23


これで、すべてが終わる。失敗する気などさらさらない。そんな未来は存在しない。全力をかけてすべてを叩き潰す。
そしてこれで、すべてが始まる。
このとき彼は、そう思っていた。



チェインによりもたらされた情報によると、敵の根城は42番街の外れ、地下深くに埋め込まれた空間にあるらしい。おおよその見取り図を手に入れ計画を練るうち、ザップがポソリと「アリの巣みてーだな」と言った。これにはチェインも内心で同意する。空間転移こそないが、原始的な隠し通路だの典型的なブービートラップだのと強盗対策がせわしない。なまじっか隠されているものだから、偶然にも発見した不届きものが忍び込むことがあるのだろう。異能を使う者が仕込む罠にしては稚拙だが、下手に奇策を凝らすと何かの折に感知され、摘発されかねない。この程度がちょうどいいのだろう。
「で、誰が行く?……僕とザップはメインとして、少年は無理だが、何かあったときのために一応はついて来てくれると助かる」
「わかりました」
「なんで俺指名なんスか」
「お前がいると便利だ」
「な、なんスか急に……」
予想外の言葉にひるんだザップを、チェインが刺した。
「綺麗に罠に引っかかりそうだからですよね」
「うん」
「炭鉱のカナリアかよ!!」


巧妙に壁と一体化させられたカバーを開き、調べたパスコードを入力する。小汚いコンクリートがスライドした。
根城への階段は深く、生ぬるい空気が裾を揺らす。こちらはK・Kが狙撃するには入り組み過ぎた場所であり、万一のことは待機するツェッドに任された。
本部で待つよう進言されたクラウスは、見事な体躯を縮めて窮屈そうに階段を下る。スティーブンはポケットに手を入れたまま、後ろからついてくるクラウスにこっそりため息をついた。ありがたいのだが、彼の戦い方は地下に向いているのか?
地下通路の壁は、少し進むと意外にも、大理石のような冷たい素材に変わっていた。
先陣を切る(……切らされる)ザップは何気なくそれに触れる。ついた手のひらがぐっと奥へ沈み込み、彼はスティーブンの前で残像を残し真下へ落下した。かろうじて手をひっかけて身体を支えて留まっている。スティーブンが覗き込むと、落とし穴の底には尖った棒と、それに引っかかったのだろう何者かの骨があった。
「俺は迂闊に触るなって言ったよな?」
「チクショウ、つまんねー罠仕掛けやがってクソが……」
ザップは腕と手の力で這い上がり、軽やかに穴を飛び越えた副官とリーダーに恨めしげな視線を送った。副官は素知らぬ顔である。背後で床が元に戻った。
頭に叩き込んだ見取り図に合わせて角を曲がり、意図的な行き止まりに突き当たっては、至る所に設置されたスイッチで道を拓いた。
「なあスカーフェイスさん、これって監視カメラ的なモンがあるんじゃねースかね。誰も出て来ねーのはもう逃げちまってるから、とか」
「調べた限りでは、出入り口はふたつ。こっちは俺たちが。反対側は、普通に出ればK・Kがぶっ放してくれるさ」
「でも異世界から召喚だのなんだのができるんッスよね。それでどうにかしてたり?」
「それをやられると面倒なんだよなあ」
召喚や転移に対する遠距離からの対策は、多くない。観測する方法もなくはないが限定的だ。
クラウスが深く頷く。
「確かに、君の言うことには一理ある」
ですよねー、と振り返ったザップの肘が壁に当たる。彼の頭めがけて天井の一部が落下し、直前に飛びすさった彼の目の前で地響きを立てた。
「学べよ」
「スンマセン!っんなんだよここ!七面倒くせえんだよ!」
「しかしこれだけ仕掛けがあるのだ。こちらの様子を見られないからこそトラップを増やした可能性がある。召喚の術は一方通行であり、行使には準備期間が必要だとわかっている。事前に用意をしている疑いは否定できないが、今は進むしかないだろう」
「俺をカケラも心配しねえっつーのが」
「だからあまり騒ぐなよ、ザップ」
「ウィース」
上昇し、なんの変哲も無い天井に戻った殺人トラップを見上げ、ザップはまぶたを半分下ろして吐くふりをした。
