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K・Kさんがスティーブンに預けて私に贈ってくれたのは、人類女性向けのファッション雑誌だった。
ファッションに触れる機会などそうはないが、もともと私がウインドウショッピングやオシャレが好きだったのだとふとした機会に電話で話をしたのを憶えていてくれたのだろう。感謝のメールを送ると、『チェインにも意見を聞いたのよ。彼女にも伝えるわね』と返信があった。そう知ってから読む雑誌には、特別な感慨がある。
向かいで誰かにメールを打つスティーブンは自然体で、私のことなど忘れたかのようだ。私も話しかけたいわけではなかったので、ページをめくる。ファッション雑誌によくある恋愛コーナーに目が行った。仕方がないのだ、今まさに私は苛烈な恋の真っただ中。何かひとつでもアピールの方法を仕入れられれば僥倖である。
目を皿にして読み込んでいると、コラム形式の一文が脳を刺激した。ご丁寧にマーカーを引くレイアウトさえされている。目立つそこには、『7秒以上見つめ合える人とは心の底から気を許し合える』とあった。
ふむ、なるほど。
雑誌に夢中になるふりをしつつ、スティーブンの動向を窺う。10分もすると用事が終わったのか、彼はスマホを裏返して置き、夕食のときに残った瓶ビールをグラスに移した。今しかない。
限りなく自然に、浮いた視線を絡め取る。言葉で注意を引くのはズルいので黙ったまま。
彼は目をそらさず、持ち上げていたグラスを置いた。そして用件すら訊ねないまま、『なんだこいつ』と瞳だけで訝った。しかし視線の糸はぴんと張ったままである。
ドキドキして勝手に耳が熱くなる。自分からやっておきながら照れてきた。私のほうがそらしたくなる。自爆ではないか。
3、4、5……と、頭の中で必死に秒数を追った。
もうあと、この刹那さえ乗り切れば7秒に達する、というときだった。
風が吹き抜け、部屋のドアがバタンと閉じた。
おそらく、わずかに開いたままだったのだ。
この音によりスティーブンの注意がそれ、視線が外れた。
絶対にいけたのに。絶対に行けたのに!確信したのに!
悔しさとドアへの憎さと落胆が後頭部にのしかかり、私はテーブルに額を打ち付けた。ドアを閉めておかなかった私のバカヤロウ。
「それで、用事は?」
「……ないです……」
「そう」
もうこの手は使えない。一度ならまだしも、二度目はさすがに嫌がられるだろうし、問い詰められても理由は言えない。これ以上ない失敗だ。これが私の運命なのか。イイところで邪魔が入るのだ。そんな恋愛人生はつらすぎる。
こんなものはジンクスの類ではないかと今も疑ってはいるが、それとこれとは話が別だ。わずかな可能性に賭けて負けたときの切なさよ。理屈ではない。
「7秒以上見つめ合える人とはラブラブになれるんだってさ」
「ん?」
訊かれてもないのに白状する。スティーブンはビールで湿った唇を開いた。
「……ああ、そういうことか。言ってくれれば見つめてあげても良かったのに。もう一度やるかい?」
「意味皆無!」
そんな慈悲の心でラブラブにはなりたくない。でも気遣いはちょっと嬉しかった。そういう遊びに巻き込まれても不快には感じなかったのだなとわかり、救われた気持ちになる。チョロいのだろうか。いや、恋とはこういうもののはずだ。私の場合はそうである。
乱暴に頬杖をついた。ふてくされた顔になっていることだろう。
「ドアさえ閉めておけばなー」
「僕も残念だなあ」
乾きすぎていて突っ込む気にもなれない発言だ。
「ホントに残念?」
「うん」
「じゃあ今度は音がしてもそらさないでくれる?」
「それは意味があるのか?」
「初めにスティーブンが言ったんじゃん!」
彼は脚を組み、悠々と。私はぶすくれた顔で悶々と。一方的に睨むようにして見つめ合う。
