24
僕から見たスティーブンさんは、とても『普通』な様子だった。
あの人から奇妙な呪いが解けたあの日、犯人をライブラ経由で刑務所にたたき込む僕らと別れた彼の表情は、『普通』を装うがゆえに奇妙に見えた。けれど完璧にいつも通りだったから、クラウスさんの言葉がなければ、僕らはもしかするとずっと気づかないままだったかもしれない。さんは自由になって出て行った、と説明されれば、不自然さを感じてもきっと、何も言えなかっただろう。
結果として事情を知った僕らは、彼らに協力することになった。これについては多少なりとも、僕も役に立てたと思う。
戻ったスティーブンさんは変わらず穏やかに、少しだけ『やれやれ』といった顔をして、気遣う僕らに笑いかけた。
「ひどい顔だな。快気祝いの笑顔はないのか?」
この言葉でブチ切れたのがK・Kさんだ。クラウスさんの客観的な解説と、ザップさんからの主観たっぷりで支離滅裂な説明を受けたK・Kさんは、あらかたのあらましを知って爆発寸前だった。
「あんたまさか、本当にやったんじゃないでしょうね」
スティーブンさんは軽く頷き、左手の絆創膏を見せた。
「なんの問題もなかった」
「こ、この男……」
わなわなと震えたK・Kさんを宥めるあの人の姿が、この場所の日常を取り戻す。しかし僕らはまだそれを信じきれずにいた。押し殺された感情はどこへ行ったのだろうか。
「……もう、いいんですか?」
諦めたように、チェインさんが問いかけた。スティーブンさんは彼女をまっすぐ見つめ、「ああ」と微笑む。
「なんとかなった。色々とね。君たちの望む結果ではなかったかもしれないが、僕たちにとっては最善だったよ」
「『あんたにとっては』の間違いじゃないの?」
「うん、まあ、そうかもしれないけど」
ぶすりと刺されても平然としたものだ。クラウスさんにお礼を言い、ザップさんの肩を軽く叩いた。
この人は強い。想いを寄せられ、想いを寄せる人と別れることになっても、その引き金を自ら引いても、なんら変わらず立っていられる。
そう思ったのだが、このときに僕が感じた強さは、少し的外れだった。
スティーブンさんはそれから、一度もさんに会っていないようだった。
気を失った彼女をライブラの構成員に預け、こちらまで運ばせた彼は、さんたちが到着しないうちに彼女の保護に関してクラウスさんと話し合い、クラウスさんは彼女の住居と当面の生活費を工面することを決めた。
「じゃあ、悪いが回る所があるから僕は出るよ。あとは頼む」
「え、会わないんですか?」
スティーブンさんは僕の肩に触れ、すれ違いざまに囁いた。
「本当に用事があるんだよ、レオナルド」
会う必要はない。けれどあえて会わないことを選んだように思えた。ダメージがないわけではないのかもしれないと感じると同時に、なんで僕だけに言うんだろう、と不思議に思った。たぶん質問した僕が、一番出口に近かったからだろう。
他の人からすると無言で出て行ったスティーブンさんは、理解はしても納得はできないK・Kさんから、やるせのない文句を受けた。
さんにバイトを紹介したのは僕だった。こういうのには慣れているので、求人広告の読み方を教えたり、実際に面接について行ったり。ふたりきりの時間の多さは僕がダントツだった。スティーブンさんの顔を見るのが、毎日軽く怖かった。
さんがその話をしてくれたのは、バイトの面接に合格した日だった。
僕がせめてものお祝いにピザを奢ると、「久しぶりに食べた!」ととても喜んでくれた。
垂れたチーズを指ですくい、さんは「ねえレオ」と切り出した。
「レオはさ、絶対に何かを忘れてるのに、何を忘れてるかわからないことってある?」
僕は一瞬、息が止まった。
すぐに気を取り直し、自分の中の感情から、いつかにおぼえたものをひとつ取り出す。
「……あるような気がします。なんとなくですけど。忘れたことを忘れてるんですよね」
「うん」
さんは頷き、ぼうっとどこか遠くを見つめた。僕を通り越して、誰かを、何かを見ているようだった。
「私、すごく楽しくて幸せだった気がするのに、……今だって毎日面白いけど、……何か違うんだよね。なんか、……何かを忘れてる気がして」
僕のピザから、いつの間にかトマトが落ちていた。
「もやもやするなーって。それだけなんだけど。なんだろうね」
「さん……」
僕はピザを食べることしかできず、唯一しぼりだせたのは、とても稚拙な答えだった。
