03
意外に気づかれないものなのだなあと思いつつ、前髪を指でつまむ。美容院に行くのも手間であるしお金がもったいないので、このくらいなら自分でやってしまう。この街の美容院に信用を抱けていないというのもある。
ハサミなんか、どんなやつでも構わない。自分用に買った文房具バサミでザクザク切った。目にかかるとまつげと干渉して鬱陶しいのだ。ピンで留めるのも面倒くさい。
すっきりしたところでバイトに出かけ、タイムカードを切ってほぼフルタイムで働いたが反応はない。帰宅してようやく、ヴェデッドさんが「あら?」と言ってくれた程度だ。
「少し切るだけで印象が変わりますわ」
「おかしくないですか?」
「まったく!お似合いですよ」
「ありがとうございます!」
ヴェデッドさんはなんでも褒めてくれそうな気がしたが、ここは素直になるべきだ。
私よりも早くに出勤した家主が戻ったのは私よりも後で、社会の厳しさを感じる。フリーターとは次元が違うのだなといつも思う。私も定職を見つけなければならなそうだ。大丈夫なのだろうか、この先の人生。
外に出られるようになってからも、一人暮らしのときに帰宅して早々爆睡していた習慣が残ってしまったのか、ヴェデッドさんにすべてをお任せしてソファで眠ってしまうことがある。今日はそんな日で、「彼女、夕食は?」という声のあとに「いいえ、まだですわ」という応えが聞こえた。
彼は先にお風呂に入ることにしたらしく、そのぶん眠っていられるな、と私は再び脱力した。体力は育ってきたはずなのに、眠気だけは如何ともしがたい。ヘルサレムズ・ロットは私が生きていた世界よりも気圧が低いのだろうか。そんなわけはなかろう。
魅惑的な男の魅惑的なバスタイムは私がうとうとするうちに終わり、しばらくすると、ほのかにあたたかい手がこちらの肩を揺さぶった。
「夕飯」
実に端的で気持ちがいい。
「ありがとうございます」
バイト用のナチュラルメイクを施しているとはいえ、寝起きの顔である。見られるのは気恥ずかしいが、ここまでくると悟りをひらける。すっぴんのそれも見られているのだ。メイクをしているだけ何倍も良い。
起き上がってお水を飲み、幾分か晴れやかな気分で準備をして食事に取り掛かる。今日は中華だった。彼女の守備範囲は広い。そして美味。
「おいしいー!しみる!お腹に!」
お昼もきっちり食べたのだが、言うまでもなくお腹は減るし、食欲をそそる匂いには勝てない。欲望のまま箸を進めた。
「今日の昼はなんだったんだい?」
「ケンダッジー。先輩が奢ってくれた」
「優しい先輩だな。前に話を聞いた人だっけ?」
「ううん、たぶん言ってない。浮気性な男」
「平和そうだ」
平和なのか?
「スティーブンは?」
「僕は抜いたよ。どっかの誰かが盛大にコーラをぶちまけてくれたもんで大騒ぎだったんだ」
名前の初めに『ザ』がつく人なのだろうな、とヨボヨボの勘が働いた。
「じゃあお腹空いてるでしょ」
「かなりね」
「えびあげるよ」
「いや、いいよ」
「えー、なんで? 食べていいのに」
スティーブンはにこやかに言った。
「それを食べて喜ぶ君の顔が見たいから」
「ぎゃー!」
私はとんでもなくあざとい微笑みをダイレクトに食らって心を割られた。似合うようで似合わないようで似合う謎の台詞で喉が詰まる。げほげほむせる私を無視して、彼は異界のきくらげを食べた。放置である。
「なんで急にそんなこと言うの!?」
「君の反応が派手だからだよ」
「びっくり人形みたいな扱い!」
どこで勉強するんだ、その技術。心臓がいくつあっても足りないし、毎回引っかかる自分が愚かしく思える。顔を出せば撃たれるとわかっているのに顔を出す。残されるのはぴくりとも動けない亡骸のみである。安息の地はないのか。
麻婆豆腐をいただきながら、ちらりと上目でスティーブンを窺った。目は合わず、彼もヴェデッドさんのおいしいお料理に夢中(……のはず)である。
ふと、問いかけたくなり。
「ねー、あのさ、スティーブン」
「ん?」
私って、と言おうとしてやめる。
私ってあなたのなんなんでしょう、などというワガママな彼女のような質問を平然と口に出せるはずもなく。なにと言われても、という空気になるのが目に見える。なにと言われても、なんなのだろうか。
「やっぱりなんでもない。今日も素晴らしくイケメンだね」
「そろそろヒネリを利かせてくれるかな?」
「ヒネリ!?」
かなり無茶な要求である。私に高度なテクニックを求めても、すったもんだの末にガラクタが出来上がるだけだ。そんなことはご理解のうえであろうに。
「えーと……、大好きです……?」
「どうも」
この雑さ。さっさと黙って麻婆豆腐とエビチリを食え、ということか。冷めますからね。
お箸を動かし、あっと声を上げた。
「……えっ!? ねえ、『僕もだよ』みたいなサービスはないの!?」
「言うと食事どころじゃなくなるだろ」
「気持ちは!?気持ちはあるの!?」
「食べ終わって、君がこの話題を憶えていたら言うよ」
「私は鳥かなにかなの?」
鳥も私よりは賢いか?
言いたかったことは、エビチリと一緒に飲み込んだ。
「そういえば君、前髪切った?」
言われて、前髪をつまむ。
「切ったよ。変かな?」
「いや、似合ってると思うよ。どこかへ切りに行ったのかい?」
「ううん、ハサミで。自分で」
「……そんなハサミ、あったか?」
「ないよ」
「だよなあ」
「あんなの、文房具のやつでいいんだよ。紙とか切るやつ」
スティーブンは「へえ」と私の額あたりを注視した。
「そうは見えない。うまいもんだ」
「傷むんだけどね、髪の毛」
「前髪以外は伸ばすのかい?」
「そういうわけでもない。邪魔になったら切りに行くつもり」
バチリと目が合って、私は見えない力に弾かれた。
「スティーブンはどっちが好き!?長いのと……」
「……短いのと?」
「そう!」
彼は親切にも、悩むふりをしてくれた。
「君ならどちらでも」
私は頭を抱えて髪を振り乱すしかない。
「悔しい!あざとい!明らかに冗談であるのに転ばされる自分が憎い!大好き!」
スティーブンが呟いた。
「僕、その点ではまったく信用がないんだよなあ」
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