しかし私の頭はすっからかんで、3秒あたりでふくれていたことを忘れ、ポーッと幸福の穴に落ち始めた。たまにこういう、沈黙の中でお互いにボーッと相手を見ることはあるが(……気のせいでなければ!)、宣言してから瞳を直視するというのは気分が違ってまたオツだ。率直に言うとドキドキする。
音はなにも立たなかった。
永遠にこうしていたいと思ったが、秒針と世界は止まらない。
「終わったよ」
無情である。執着たっぷりだ。
「ありがとー……。複雑な気持ち。誰とでもできそう」
「クラウスとはできても他は難しそうだ」
頷いた。クラウスさんとはできそう。でもレオとは無理っぽい。レオが不安がってそらすだろう。
「女の人とかさ」
「そんなに見つめる必要はあんまりないんだ」
「はーん!さようですか!イケメンだもんね!でもみんな喜ぶと思いますよ!悔しい!しないでほしい!」
「つまり?」
「必要に駆られない限りはしないでほしい!」
「しないよ、7秒がもったいないから」
「私はあなたを休ませてあげたい」
どんだけ忙しいんだ。無職として、謎の哀れみと申し訳なさと疎外感を感じる。
突っ伏す私の相手が面倒になったようで、スティーブンはシャワーを浴びに立ち上がった。「そのまま寝るなよ」と言われてしまう。私はそこまで寝汚くはない。
足音が遠ざかり、広い空間にひとりきり。雑誌を読む気にも戻れず、誰かと長く目を合わせるところを想像してみる。イメージ上ではだいたい、相手のほうがそらした。K・Kさんであっても、あの人は別の意味で耐えきれなさそうだ。慈愛の塊でありそうなので。
考えると、実践してくれたスティーブンは非常にすっごく忍耐強い。7秒は意外に長い、と時計を見て感じた。7秒が8回続くだけでほぼ1分が経ってしまうのだから、すごいものだ。勝手な妄想だが、彼ならばその7秒でA4コピー用紙の半分くらいは読めそうだし(……無理かなあ……?)、『もったいない』というのもあながち誇張でもないのだろう。
私はファンデーションもクリームもつけない頬を押さえた。何も言う気のなさそうな色男の前ですっぴんを晒すことには、もはやなんの抵抗もない。外にも出ないのだから、メイク道具とメイク落としが無駄になるだけだ。化粧水と乳液だけはしっかりつけるので、肌荒れとはまあ無縁。たまにニキビができるのは食べ過ぎかストレスか。私にストレスなぞあるはずもないので、たぶん食べ過ぎだ。ヴェデッドさんとスティーブンのお料理は罪つくり、肥満つくりである。
はあ、とため息が落ちる。カッコよかった。どんな理由であれ見つめられるとときめきが止まらない。どこか色気がかって見えるし、乙女の業か恋の病かイケメンが悪いのか。全部に決まってる。そろそろ雑多な渋谷で飲みナンパを待って一般レベルのウェイウェイなテンションを取り戻したい。翻弄されてばっかりだ。
顔でも洗って気を落ち着けよう。
そういえばなんで外国人なのに、彼は夜にシャワーを浴びるのだろう。完全なる偏見だが不思議だ。いつもそうなのかな。それとも私が寝坊した日には浴びてるのか。もしかすると他人にあまり風呂上がりを見られたくない……?……いやいや、腐るほど披露していることだろうと思う。あとで訊いてみよう。
ヘルサレムズ・ロットの他のお風呂事情は知らないが、この家では幸運にも、日本のお風呂に慣れた私でもそれなりに早くつくりに馴染むことができた。最初は遠慮していた長風呂も、ここ最近はのびのび楽しんでいる。身体の健康は心の健康から。『困る?』と訊ねても特に何も言われなかったので構わないのだと思いたい。湯船で寝落ちしたときは怒られた。そりゃそうだ。
私室とは分離したバスルームから突如、声がかかる。名前を呼ばれてびっくりした。慌てて、中扉の前にいく。
「え、な、なに?い、一緒に入っていい?」
「懲りないなあ……」
扉越しの会話は心臓に悪かった。響いてる響いてる。中で響いてる。
「待って待って落ち着いて。今スティーブンは無防備なわけじゃん。それで私がここにいてドキドキしてるじゃん」