「さん、それってきっと、大切な人を忘れてるんですよ」
彼女は怪訝そうにして、けれどしっくりきたのか、曖昧に頷いた。
「運命の相手だったら、忘れててもまた会えると思わない?」
「あはは」
自力じゃ会えなさそうだなあと思った。
「信じられるか少年。嫌がらせか何かのつもりか、こいつラテン語で送って来やがった」とスティーブンさんが僕に話しかけて来た日、僕はいつ言おうかと考えていたことを、良い機会だと打ち明けた。僕とスティーブンさんとギルベルトさんしかいなくて、部屋は静かだった。
「さんのバイト先が決まりましたよ」
場所を教えると、スティーブンさんは手を止めた。
「どうして僕に言うのかな」
「どうして、って……」
そんなにおかしな行為だろうか。
中途半端な回答はこの人をより遠ざける。こう思い、乾いた唇を舐めた。
「僕はおふたりをよく知ってるわけじゃないですけど、スティーブンさんはさんを……好き、だったじゃないですか。様子のひとつくらいは、見に行っても」
「君は気を遣い過ぎだな。僕は君が思うほど傷ついてはいないよ」
「でも、動揺してますよね」
しん、と空気の揺らぎが消えた。すがめられた目が、僕の真意を探る。
「あの日からあなたは少し、落ち着かない。仕事はいつも通り忙しそうだけど、早くに切り上げて帰宅することもなくなった。クラウスさんが言ってました」
僕は普段の彼の仕事ぶりを理解しきれてはいないので、なんとも言えないけれど。クラウスさんが言うのならばそうなのだろう。
僕を見据えるスティーブンさんの眼差しは鋭かった。
「スティーブンさん、家に何があるんですか?……何が、ないんですか?」
こちらもぐっと力を込める。
しばらくにらみ合うと、スティーブンさんはふっと息をついた。
「やりづらいなあ。君の眼はそういうものにも敏感なのかい?」
「使ってませんよ。ただそう見えただけです」
「なら君が怖いのか。参ったなあ。困るよ」
彼はハハハと声を立てて笑った。いくつか言葉で僕をからかってくる。
「あの、本当に困ってます?」
「困ってるよ。だって君、いくつだい。そんなことを言われたらどう考えても痛いだろ」
「そんなもんですか」
本心を隠すのに慣れた人だから、余計なのかもしれない。
僕だって大の大人の、特にこの人のそんな弱みを見つけたくはなかったのだが、見とめてしまっては無視できない。
「スティーブンさん、シフトを教えますから。えっと、確か……」
「少年」
やれやれと言ったふうな声だった。
「実は、バイト先は知ってるし、シフトだってわかってる。でも行きたくないんだ。なぜかわかるかい?」
知ってたのかよ、とは言えなかった。ザップさんの相手をするのとは話が別だ。この人にそんな口をきいたら二度と朝陽を見られない気がする。
でも、どうやって知ったんだろう。ライブラはちょっと怖い。
わかるかと言われ、僕は黙って首を振った。
「僕のほうも忘れるつもりだったんだが、そうもいかなくてね。『忘れるな』と言われたのもあるが、言われなくても無理だった。本当に困る。困るだろ、君も」
「え、ええー……?」
「困ると思うよ」
およそこの人物から飛び出すとは思えない言葉の散弾を食らってまともな反応が思いつかず、僕は頬をひきつらせることしかできなかった。
「でも、それならなおさら会ったほうが」
「たぶん、いつかは行くさ。だが、今じゃない」
その『いつか』は、放っておいては一生来ないのではないか。そんな予感がした。
この人は自分を強く律することができる。大切なものは仕事とクラウスさんで、自分は二の次だ。三の次かもしれない。私情は仕事の前でかき消え、いつだって冷静だ。
だからこそ、一時の同居人を忘れられない自分にほとほと困り果てている。その部分だけは思い通りにならないのだ。
僕はその感情の正体に気づいていた。単純な名前。もっとも僕らから遠かったもの。
「スティーブンさん。さんが言ってました。『忘れていることがある』って。彼女も大切で楽しかったことを忘れていて、探してるんです」
あっけにとられたこの人の姿を、僕は必死で目に焼き付けた。こんな貴重なものは逃せない。ソニック、お前もよく見ておくんだぞ。内心で呟いた。
「……君って意外と残酷な才能があるな」
「僕なんかに動揺させられるくらいなんですから、さっさと会わないとダメですよ。……スティーブンさん」
こんなことを言うのはとても卑怯なのだが。
