05
軽い飲み会に付き合い、私のほうが遅く帰宅したときである。
22時前にギリギリで滑り込めたので、『これは連絡しなくて済んだ』と非常時以外は彼に連絡を取りたくない私は密かに拳を握り、誰もいないはずの家に「ただいまー」と入る。そこで一室からひょいと家主が顔を出し迎えの言葉を口にしたものだから、私は何も悪くないのにマズイことでもしてしまったような気まずさを抱えて、できるだけ廊下の隅を歩いた。
「もう帰ってたの?」
私より早いお帰りは珍しい。なにせ彼は天下の(……天下の……?)秘密組織であくせく働くサラリーマンである。その労働環境がどんなものなのか、私は知りたくない。
「本当は最後まで居たかったんだけど、K・Kに『帰れ』ってせっつかれてね」
「K・Kさんもスティーブンの健康を心配してるんだ?」
「それだとありがたいな」
厄介払いのような気がしなくもない。あるいは、ひとりで過ごすであろう私のほうを気遣ってくれた。
どちらにせよ、彼の睡眠時間が増えるのはよいことだ。
「夕飯は食べてきたんだよな?」
「うん」
カバンを下ろし、中からスマホを取り出して写真を開き画面を見せる。大衆的かつ異界的なお店だが料理はおいしかった。外食で提供されたお料理の写真を撮って記念にするのはどこも変わらず、珍しい形の魚が来てはシャッター音が鳴り響いた。こういうお店だからできることだ。レストランなどでは、マナー違反で気が引ける。
「スティーブンは?ヴェデッドさんのご飯?」
スマホの画面とは少し外れた場所を見つめていたスティーブンは(……怖くて後ろを見たが何もいなかった)、とりあえず、といったふうに答えてくれた。
「そうだよ」
「なんだったの?」
「シチュー」
「おー、いいなー」
シチューを食べているスティーブンもカッコよかったのだろうな。何をしていてもどんぴしゃり。今だって、ただ自然体で椅子に腰掛けているだけなのにどことなく色っぽい。シャツの第2ボタンは開けておいてほしいような、封じてほしいような。私はすぐ近くに立っているのでその威力は倍増。実に罪つくりだ。
無自覚の色気にあてられた私は、魅惑の隙間から目をそらすこともできずグッと唇を噛んだ。多大なる努力を要し、ようやく顔を背けて目をきつく閉じる。祈るように胸元で手を組んだ。
「も、もうひとつボタンを開けてください……!」
考えていたこととはまったく違う要求が飛び出た。口は正直である。自分の心に嘘をつくことはできない。
「熱心に見つめてくるから何かと思ったら……」
お恥ずかしい。
悶々とするうちに、スティーブンは手を動かし、無造作にシャツのボタンをひとつ開けた。「はい」と言われて崖から転げ落ちる。
「待って待って!やっぱり待って!」
「待つも何も、もう開けたよ」
「1ボタンにつき、どれくらい何をすればいい!?」
「見ないなら閉めていいかい?」
「あー!拝見いたします!」
死ぬほど顔色が悪いか、死ぬほど顔色が良いか、両極端な血の気を身体に巡らせてそのゾーンを見た。
見える素肌の面積が増え、先ほどまでは、ちらり、と奥ゆかしい男性美を放つのみだった魅惑の隙間が人を惹きつける。人というか、私を惹きつける。たとえこの裏にトラバサミがあろうとも、私はフラフラと踏み込んだだろう。私が愚かなのでも、世の中のパワーバランスがおかしいのでもない。スティーブン・ナントカ・ナントカの謎の色気がミステリーなのである。
ちなみにフルネームは未だに訊いたことがないが、おそらくどこかに『スターフェイズ』が入るのだろうとは察している。たまに彼はそう呼ばれているので。『スカーフェイス』ってもしかして、ここからもじったシャレなのか?……と、気がついたのは比較的最近だ。何と比較したのかは自分でもわからない。
ドキドキし過ぎて詰まり始めたように感じる心臓の血管を胸の上から手でさすった。
「これって他殺になるの?自殺になるの?」
「さあ……」
「ミヒツの……コイ?」
「よく知ってるなあ」
「言葉しか知らないけど」
「それでも意外だった」
「侮られてる?」
目をぱちくりさせられるとまた感じる印象が違って生唾を飲んでしまうが、ショックはショックだ。まあ、私は本当に言葉の響きしか知らないので胸を張れはしないのだが。