「つかこれ開かねえけど……、道合ってます?」
「開かない?押すのと引くのを間違えてるんじゃないか?」
「どんだけラリってると思ってんスか」
スティーブンが扉に片手を伸ばし、金属板に従って押し開く。
手のひらがわずかに熱を持ったが、害のあるものではなかった。
「開くぞ、これ」
「あっれぇ!?」



誰にも会わないまま、3人は一室に侵入した。
香の匂いが充満する部屋だ。
明らかに感じる人の気配に、視線が鋭く変わる。
「お、邪、魔、しまァーす」
垂れ布を払いのけて奥に踏み込む。
背を向けていた異界人は、ビクリと身を竦ませて彼らの顔を凝視した。
「ば、ば、バカな!嘘だろ!?ここには被験者しか出入りできないはず……!私の術は完璧で……」
スティーブンとクラウスは顔を見合わせた。被験者とは、召喚された者のことだろう。そして召喚されたものは無力で、戦う術を持たないという。武力で押さえつけられる相手でなければ暗殺の道具にするのは難しい。頻繁に大量の薬を購入していてもいずれ足がつく。表からも裏からも、マークされては実に不便だ。
何やらよくわからないその仕掛けがあったからこそ、彼はこうして安穏とティータイムを楽しめていたのだろう。テーブルの上にはティーポットとカップがあった。今は昼には早く、ちょうど小腹が空くころだ。
「さっさと終わらせてメシ食いてえんだよ俺はよォー。寿司なんだよ今日は」
「な、な、なんなんだ!?わ、私をどうするつもりだ!?」
クラウスが両手を広げた。
「話を聞かせていただきたい。大人しく投降してはもらえないだろうか」
「は、は、話!?武器を構えておいて!?」
「まだ構えてねーよ。何が見えてんだコイツ。ラリってんじゃねースか?さっさと調べちまいましょうよ」
室内に退路がないことを確認し、スティーブンは「抑えておいてくれ」とザップに言い残し、本棚に近寄った。
クラウスは険しい顔をつくる。
「我々とあなたは非常に厳しい立場に置かれている。もしも正直に質問に答えていただけるなら、こちらもなるべく正当な手段を取ろう」
この男が犯人であることは、ほぼ間違いない。最低な手段を弄する卑劣漢である。
しかし彼はあえてこう言った。厳しい眼差しはぴくりとも変えずに。
一方、ザップは剣呑だ。
「そんな穏便に行く必要ありますかねー。コイツ、アレっしょ。異世界からオンナ引っ張ってきて殺してんですよ」
「女だけじゃない!男もいた!」
「そこじゃねーよ」
じり、と絨毯を踏みにじれば、男は後ずさる。座っていた椅子に膝裏をぶつけ、腰を抜かして座り込んだ。
「わ、私はそこまで悪事を働いたか?持つ知識と能力を使って金を稼いで何が悪いのか。これは後から思い至ったが、ついでに言うならば、人助けでもある」
「はああ?」
「私に頼みごとをしてきた者どもは私の手を握って感謝を表したぞ!」
「ダメッスわー、これ言葉通じねーわー、すげーイラつく」
「なんだ、同属嫌悪か?」
「こいつがキメエからって当たんないでくださいよ。信条ですよ信条。万引きと食い逃げは違うっつうか」
「どっちも犯罪だ」
「いやあスターフェイズさん、食い逃げはやりようによっちゃ犯罪にならない場合も」
「お前、そういうところはきっちりしてるんだな」
「何しに来たんだ貴様ら!?茶番は他所でやってくれ!わ、私は悪くないだろう、私は……」
これが追い詰められた犯罪者の姿だった。規模の大きい、下劣なやり口に似合わぬ小物ぶり。かつ身勝手な言い分に、探し物を進めていたスティーブンが眉根を寄せた。こんな人物に幾人もが巻き込まれたのかと思うと、憤りを通り越して遣る瀬無さを感じる。もっともらしい悪人を望んでいたわけではないが、あまりにもお粗末。
これには、理性で感情を抑えつけていたクラウスも一歩踏み出した。男が震え上がり、テーブルの下に手を突っ込んだ。取り出したるは機関短銃。フルオートで発射された全弾は、ザップが業物を手にする前に、ファイルを持った男の靴底からのびた障壁に阻まれた。
