崩れたままだったので、効果的な弁解も浮かばない。元気でも浮かばなそうではあるが。
スティーブンは、雷を恐れ足を踏ん張るハタチをゆっくり引っ張って椅子に座らせた。
「何回か言ってるように、君は隠し事に向いてないよ」
「くだらないことだったので……」
「食事ができないほどに具合が悪いっていうのは、結構大事じゃないか?」
「もらいものにあたっただけですし……」
これは誰も悪くない。あえて言うならば、運のせいだ。
「電話の用件は?」
「胃薬どこかなって……」
「ああ、うん。それで、どこにあった?」
「し、知りません」
「うん」
「どこにあるんですか」
「ないよ」
「ないんだ!?」
お腹痛くならないのかな。
「胃薬を見つけられなかった君はどうしたんだ?」
「買いに行った」
「そうだよな。それしかない」
「だよね?」
おかげで動けるようになったし、なんか頑張り屋さんみたいな感じでバイトまで行ってしまった。
「これは僕が悪かったよ。場所を教え忘れていたし、用意もなかった。ごめん」
「悪くないよ!問題がなかったら買わないのは当然だよ!」
「次は買っておく」
「あ、今回買ったのがあるけどそれはダメかな? なんか勧められた安めのやつだから、名前も成分もわかんないけど。『めちゃくちゃスゴく劇的に効きます!』って言われて……」
おぼろげな値段を言うと、スティーブンがしみじみと言った。
「その謳い文句と値段でよく飲めたな……」
「相場わかんないし……」
ふたりして目をそらし合う。無事に効いて良かった。あとで副作用を確認しよう。あのときは、パッケージの裏を見る、などという発想すらなかった。
あちらに非はないのに、彼はとても真剣だ。
「……電話にも出られなかった」
ここが軽く引っかかっているらしい。
いや別に、と首を振る。忙しいのは知っている。仕事が1番、何かが2番。どの辺りに私がランクインしているのかは知らない。まあ、たぶん、昼食よりは上だろう。そう思いたい。自分で自分を痛めつけてどうする。
スティーブンはテーブルの上で手を組んだ。
「君のそういうところはとても凄いと思うし、尊敬する。そして、たとえ君の状態を知っていても僕自身は自分の用事を優先したと思うんだが、複雑な気持ちだよ」
「正直! あと知ってた!」
褒められたと思ったら現実的な発言で落とされた。オブラートに包んでも意味がないですしね、と内心で頷く。優先順位は変わらないのだ。たぶん、前のように異常を共有していても、スティーブンなら具合の悪さを堪えつつ用事をこなしそうな気がする。精神も忍耐力も私とは比べものにならない強さだろう。『あの女はいったい何をやってるんだ』くらいは思いそうだけど。何も反論できない。それでも怒らずに心配していただけそうで、想像して胃が痛くなった。
スティーブンは、こちらが居た堪れなくなる謝罪と、私への気遣いと、誤魔化したことへの申し訳程度の苦言、それから追撃の優しさを述べた。
私は深々と頭を下げた。
「電話してごめんなさいでした」
「いや、何かあったら必ずかけてくれ。……まあ、出られないかもしれないけど」
意味あるのかな、それ。
「……ところで、スティーブンさん。昨夜はどんなお仕事だったの?」
彼は微妙そうな顔をした。
「たぶん、君の想像通り」
「やっぱり!」
私の勘も、たまには当たるものだ。
……食あたりと同じく。
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