19


変な時間に目が冴えて、眠れなくなった。さっきまで見ていた夢の中には帰れず、黙々と時を刻む時計は深夜2時を回る。寝返りを打ちまくっても落ち着かなかったので、トイレに行って、ついでに温かいものでも飲もうとベッドから降りた。
ドアの外はしんとして、暗い。けれどトイレから出て余裕を持つと、涼しい風がどこかから吹き込んでいることがわかった。
カーテンが揺れる。
テラスに人影があった。
外を向いて立つそれを強盗と見まごうはずもなく、後ろ姿がこの家の主だと一目でさとる。再び時計を確認したが、やはり時間は深夜を示す。
寝なくていいのか、眠れないのか。
正しい選択肢は、このまま見なかったことにする、というものだろうか。私はいつも選択を間違えるから、きっと私が選ばなかった道が正解なのだ。
テラスに近づくな、と初めに厳命されたので、風の当たる近くの椅子に腰を下ろす。
何を考えているのか、背中からはさっぱり読み取れない。
月影があるのなら、それは今の彼に相応しかろう。
温かいものを淹れて飲もうとしていたのだったと思い出し、立ち上がる。何にしよう。ホットミルクは、また歯を磨かなければならないから、ここはお白湯か。ちょっとつまらない。カモミールなどがあればリラックス効果が望め、多少は眠りの助けになるかもしれないのに。まあ、贅沢を言うものではない。ここは私の家ではない。
キッチンに向かおう、とテラスから一歩離れる。
「来るかい?」
彼は少しだけ、こちらを振り返ったようだった。
呼びかけようとしたわけではなさそうだった。独りごちたような、決して大きくない音だ。テラスは広いし、あちらも、もしかしたら、聞こえるなんて期待してはいなかったのかもしれない。
それでも彼は私に声をかけたし、彼の声は私に届いた。家に満ちる夜の静寂は、さざ波に似る。
忠告した本人がそう言うのなら。
私は何も考えず、すたすたと近づいて外の空気を吸い込んだ。夜半過ぎの街は比較的静かで、時おりバイクのエンジンがうなる。
スティーブンを真似して柵に寄りかかる。何してんだろな、と横顔に目をやると、彼はぼうっと街を見ていた。ひとりでお酒でも飲んでいるかと思えば、そういうわけでもない。ただ夜風に吹かれて髪を揺らす。
何してんだろな、と目を逸らした。訊ねられる空気では、明らかにない。招くようなことを言っておきながらアフターケアもなく、私は手持ち無沙汰に、彼と同じ方角を見つめる。ほんとに何してんだろ。
まあ。
不恰好に頬杖をついた。
まあ、そんな気分のときもあろう。眠れぬ夜に風に当たるというのはおかしなことじゃない。
「喋っていいよ」
ぼけーっとしていると許可がおりた。まるで私が喋りたがったような言い方、実に心外である。私のほうこそセンチメンタルな空気にひたっていたらどうしてくれるのだろう。
そんな繊細な泉にひたってなどはいなかったので、なんとはなしに口を開く。
「寝られないの?」
「少し目が冴えてね」
「私もだよ。お揃いだね」
肯定も否定もから笑いもない。そんなに反応しづらい振りだったとも思えないし、聞いてるテイで聞いてないな、これは。
「何か飲むなら淹れてこようか」
「コーヒー」
「えー、もっと寝らんなくなるよ。いいけど。ヴェデッドさんみたいなおいしさは期待しないでね。私、豆から淹れるコーヒーとかキョーミなくて練習したことないから」
「それでいいよ」
「えっ本気?」
びっくりして頭を浮かせた。立てていた肘を下ろし、ぴくりとも動かない横顔の真意を探るが私程度ではかけらも読み取れず、『冗談だよ』とはいつまで経っても言われなかったので、キッチンに取って返してマグカップと豆を用意する。ケトルを沸かしながら、ヴェデッドさんに教わったやり方で深夜に似つかわしくない音をわずかに立てて粉をつくり、湯気の立つお湯でポタポタとポットに苦いものを落とした。ある程度溜まったところでマグカップに注いで、軽く片付けてから自分のカップに残りのお湯をいれ、お水で割った。いいのかなあ、これで。突然の無茶振りに不安が高まる。
テラスにはまだ、おんなじ姿勢のスティーブンがいた。
「おいしくなくても飲んでね」
「ああ」