「これじゃないかと思うんだ。クラウス、悪いが読んでくれないか。ちょっと読めない」
「どれかね?」
意を削がれたクラウスは、背中を踏みつけられた男から目を離した。渡されたファイルには、スティーブンよりもクラウスの得意な言語が並んでいた。
小回りのきかないクラウスの剛力が爆発すると不穏である。これはザップも感じ、内心慌てて犯人を拘束した。ただの腕力で済めばまだ良いが、ここが地下であることを考えると、手を出させづらいのだ。うっかりすると崩落の憂き目に遭う。
落ちた銃をスティーブンが蹴り飛ばし、ついでに他に得物がないかザップが懐を探る。
「まじない言葉が必要なのだそうだ。それを異世界から来た者に聞かせると、聞かされた異世界人から術の効果が消えるそうなのだが……」
「何か問題が?」
「っつーかコイツぁなんでそんな重要なことを紙に書いてんだよ」
「忘れるだろう!?」
「忘れねーよフツー。会話したくねェなあ。なんか縛るモンないスか?」
スティーブンは辺りを見回し、壁にかかっていたタペストリーをひっぺがした。長いそれをザップに投げると、彼は「どんだけワイルドだよ。強すぎだろ」と布を切り裂いた。
クラウスは、スティーブンを窺った。
「うむ。まじない自体は書かれていない。……異世界人に降りかかる災害的危険の消滅と、例の『つながり』の消失の効果が大きい。これはまじない自体を失わせるので再発もないそうだ。目立つものはそのくらいだが。言語の共有はどうなるのだろうか?」
「どうなんだよ」
凄まれ、転がされた犯人が叫んだ。
「わ、わかるかそんなモン!解除なんかしたことないわ!」
「じゃああの説明書はなんなんだ?」
「故郷で教わって書いたんだよぉ」
「なんだコイツただのバカか?ふざけんなよ」
「というかこの術、相伝なのか……」
願わくは一子相伝であるか、術師が善人であることだ。
ジタバタと動く足をスティーブンが踏みつけた。
「それで、その『おまじない』っていうのは?……使ったことがないからそれも忘れた、なんて言うなよ。ついでに他に仲間がいないかも教えてもらいたいな。術を知っているのは君だけか?」
「わ、忘れたと言うと……」
「うーん、ちょっと彼らを外に出して、俺たちふたりでゆっくり話ができればわかってもらえると思うんだが、どうだろう。ザップ、彼と話し合いたいから、クラウスと一緒に隣の部屋の観光でもしててもらってもいいかい?」
「待った待った待った待った!痛い痛い踏んでる踏んでる!言う言う言います!知ってるのは私だけです!商売道具を人に教えたりしないです!踏んでる踏んでる!仲間は雇ってるだけで常駐はしてないです!!踏ん、踏んでる踏んでる!」
「踏みすぎっしょ」
「言うほど踏んでないぞ」
いやめっちゃ痛がってるし、という言葉は賢明にも飲み込んだ。
男の口から、意味不明の羅列が垂れ流される。
「ん?今なんつった?」
男はもう一度言った。
「何か意味があるのか?」
「わ、わかんないですぅ……」
「もーホントなんなんだよコイツ。ジョーシキ的な俺はお手上げ。バカは罪。陰毛呼んでこい陰毛。アイツ居ねーとツッコミがハナシになんねーわ」
「少年が来てからは、俺もたまにそんな気持ちになるよ。誰にとは言わないが」
「スターフェイズさんを困らせるような卑劣なやつがいるなんて信じらんねー」
しゃがんでいたスティーブンが立ち上がると、おずおずとクラウスが口を開いた。
「その……、スティーブン」
スティーブンが顔を上げる。




小男を引っ立てて現れた3人に、レオナルドは思わず駆け寄った。
「解決、……したんですよね?」
捕まえられているのは明らかに犯人だ。しかし全員、3人が3人とも嫌な顔をしている。
否、そう見えたのはレオナルドにだけだった。
一見するとザップはいつも通り、たとえば財布を落としたときと同じような目つきでいる。足を引きずって歩く犯罪者を連行するクラウスも、レオナルドと目が合うと生真面目に頷いた。強く、たくましく、まっすぐで変わらない。
「スティーブンさん、解決……したんですよね?」