さっさとボタンを留めてしまったスティーブンをもったいなく思いながら、「あ、ねえねえ」と再びくだらないことが過って視線を彼の目に移す。
バイトに行くようになってから、あちらの世界ではあまりキョーミのなかった事柄にも多く触れる機会ができた。それにより、私はつまらないネタをたくさん仕入れられるのである。
これもそのひとつ。
「壁ドン、ってさ、やったことあると思うんだけどさ、されたことはある?」
「壁ドン?」
「あれ?知らない? 相手を、こう、壁に押しつける」
数歩近づいて身ぶりを交えた説明が奇跡的に通じたようで、スティーブンは合点がいったふうにテーブルに肘をついた。
「ああ、それか」
「やったことあるよね?」
「あるよ」
でしょうねとしか感想がない。私もトキメキ時に加えて死の恐怖に瀕しながらやられたことがある。
「じゃあ、やられたことは?」
彼はへらりと笑った。
「どこからどこまでが『壁ドン』なのかがわからないから、なんとも言えないなあ」
どこからどこまで。
そう言われると、私にもわからないかもしれない。
相手を意図的に壁に押しつける動きは名の通り『壁ドン』だと思うのだが、たとえば抱きついたときに勢い余って相手の背を壁に追い詰めてしまうのも壁ドンか?壁に身体がドンと触れればいいのだろうか。
スティーブンの表情から『長くなるかな』という疑問が読み取れる気がして胸が痛んだ。できれば幻覚であることを望みたい。ごめんなさい。
「じゃあこの場合は、両手で、こう、逃げ道を塞がれることとします。……ある?」
「うん」
「ある!? 誰に!?」
「チンピラ」
「チンピラ!?」
どんなやりとりなのか、さっぱりだ。絡まれたのか、理由があってそう差し向けたのか。
スティーブンはため息をついて眉根を寄せた。わざとなのか本気なのか。
「僕って見るからに、か弱いだろ?」
「……ええー……?」
先入観が邪魔をして、『か弱いスティーブン』という存在を理解できない。か弱い? か弱いというのは私のような、武器も攻撃力も防御方法も持たず、一撃殴られれば無抵抗で昏倒してしまう人のことを指すのでは? 少なくとも、身長もしっかりとした身体つきもあり、秘密組織の一角を担ったり、脚を切り裂かれる怪我を負っても『まあ慣れてるから……』みたいな顔ができたり、隠してもいない隠し玉の必殺技を持っていたりするツワモノを形容する言葉とは思えないし思いたくない。見るからにか弱くない。どこがか弱いんだろう。か弱いってなんだっけ?
スティーブンは私の困惑に構わず「か弱いみたいなんだよ」と話を続けた。
「だからわざと肩をぶつけてきた奴らに因縁をつけられた。それで、路地裏に引っ張り込まれて、『壁ドン』」
「想像と違った……!!」
この男から金品を巻き上げようとしたチンピラたちの高い意識には感服するが、相手が悪かったとしか言いようがない。
「そのチンピラ?……は、どうしたの?」
スティーブンは「そりゃあもちろん」と、にこりと笑った。
「穏便に退散願ったよ。痛い思いはしたくなかったからね」
どのような絵面だったのか、ものすごく気になる。私は彼の長い脚を見下ろした。フットワークが軽そうだものな、色々な意味で。
もちろん巧みに言葉を尽くして日常を取り戻したのかもしれないが、これはなんとも。
すぐ近くに立つ私のつま先に相手のつま先がわざとコツリとぶつけられて、「ヒイ」と息が乾いた。やはり爽やかな弁舌からは遠かったのではなかろうか。仮にもチンピラと称するのならば相手は見極めなければならない。いい勉強代になったことだろう。
「他には?ロマンチックなやつは?」
「ないかな」
「へー……。ありそうなのに」
美女から迫られていそうなのだが、これは、そういうことだろうか。美女に壁際へ追い詰められる前に自分から美女を壁際に追い詰めておく、という、イケメン特有の秘技のひとつ。ひとりで納得した。
「君は、やったことは?」
「『されたことは?』じゃないところに格を感じる」
「あるだろ?」
「はい」
主にあなたから。言わずもがなである。
うーん、と腕を組む。やったことがないかもしれない。
「やったことないかも」
「まあ、それもそうか」
「機会がないし!」