「その話、長くなるかい?」
「なるかも」
「じゃあ後にしてくれ」
そうだよなと口を封じた。用事があるから呼んだのだ。
スティーブンの影がうっすら見える気がして目を凝らす。寿命が縮みそうだ。
「悪いんだけど、僕の部屋から小さい瓶を持ってきてもらえないか? たぶん、いつものカバンの内ポケットに入ってると思うんだ」
私は言葉を失った。
「……は?」
ん?と彼は首を傾げたようだった。
「だから、僕の部屋の……」
「や、ややや、聞こえたよ!そ、そうじゃなくて……」
何が何だかわからない。耳がおかしくなったか、スティーブンがおかしくなったか、世界が狂ったかのどれかだとしか思えなかった。
「だ、だって、絶対入るなって」
合点がいったか、スティーブンが思い出したように言う。
「ああ……。もういいよ、入って」
「か、鍵は?」
「かけてないよ。いちいちやってたら面倒だろ。……カバンは椅子の上にある。よろしく」
よろしくされてしまった私は、呆然としたままよろめいて、ドアに肩をぶつけた。
彼の私室の前で脚が固まる。棒になったみたいだ。電流でも流れるのではないかとびくつきながらドアノブに手をかけ、何事もなかったのでそのまま開く。混乱して、押すのと引くのを間違えた。
室内は広々として清潔で、そして知っているのに知らない香りがした。
私は今日、死ぬのでは?
ありえないことを考えながら、一気にひび割れた思考能力でかろうじて目的を思い出し、椅子を探す。明かりをつけると、よりいっそう持ち主の気配を感じられた。
私には内容も訳もわからない本が棚にあったり、忙しかったのか、意外にも机の上にペンが置きっ放しになっていたり。
胸の高鳴りを抑えるのに必死でいたが、彼を待たせていることにハッとし、慌ててカバンの中を探る。中のポケットにビニールがあり、取り出してみるとそこに3本ほど瓶が入っていた。中には少し、粘つく液体のようなものが残る。
元通りにカバンを閉めて部屋を出る。とっても名残惜しい。しかしこれ以上は待たせられない。お風呂のドアを叩く。
躊躇いひとつなくドアが薄く開いた。湯気が逃げ、私のほうが焦って後ずさる。気遣いがあり、世の女性を腰砕けにするであろう色香を存分に漂わせてはいたが、際どくはなかった。
「こ、これでいいの?」
「うん、ありがとう。わかりづらかったかい?」
濡れ髪の下の笑顔。殺される。私は顔をそむけた。たぶん、真っ赤である。両手で顔を覆った。
「いえ、そんなそんな。あ、あの、入っちゃってごめんなさい」
「僕が頼んだんだよ」
「そ、そうですね!」
しかし後ろめたさがあるのは邪な気持ちを隠せなかったからだろう。目がウロウロする。
湯気もおおよそ逃げてしまった。
「あの、湯冷めしますよ!ドア閉めよう!」
なぜか背中を取られないように(……何に?)壁に背をつけながら必死に勧めた。
「あれ、予想が外れたな。さっきみたいにしつこく入りたがるかと思ったよ」
「えっ待って、入りたいって言ったら入れてくれるの?」
「そうしないと死ぬって言うなら仕方ないし、考えなくもないけど」
「過剰な譲歩!ありがとう!や、やめとく」
そんなこと、実現したほうが死んでしまう。
もちろん彼は本気ではないので(……罪あるいじりで瀕死である)、ドアに手をかけた。
「じゃあゆっくりしててくれ。瓶、ありがとう」
「は、はい」
空気が分かれ、お湯が流れる音を聞き、私はくらくらする頭を抱えてうずくまった。
異世界人だとかそんなことは関係なく、私はいつかこの男に殺されるのではないだろうか。
ちなみになぜ夜にシャワーを浴びるのか質問してみたところ、「いつ出るかわからないから時間があるときに済ませているだけだよ」とのお答えがあった。言われてみれば、納得である。
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