スティーブンは微笑んだ。
「ああ。おかげさまでね。ザップが何度も罠にかかってくれて助かったよ」
「そ、そうですか。よかったです」
彼はツェッドの胸をぽんと叩き、労いと感謝を述べ、路地を抜ける。背中を追うと、横に避けたチェインがレオナルドと同じように、眉間に薄くしわを寄せた。
「本当に終わりですか?」
レオナルドと同じことを問いかけ、同じ答えが返った。
「うん。心配かけて悪かった」
彼女はそれ以上なにも言えず、スティーブンを見送るが、もやもやとした不安が胸を満たしていた。
「解決して良かったですね」
「んあ?」
ザップはツェッドを振り返り、ハハンと盛大に口角を上げた。
「あー、まーな。俺さまがついてりゃこんなモンよ」
「何度も罠にかかったって言ってましたよ」
「オメーなら死んでたなーありゃーなー」
「ケンカ売ってるんですか?」
「まーまーまー」
クラウス、スティーブンに続き、レオナルドら4人も路地を出る。メンバーが車に集まるのを見て、遠くでスコープが引き上げられた。きらりと光ったそれには誰も気づかず視線を向けない。
各々が車のドアに手をかけたところで、スティーブンがポケットから電話を取り出した。
「悪いけど一本電話して来るよ。先にそいつをぶち込んでおいてくれ」
「ウィース」
「え、でもスティーブンさんのアシがなくなるんじゃ」
「K・Kに連絡して拾ってもらうよ」
「絶対拾わない!それ絶対拾わない!」
ひらりと手を振った副官を、クラウスが呼び止めた。
「スティーブン。君はそれで構わないのか?もう少し調査を進め、別の方法を探すことも……」
レオナルドが首を傾げた。
スティーブンは立ち止まって、クラウスに言い聞かせるようにする。
「クラウス。まったく……何を言ってるんだ。あるのかもわからないモノを探してハンデを負ったままなんて、僕は困る」
「だが、それでくんの記憶が消えてしまうというのは」
「クラウス」
素早い制止は一瞬遅く、ザップが舌を出してレオナルドの頭に肘を乗せた。振り払ってくるはずの細い腕は動かず、ただ唖然としている。
「レオちゃんよォ、俺はちゃんと、旦那に隠し事は向いてねーんだって言ったんだぜ。悪くねーよな俺は。なあ陰毛。おーい」
少年は、目の代わりに口が開きましたという様子で、全員の顔をぐるりと見回した。
「ザップさん、……今のどういう意味ですか?えっと……、僕の聞き間違いじゃないですよね?……ど、どういうことですか?」
ザップが知らぬ顔を貫くので、矛先は当事者に向いた。
面倒だなあと言いたげに、手が再びスーツに消える。
「つまり、解くと異世界人の記憶が消える」
「なにが『つまり』なのかぜんっぜんわかんないです!」
「消えるって、全部ですか?」
「どこまで消えるのかは知らないよ。異世界に来たところまでは憶えてるんじゃないかな。そうじゃないと大変そうだ」
「た、大変って……」
レオナルドは記憶の中のふたりを思い浮かべ、めまいを起こしそうになった。唯一支えにできそうなザップはむしろ、レオナルドの頭を肘掛けにする始末。頼れる者は誰もいない。ここにK・Kさんがいれば、と少年は心底思った。たぶん、乱闘騒ぎだ。いや、やはり、いなくてよかったかもしれない。
そういった話題が得意ではない自分から見ても、話をしても、かの異世界人はこの人が好きだった、とレオナルドは唇をはくはくと動かした。彼も、決して嫌がってはいなかったはずなのだ。それどころかむしろ、好意的に見えた。
今のスティーブンは、今夜の天気について話しているようである。星が綺麗だなと言う口で、レオナルドにとってはわけのわからない話をする。
何も言葉が浮かばない。
絶句するレオナルドの隣で、チェインが声を上げた。
「そ、れでいいんですか? それしかないんですか?」
「手っ取り早いものが見つかったんだから、使わない手はないだろ」
「ですが、スターフェイズさんはどうなるんですか?」
「僕の記憶はそのままだよ。問題ない」
ツェッドとレオナルドが同時に思った。
それは逆に大丈夫なのか?