唐突に切り出しておきながら、話も終わりに近づいたので時計を見る。顔の向きを正面に戻して、『気づいてなかったけど距離が近い!』と正気になって喉が詰まった。第3ボタンこそ留められたが、それでも上の2つは解放されている。目が焼けた。
「……っていうか、この流れに乗ったら、壁ドンさせてくれたりする?の?」
「させないよ」
「ガードが固い」
タダではないのだろう。それはもう高級なのに違いない。私が大枚をはたいても手に入れられそうにない権利だ。
ではいっそ実力行使で、と身構えなくもないが明らかに無理である。これは私が弱いのではなく、彼を力で押さえ込めそうな人物を捜すほうが難しいのではないかと思う。強そうなザップさんでさえドンした瞬間に怪我をしそうだし、ここはクラウスさんか。しかしそれはクラウスさんによるスティーブンの壁ドンであり、私の入る余地はあるのだろうか。なさそうである。
「そんなに残念がるようなことか?」
残念がるようなことなのだが、このような欲望を持たない人には永遠に伝わらない残念さなので解説は差し控えた。これ以上引かれるのはキツい。
これは、と待機させていた手をすごすご下ろす。
そんな私の左手をスティーブンが掴み、見えやすい高さまで持ち上げた。
「ところでさっきから気になっていたんだけど、これはなんだい?」
ゆらゆらと揺らされて、指を見る。
「あ、これ、幸運の指輪」
明かりを反射して、きらりと細身の銀色が光る。もらってから少し時間が経っているが、カバンの底から出てきたので最近つけるようになったのだ。
スティーブンはこちらの手のひらをすくうようにしてそれを見た。
「それはまたけったいなアイテムだなあ」
声が呆れている。もしや私が自分からこんな胡散臭いものを購入したと思われているのだろうか。
「いやいや、私じゃなくて!ザップさんがくれたんだよ」
「ますます信憑性が感じられない」
「だよね!?」
「信じていないなら外したらどうかな?」
それもそうなのだが。
バイトのときは外している。仮にも飲食店でトレイと伝票を持ってフロアをふらふらしているので、アクセサリー類を身につけているのはよろしくないらしい。言われてみると、他のお店でも多くの場合は誰もつけていない気がする。許されているところもあるのだろうけど、私などはうっかり何かを傷つけてしまうかもしれないので、大人しく従うのが一番だ。『常につけていないとダメなの!』などと固執しているわけでもないし。
「でも、なんか効果があったら嬉しいなと思ってさ」
あわよくば、的な気持ちがある。もしも良いことがあれば、ラッキーだった!と喜べる。何もなかったら、デフォルトでは搾取専門なザップさんからの貴重なプレゼントとしてどこかに保管しておけばいいのだ。あちらもなんだかんだで、ようわからんから慰めるついでに私にくれたのだろうから。
「君の期待はわかった」
「うん」
「次の話なんだけど、えーと、……それは左手の薬指に嵌める決まりでもあるのか?」
「ないと思う」
「じゃあ、よりにもよってなんでそこなんだ?」
なぜと言われると、なぜだろうか。
私は左手よりも右手を多く使うし(……比較的)、見た目にも可愛かったので、としか説明できない。
どちらかの薬指が大切な意味を持つことは知っているが、どちらだったか忘れたし、どうせバイト先の人たちも誰も見ないのだからまあいいのでは。ヘルサレムズ・ロットにおいては私の顔面は通用しないそうだが(……パパ曰く)、女であればなんでもいいなどと考える輩もいなくはない。どこの世界でもひとりいる。そういう人が混じる可能性のある合コンなどでも面倒ごとから遠ざかれる。元の世界でも、アタリがいなさそうなときはテーブルの下でこっそり勘で嵌めて『数合わせ』のふりをした。『勘で』という部分が私の曖昧さを表すところだ。それからその節は、誘ってくれた同級生に謝罪したい。
簡単に言うと、しっくり来たからである。
「僕の認識だと、ちょっとありがたくない位置なんだよ」
左手が良くないほうだったようだ。幸運というより不運が舞い込んだような気がする。主にザップさんに。人に譲ると呪われたりしたりして。恐ろしい。
ここで心臓が鳴った。音が聞こえそうだ。
もしやこれは、ジェ、ジェラシー?