「さんの顔、本当に見たくないんですか?」
長いため息が落ちた。
その横顔は、僕に共感と、分不相応な悲しみと、わずかな親近感を与えた。
「そのうち行くよ」
今度は、ちゃんと行きそうな気がした。
「すいません、出しゃばって」
「いや、気にしないでくれ。誰かに話したかったのかもしれない。それが君で良かったよ。ザップよりマシだ」
「ええー……、あの人と比べてほしくないんですけど……」
嘘くさいうえに、この話題でザップさんと同じ土俵に乗せられるのは心外だ。
話を終えてからドキドキし始めた胸を押さえ、僕はソファで脱力した。ものすごく体力を使った気がする。
スティーブンさんがデスクに肘をついた。
「ちなみに、顔は見てるよ」
「……ええっ!?行ってるじゃないですか!」
「いや、写真を持ってる。部屋もそのままにしてあるし」
「絶対忘れる気ないだろ!!なんなんですかそれ!!」
全然弱ってなんかないじゃないか。僕の目は節穴か。
「僕の30分はなんだったんですか!」
「いいカウンセリングだったよ。ありがとう」
やっぱり僕、この人は少し苦手だ。
1週間後、ランチの時間。
『奢り』のひと言に釣られ、僕はスティーブンさんと並んで通りを歩いていた。目指すのは件のカフェである。彼の足取りに迷いはない。
「道も調べたんですか?」
「来たことがあるんだ。彼女とね」
「へえ……」
彼とあのカフェは似合わないような気もしたが、スティーブンさんならどんな場所でも様になってしまうのだろうか。多少の視線を集めることは間違いなさそうだ。
というかそれって、もしかしてデートですか?
さすがに訊けなかった。肯定されても否定されても気まずい。
ドアを開ける。
ランチタイムにしては、ここは空いている。どちらかと言えば午後のティータイムにお客さんが入るらしい。ウリにパンケーキなどがあるから、足を休めるカップルにも利用されるのだとか。
男ふたりでカフェとはどうなのだろう。絵面的に不安が生まれたが、出迎えた女性の姿を見て、不安は緊張感に変わり膨れ上がった。僕が焚きつけた以上、最後まで責任を持たなければならない。
「あ、レオ。いらっしゃいま、……せ」
制服に身を包んださんは、知り合いの僕よりも先に、隣の彼の顔を見た。普段はひとりで来る僕が、よりにもよって成人男性をくっつけてきたのが不思議だったのかもしれない。
「こちらは僕の……知り合いの、スティーブンさんです」
何も知らない顔でニコリとしたスティーブンさんに、彼女はしばらく、硬直していた。唇が薄く開き、僕のことなど目に入らないようだった。
「レオの……知り合いの……スティーブンさん?」
ぱちりぱちりと数度の瞬き。
「……あれ?逆じゃない?レオが……知り合いなんじゃない?」
何かが引っかかったように傾げられた首。一瞬、僕は彼女の言葉の意味を読み取れなかった。スティーブンさんを唯一の基準としていたさんにとっては、僕の紹介と視点が違うのだと気づいたのはもう少し後になってからだ。
「パパが」
彼女はぽつぽつと呟いた。
「パパが、……すごい寒くて……、痛くて、……ヴェデッドさんが……」
僕には理解できず、彼には心当たりがあった。
ゆっくりと、スティーブンさんの目が瞠られていく。
「私、あなたって、……私……」
何かの名残か、残滓か、彼女は一歩後ずさった。声が震える。
「なんだろ、なんだろう、あ、えっと……」
じりじりと後ろにさがっても、視線は結ばれたままだ。現実がみるみるうちに彼女を取り巻いた。
「スティー、ブン」
僕にも、彼にも、それだけで充分だった。
スティーブンさんが大股で近づくと、彼女は咄嗟に「待って」と言った。
「待って待って、ちょっと待って!」
自分の中で急激に整理がついてゆく変化に対応しきれなかったのか、制止だけかけてバックヤードに逃げ込もうとする。テンパったその腕が強く捕まえられ、熱いものに触れて手を引っ込めるような反射的な抵抗は形にならなかった。感動なのかビビっているのかわかりづらいが、顔色が悪かったので、たぶん彼女はビビっていた。
名前が呼ばれる。一度目は呼び止める為のそれで、二度目の「」は語りかけて繋ぎとめるような音だった。
名前の次に、僕の知らない響きが続き、それは彼女に似合わないなと漠然と感じる。
人の少ない店内で視線が飛び、すわクレームかと店員たちが身構えた。僕は必死にジェスチャーで場をとりなした。