彼女も同様である。
「……問題……ない、……ですか?」
「あるかな?」
「あの」
これが誰を心配した発言かは、チェインにも判別しかねた。
「彼女はどうなるんでしょう。はあなたが好きですよね。それも、……それも忘れてしまうんですか……」
「それだけが残る理由がないし、忘れてしまうんじゃないかな」
「でもそれなら、あなたは?……好き、なんですよね、……のことが」
クラウスは沈痛な面持ちである。おそらく彼は、彼らの中でもっともこの事態を残念に思っていた。
そしてもっとも理不尽な感情にとらわれていたのがチェインだった。
それは非常に説明しがたいものだ。憤りに似ていた。
「そんなにわかりやすいかな?そう言われたことはあまりないんだが」
「……はぐらかさないでください……」
「はぐらかしたつもりはないさ、チェイン」
スティーブンはチェインを気遣う様子を見せた。
それから少しだけ、声を落とす。
「どうするのかは、僕にもわからない」
甚だ不本意である。このような結末は、チェインの胸に信じられないほどの不満を積もらせた。レオナルドがびくりと身を震わせた。
「だが、そういうこともある。彼女は運が悪かった」
この言葉を笑い飛ばし、ザップがレオナルドの頭をぐらぐらと揺らした。
「運がワリィのはどっちもどっちじゃねーかなーって善人の俺は思うわけだよ陰毛少年。おかげさんでアノヤロウのアンヨはうっかり折れてるっつうな。踏みすぎってコエーよ。なんつったと思う、あの人。『すまん、クラウス。間違えた』だぜ。イヤイヤイヤ。俺なんかは脂肪が薄いから寒いんだわ」
「何言ってんですか!こんなときにふざけないでくださいよ!」
「マジで寒かったんだって!しょうみなハナシ!」
ぐらぐらと揺らされるレオナルドの視界は、先ほどのめまいも相まってあまり具合がよろしくない。
「まあ、そういうことだ。ちょっと連絡してくるよ」
踵を返したスティーブンにも、チェインの小さな声は届いた。
「いいんですか……?」
聞こえなかったふりをする。
まさか、嫌だとは言えないだろう。
彼が優先するものは、彼が最も大切とするものは、それではない。
すたすたと遠ざかる姿から、レオナルドには、はっきりと優先順位をつけ、己を律して冷めさせた顔が見えた気がした。
だからクラウスがこう言ったとき、わずかに安堵した。
「スティーブン。電話ではなく、直接話してやりたまえ」
彼は肩越しに振り返り、クラウスの強い眼力を受け、そうするよ、と苦笑した。




知らない車に乗っていて、すわ誘拐かとゾッとしたところでスティーブンの自宅に到着し、謎の黒服たちが彼の部下だと知ったのは3時間前。なんだか夢みたいなお泊まり会だったなあと思いながらテレビを聞き流し、スティーブンからもらった小説を読んでいたときだった。
電話が鳴り、ろくに見送りもできなかった人の名前に急いで応答する。
「あ、もしもし。あなたの大切なです」
返事はしばらくなかった。
「す、すみません調子乗りました。どうかしたんですか?」
「うん、ちょっとした報告があってね。今、大丈夫かい?」
「もちろん」
「これから一旦、そっちに戻ろうと思うんだ。ヴェデッドは?もう帰ったかな」
「うん」
「それは良かった。それじゃあ、あと……20分くらい待っててくれ」
了承する前に電話は切れ、私は宙ぶらりんの『わかりました』をどうしていいかわからず、ツー音に向かって言っておいた。
こんな時間に途中退社。またすぐに出かけるのだろうが、忘れ物でもしたのだろうかと考える。ああしかし、報告があると言っていた。何についてかと考えを巡らせると、自然と昨夜の会話を思い出す。そういえば彼は、『明日』、つまり今日にでもこの厄介なつながりを断ちにいくと言っていた。
声はどこか憂鬱だった。悪い報告かもしれない。それについて喜んでしまう自分も確かにいて悔しい。もう少し物分かりが良くて頭の切れる、素敵な女になれると嬉しいのだが。
スティーブンの様子は、電話口からでも感じられるほど空虚だった。何かしら優しい口調でいるはずなのだが、どこか違和感が拭えない。そんなに残念か。まあ、当たり前である。