開くと理性が崩れ落ちそうな扉を見つけてしまった。
だがしかし、この男がそのような感情を抱くはずがない、と思い直す。
彼は男女問わずそれを『受ける』側である。慣れすぎていて、嫉妬するほど誰かに執着はしないのでは?
軽く失礼なことを考えてしまったので目をそらしつつ、回すようにして指輪を外す。やっぱりザップさんの指にはサイズ的に合わないよなあ、と思った。
幸運の円環をスティーブンに渡すと、彼はそれをつまんで透かした。私もやってみたのだが、ブランドのマークも魔法じみたミミズのような線も見当たらなかった。
「あ!これ!これ私の……なんていうんだっけ?サイズ?ゴウスウ?……に近いみたいだから!見ておいて!」
「あははは。反応に困る。参考にするよ」
笑いながら反応に困られた時点で心が折れそうだ。参考にした結果は永遠に発表されないのだろう。そのようなものである。
「もらいものだから、持ってていい?」
「うん」
「薬指以外ならつけてもいい? 中指とか」
「ザップからのプレゼントってところが複雑なんだよ」
「ザップさん可哀想」
レオからもらった幸運の指輪なら『少年も可愛い趣味がある』のひと言で終わって問題がなさそうなのに。何が悪いのか。全部かな。
「そもそも中指に入るのかい?」
指の節と付け根を見る。
「入ると思う。外れなくなるかもしれないけど」
「やめておこうか」
「あっ、嵌めてくれてもいいよ!」
「君は僕の話を聞こう」
何度か試し、『幸運』は左手の人差し指におさまった。嵌めてはくれなかった。
「それじゃあお先にお湯いただきます」
「うん」
……という会話を交わし、自室へ戻るため立ち上がったスティーブンを追ってちょっと歩いたのが、たぶん5秒くらい前。
私は天文学的確率からひとつの当たりを引き当て、自分の足に躓いてバランスを崩した。
酔っていたわけではないので、おそらく何か、私にとっての幸運が働いたのではなかろうか。これが幸運の指輪の効果なのかと、偶然にしても、信じたくなる事態だ。
「やばっ」
可愛らしい悲鳴をあげるのを忘れたことに気づいて「きゃ、きゃあ」と言い直したが、言い直したときには振り返ったスティーブンに支えられていて意味はなかった。
「大丈夫かい?」
頭上から降る声で殺されるかと思う。
「う、わー!!ち、近い!近い!どうしよ、どうしよう……」
「これは僕は悪くないと思うよ」
「だ、だよね!どうしよう!ごめんなさい!た、耐えられない!何かに!」
「そう言いつつも離れる気がないだろ、君」
「身体が勝手に!」
これがラッキースケベというものなのか? 興奮が高まり血管が破けそうなのでむしろ早く突き放してくれと願うほどである。偶発的な出来事に動揺はすれど、ゲンキン過ぎて自分からは離れられそうにない。
しかし、いつまでもこうしているわけにも。
不自然な体勢だし、時間も時間だ。
断腸の思いで身を離し、そして、くい、と引き止められた。
彼にではなく、髪に。
スティーブンがそこに手をやった。
「あ、引っかかってる」
びっくりして身を引くと、髪がひきつれた。痛かったので、さっきまでのように距離を近づける。
「……こ、こういうことってホントにあるの?」
髪の一部がボタンの周りで乱れなければ絡むはずもなく。こっそりすり寄っていたのがバレバレである。とても気まずかった。
「あの、ごめん」
「いいよ。ほどけなかったら、ハサミを取りに行くのにだけ付き合ってくれ」
その場合は腰を抱いて歩いていただけるのだろうか。それはそれで幸せである。
「これは……、『私の髪を切って!』って言うほうがいいの?そ、そのほうがいいならそう言うよ?嫌だけど」
「切らないし、言わなくていいから、動かないでもらえるかな」
「すいません」
しばらく黙っていると、「取れたよ」のひと言と同時につながりがなくなった。
彼の指から私の髪が滑り落ちる。外出後だが、幸いにして手触りに問題は、たぶん、ない。こだわりのシャンプーを使い続けていてよかった。
スティーブンはニコリとしてくれた。タダで。
「君のそういうところは好きだよ。あと、足元に気をつけて」
じゃあ、と彼はあっさり離れて行った。天文学的確率の幸運は流しそうめんよりも素早く消える。
……って、いうか。
「……どういうところ!?」
返事はなかった。
0811