「君、いつ上がる?」
「え、あ、えーと、17時」
シフト知ってるくせに、と自然と目が白くなる。大人はずるい。何も知らずに引っかかるさんが可哀想になってきた。
しかしスティーブンさんも、口ぶりの端々からどことない焦りが滲んでいた。落ち着き払っているわけでは決してない。大人は損だ。本人ですら気づいているのかどうか。
こうなれば楽なのになとは思っていたが、まさか本当に叶うとは。僕が采配したみたいで気まずくなる。
「この店は何時まで?」
視線が壁掛け時計に向いた。
「23時、だったような?」
お互いに知っているはずなのだが、あまりにも目まぐるしい数分のせいでここでバイトをしているさんまで語調があやふやになった。
「じゃあ終わったらここで待っていてくれ。迎えに来る」
「な、なんで?」
見ていられない僕は両手で顔を覆い、スティーブンさんが一拍、黙った。
「……『なんで』?……君、今の状況でそれはあんまりじゃないか?」
もっともだ。
「……ああ、忘れてた」
さんの腕を掴む手に、力がこもる。
「なあ、君は僕の不毛な恋を憶えてるか?」
僕の気のせいだろうか。
この言葉の裏には、『憶えていて欲しい』と、渦巻く感情が隠れていた気がした。
きっと錯覚だろうけれど、それはとても心地よい錯覚だった。
さんがうなだれた。
「え、えっと、あの、……私を忘れないでいてくれてありがとう、……なの?」
「それなら良かった。残念なことに、変わらず君が好きだよ」
「そ、そっか、あの、……み、実ってよかったね」
「ひどい台詞だ」
どういうやりとりなのかはさっぱりだが、さんの動揺だけは如実に伝わってきたし、聞いている僕は胸焼けしそうだった。
ぐう、と腹の虫が鳴いた。
これって昼メシどころじゃないよなあ、ソニック。
ソニックは僕の頬を手で押した。
うん、そうだよなあ。
でも、スティーブンさんは忘れずに、そのカフェで僕に食事を奢ってくれた。
いたたまれなくて出て来られず、裏で店長に慰められているらしいさんの代わりに別の女性店員さんが注文を取りに現れたのだが、その人は3割増しで機嫌が良さそうでニコニコしている(……ように見える)スティーブンさんの笑顔を直で食らって胸を押さえていた。どこで捕まえるんだこんな人、と呟いた彼女には僕も同意したい。ホントに、どこで捕まえたのだろう。
まあ、やきもきせずにいられるようになるのは幸いだ。
食い溜めできるくらいすごい量の食事に手をつけて言う。
「これからどうするんですか?」
「彼女に訊いてみるよ」
「スティーブンさんはどうしたいんですか?」
スティーブンさんは僕の問いかけに、不思議そうな視線を投げた。奇しくも僕の質問が、いつかの彼の質問とそっくりだったことに驚いたようなのだが、僕はそれを知る由もなかった。
スティーブンさんはコーヒーを飲む。
「どうだろう。帰ったとき、彼女がいればいいとは思うよ」
「……それ、さんに言ったら、さん埋まりますよ」
「だろうね」
わかってやっているのだから、たちが悪い。
これ、さんは大丈夫なのかな。心臓とかを痛めたら大変そうだ。
僕は傍観的な心配をし、進展がなさそうな彼らを心の中で応援した。
進展がないふたりは、閉店直前のガラガラな店内で向かい合う。
ひっそりと店員に見守られながら、ふたりのうち、スティーブンが口を開いた。
「ところで、今の住居を引き払って僕の家に来るつもりはないかい?」
がストローから唇を離す。
「それ、『はい!』って答えるのと『いえ、そこまでご迷惑はかけられません!』って言うの、どっちが正解!?」
「答えを聞くのはずるいだろ?」
の選択はだいたい外れる。
しかし彼女は本能に任せ、テーブルに身を乗り出した。胸はドキドキして、頬は赤く、期待で目が輝くさまは恋を体現していた。受けるスティーブンも、決まり切った答えをゆるやかに待つ。
は大きく頷いた。
「今の部屋の契約とかはちょっとわからないけど。も、もし問題がないなら、ぜひお願いします!」
「正解。おめでとう」
「やったー!!」
大げさなようで、これがなかなか冗談ではない。
「同衾もお願いします!」
「君、明日から働きづらくならないのか?」
「しまった!!」
バックヤードで、店員が揃って「奢ってやるか……」と呟いた。
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