お昼ご飯は食べていくのかどうなのか、そんなことはありえないと思いつつも冷蔵庫を確認する。用意された食事は私のぶんだけで、どう見積もっても足りそうにないし、私は料理が得意ではない。キョーミがなかったし、実家暮らしだと黙っていてもご飯が出てくるのだ。ヴェデッドさんの手際を見て勉強させてはもらうものの、実践したことはまだ数えるほど。最近、魚を切れるようになった。切るたびに『これは人界の魚か?』と疑いを持つ。
何もしないで待つのも暇だし、せっかくだからコーヒーの1杯でも淹れておくか、とお湯を注いで蒸らしたところで鍵が開いた。
「おかえりなさーい」
スティーブンはキッチンに顔を出し、「何してるんだい?」と私に訊いた。
「飲むかなと思ってコーヒー淹れてた。下手ですが。飲む?」
ふっ、と空気が緩んで、彼が笑った。
「……うん、じゃあもらうよ」
なんか疲れてるのかな、と笑顔を見て思ったので、シュガーポットも持って行く。

スティーブンは立ったまま、マグカップを受け取った。座るように手で示され、黙ってテーブルにシュガーポットを置き、椅子を引く。口を開きたがっているようには見えなかった。
「朝起きたら車にいてびっくりしたよ。スティーブンの部下の人は良い人だね。寝ぼけてたら肩貸してくれた」
彼は機械的にカップを口に運ぶ。見つめられて、照れるは照れるのだが、言い出せる空気ではなかった。あれっ私死ぬのかな?とドキドキする沈黙だ。実はもう呪い的なものは解除されていて、あとは証拠隠滅として処分されてしまうのでは。そんなことはないとわかってはいるが恐ろしい。何せ彼は仕事一筋。必要があればやりそうな男。実際に軽く危機に瀕した。
「座れば?」
向かいを指差したが、「いい」と拒否される。朝に起き、コーヒーを飲みながら朝刊を読む、そんな一場面に似ていた。問題は今が昼前であり、朝刊はなく、なぜか圧迫面接のような雰囲気であることだ。彼の瞳は冷めていた。いつか見たときのように。
「報告って何?」
嫌な予感がしなくもない。
そしてそういうものは、当たるのである。
「終わらせる方法が見つかったよ」
「……あれ!?ダメだったのかと思った。良かったじゃん!」
てっきり、と言おうとして、あまりにも温度差があるので笑みが固まった。
「……え?ダメなの?何が?私は死ぬの?」
「死なないよ。何もダメじゃない」
「じゃあ笑えばいいのに」
「そうだよな」
彼は一向に笑わない。だんだん怖くなってきて、「ねえ」と出した声は弱々しかった。
「言ってよ。黙っていられてもわかんない」
わかるのは、『万事解決』ではなさそうだということのみ。
私ひとりが座っているのがおかしい気がして立ち上がりかけると、タイミングを見計らったように低い声が流れた。
「これが解決すると、君の『死にやすさ』も一般人と変わらなくなる」
「実感湧かないけどね。死にかけたことがないから」
突っ込みは入れてもらえなかった。まるで、馴染みのペースに戻るのが嫌なようだ。イライラしてるのでは、と気づき始める。
「方法は?」
「『おまじない』を唱えるだけだよ」
「簡単だね」
「驚くほどにね。本当かどうかは、やってみなくちゃわからないが」
「そっか、嘘の場合もあるのか」
本当であってほしいのか、嘘ならいいなと思っているのか、自分の心がよくわからない。
「成功するといいね」
「そうだな。もしこれが真っ赤な嘘で、唱えた瞬間に君が死んだら大変だ」
「お互いに笑えない」
唱えてほしくない気持ちがちょっとだけ増した。
「だが、そういう嘘をつけるほど、頭の良いやつではなかったよ」
私レベルのバカだったのかもしれない。こんなものを家でも仕事でも相手にしなければならないなんて、社会とはつらいものだ。
「なら、やってみようよ」
見上げた顔は真剣で、先を急かす私こそが世界の誤りであるように思わせる。
スティーブンは、流れをぶった切った。
「君、まだ僕のことが好きかい」
はあ、とあっけにとられて頷く。
「『まだ』も何も、変わらず好きですとも。なに急に」
「僕も君が好きだったよ」
私の喉が一気に乾いた。現実と夢が混じり合う。私は長くて悪くて、起きたときに悲しくなる夢を見ているのか?彼は何を言っている?
彼は私の混乱を無視した。
「今も好きだ」
やはり私は死ぬのかもしれない。殺すのはこの男だ。心臓がいつ止まってもおかしくない。
彼は恋をしていたのではなかったのか。どこかの誰かに。私の知らない本命に。
その相手は、ええと。……あれ?
手が私の頬に触れる。彼は見慣れない表情でこちらを見下ろした。言葉では言い表せない感情がなだれのように襲いかかる。そのような眼差しを向けられたことは人生で一度もなく、圧倒的な水流が胸と頭で荒れ狂うようだった。
突如発生した竜巻でもみくちゃにされた私に、二度、三度とショックがぶつけられる。
「君は僕の一番にはならないけど、大切にしたかった」
かろうじて頷く。
「え、ええ、まあ、一番は仕事ですからね」
「うん。二番目にもならないかもしれない」
「二番目はお付き合いですからね」
「他にもあるよ」
なんなんだこいつ、と思わなくもなかった。本当に愛の告白か、疑う私はおかしくない。
「でも、手離したくなかったよ。君が思うよりずっとね」
感動も忘れる違和感。
「あの、……なんで過去形なの?今も好きなんですよね?」
「好きだよ」
「じゃあずっと大切にしてよ」
この要求は当然のものだと、私は思った。好きでいてくれて、大切にしたいと思われている。それならばそのようにしてくれれば良いのでは、と主張したくなるのだが、これは私が愚かゆえだろうか。
困惑していると、彼はわかりやすく説明をした。理由はゆっくりと私に浸透していく。初めから言ってよ、と途中で叫びそうになった。

唖然として復唱する。
「記憶ですか」
「うん」
「私だけ?」
「そうらしいよ」
「……不平等じゃない!?」
異世界人に失礼だとは思わないのか。なんと悲劇的な仕組みだろう。誰だ、こんな呪いを勝手にかけたのは。既にムショ入りした顔も知らぬ犯人に恨みを飛ばす。
「だから今、言い逃げしようとしてるの?」
「そうだよ」
彼はまだ私に触ったままだ。白い目で睨み上げても変わらない。
記憶が消える。最低だ。この恋心だけが残る道理はないので、おそらくこれも綺麗に白紙へ。何もかもがまっさらになり、どの時点からかは知らないが、私はこんなにも好きな人と、彼の周りの素晴らしい人々を忘れて、ヘルサレムズ・ロットで生きなければならない。しかし彼をこのままの状態にしておく選択肢はない。どうせよと言うのだ。
分かれ道なし、退路なし。
「え、あの、私が忘れたら、そっちもなかったことにするの?」
「わからない」
ここで殊勝に、ポーズだけでも否定しておけばいいものを、彼は正直に言ってのけた。
「そうするべきだとは思うし、そう務めるつもりでもある」
この発言を『私に本当の姿を見せてくれた』ととるか、『待て待てお前』ととるかは自由であり、私はどちらにもなれない卑怯者だった。縋りつく手が滑り落ちる前に、くたびれてしまうほど、相手の服を握りしめる。
「ねえ、あのさ、そうじゃなくて、ずっと私を好きでいようよ。不毛な恋をしよう!もっと好きになる本命ができるまで、絶対に望みのない恋を続けてよ。いつか自然消滅するまで、ずっとそうしててよ。私が忘れてもスティーブンが憶えててよ!それじゃダメなの?すっごいダメなの?」
「君、自分が無茶苦茶なことを言ってるってわかってるかい?」
「わかってるけど!」
忘れられる前提で別れの決意を固められるほど私は強くないので、仕方がない。
「忘れようとしなきゃ忘れられないなら、忘れないでさあ。私より頭いいんだから。出前の電話番号を忘れる代わりに、私のことを憶えててくれたらいいじゃん。そうしようよ」
とんでもないめちゃくちゃを突きつける。私にしては努力したほうだ。かつてのように泣き喚いて胸を叩いたりしないだけ、成長したと思っていただきたい。そんなこと、彼は考えつきもしないだろうが。
満足するし、私はこの場面をすべて忘れてしまうのだから(……本当に信じられない!)、さっさと受け入れてくれればいいのに。ふりをしたってわからないのに。律儀で真摯な人である。それとも、簡単に頷いてやれないほどには好きでいてくれてるのか。そちらのほうがいい。
「ちょっと、聞いてます? 聞いてるならここは優しくキスをして、頷いてくれるところじゃないの」
スティーブンは返事をしなかった。姿勢を変え、腰をかがめ、私に顔を近づけて、距離の近さに「ヒイ」と愚か者が逃げるところを捕まえた。早業であり、そういえばこんなふうに捕まったものだと、怖いほうの記憶が蘇った。
別種の汗と緊張が私の背筋を冷やす。ものすごく久しぶりで、二度となかろうなと内心くさっていた口づけというものは、むしろ私こそこの瞬間を忘れることができないのではと錯覚の確信を抱かせた。きっと心臓は一瞬止まった。動き出してくれてありがとう。
わずかに離れる。私は奇跡的に意識を取り止めた。
「わ、忘れないでね。夕ご飯のメニューの次くらいでいいから」
「だんだん格が上がってるぞ」
「上げさせて!」
しかしヴェデッドさんの夕ご飯のメニューに近づくだけの価値が私にあるのか。盛りすぎか?許されたいところだ。
スティーブンは、スーパーマーケットの特売を逃したような顔をした。単純に言うと、諦めの。
しかし、瞳からはあたたかいものを感じ取れた。
「それじゃあ、なんていうか、お世話になりました。これで上手くいかなかったら、笑っちゃうね」
「ははは。あんまり笑えないなあ」
「シャレにならないよね」
くだらないやりとりをして、優秀な記憶力を持つ色男は、何も見ずに長いおまじないを唱えた。
急激に私をどこかへ引きずり込む力を感じながら、私はできるだけ、そっと囁いた。
「私はあなたがすごく好き。めちゃくちゃ好き。一番好き。……知っていたと思うけど!」
まったく『囁き』の範疇におさまらなかったが、スティーブンは、ちょっとだけ笑ったようだった。柔らかい声がする。
「僕も、君が、とても好きだよ」
崩れそうになった身体が支えられ、私たちの唇の動きは最後にもう一度、重なり合った。




慣れたまどろみの中、ぼんやりと思う。
ああ、私って、意外に健気だったのだな。可愛いところもあるじゃないか。
誰にとっても、すごく曲がりくねった恋である。くわえて、最低な終わり方だ。むなしい。私を呪ったやつには、感謝の5倍は文句を言おう。感謝というのは、どストライクな男に恋をできた点である。最後の最後に良い思いもした。

言い逃げしたのは彼ではなく、私のほうだったのかもしれない。
実に最低だ。

何が正解だったのか、さっぱりである。
きっと私が選ばなかったほうが正解で、そちらのほうが幸福が続いたのだろう。そんな選択肢、今だって思いつかない。それって何?何なんだ?何だというのだ、まったく。
わからないので、たぶんこれしか無理だった。

でもなんとなく、どうにかこうにかなりそうな気がした。
呼んでもらえれば、駆けつけられる気がした。
頭が軽くて、実におめでたい。



0807