差し出したカップを満たすコーヒーは、ヴェデッドさんや彼が淹れるものより数段味が落ちるだろう。せっかくの豆がもったいないくらいだ。ちなみに味見はしてみたが、コーヒーの良し悪しはあまりわからない。チェーンのコーヒーショップで飲むものよりはおいしかった。豆が違うのだ。
スティーブンは熱いコーヒーをすすった。
「君は何にしたんだ?」
「お白湯」
自分のマグカップに口をつける。これは私が、『自分のものがほしい』とワガママを言って買ってもらったものだ。私が選んだわけではなく、スティーブンが買ってきた。起きるとテーブルに箱があり、中にこれが入っていた。
「何か淹れれば良かったのに。なんでも使っていい、って言わなかったかな」
言いながらも、顔の向きは変わらない。
不動の横顔には傷跡が目立つ。私は偽りのデートを重ねる間、『この人ってスリリングでミステリアスで素敵だわ』などと狂ったことを考えたのだが、今はまったく違う気持ちでいる。スリリングというよりリアルにヤバい。
「言われたけど、飲みたい気分のものがなかった」
「何が欲しかったんだ?」
「なんだろね。カモミールとかかな。リラックス効果があるんだって。でも私より、スティーブンが飲んだほうがよさそう」
コーヒーよりは胃にも優しい。
カフェインが頭を覚醒させるのだったか。これ以上はっきりさせてどうするのだろう。年がら年中四六時中頭脳を酷使していそうなのだから、時間のある夜長くらいは休ませればいいのに。それともこれが彼の休憩? 息抜きのひとつなのだろうか。大人はよくわからない。
マグカップから手のひらに温度が移る。お白湯を口にすると、お腹のあたりがポッとあたたかくなった。
「ねえ、ひと口ちょうだい」
どこを見て、コーヒーを飲んで、どんなことを考えているのか、知りたいと思うのは悪いことか。迷惑ではあるだろうが、好きな人に近づきたかった。戦いだの事務仕事だの平和だの、そういう話は別である。異世界人だとかは関係なく死にそうだ。
「コーヒー?」
「そう」
「眠れなくなるよ」
「わかってるんだね」
彼は自分の思考に入るとき、他人に自分の一部を渡すタイプではなさそうだ。だからおそらく、単純にぼんやりしているだけなのだろう。
スティーブンは私に無色のマグカップを差し出した。未知と遭遇したかのように硬直した私は、ハッとして、おずおずと、シンプルなそれを受け取った。
……飲んでいいのか?
これが面接の一環で、飲むか飲まないかのテスト中なのではとあらぬ疑いをかけかける。それほど意外な行動だった。
両手にカップを持って自分と戦っていると、スティーブンは私に、上向けた手のひらを突き出した。飲まないなら返せということか、慌てて「の、飲む、飲ませていただきます!」と宣言する。彼は表情なく指先だけで否定を表した。こちらを待たずに手を伸ばし、私の片手から色のあるマグカップを奪ってゆく。無造作に唇に当て、そのままお白湯を飲んだ。
「……ごめんなさい、ちょっと混乱してる」
「冷めるよ」
「はい?」
「コーヒー」
あ、ああ、と我に返って手元に集中する。意識しないよう街のほうに身体を向け、そーっと飲んだ。味なぞわかるはずもない。かろうじて、苦味優先のコーヒーを甘く感じたので、末期であると理解した。
間接キスか、これ。
うっかり忘れて真面目な心情で欲しがってしまったが、よく考えれば間接キスだ。いや、口をつけた場所が違うかもしれない。だが同じ飲み物を同じカップで飲んだ事実は変わらず、私は静かに目を回した。カフェインが効きすぎたかもしれない。
「ね、寝られなくなりそう」
色んな意味で。
私のマグカップを持ったまま、彼は「そうか」と相槌のような音を出した。
バーターを正常に戻すタイミングが見当たらず、私はもうひと口、コーヒーを飲む。あちらも、無味無臭のまったく面白みがないお白湯を飲んだ。
また黙り込む。
空を見上げても、月なんて見えない。夜のネオンはちかちかと雑多で、塗装のはげた壁には何かの抗争の爪痕が微かにあった。
まとまりのない場所だ。危険にあふれ、肩がぶつかれば路地裏で恐喝されるし、突然アパートが物理的に切り売りされることもあるらしい。私の知らない異形の敵がどこかに現れることだってあるそうだ。そのたびに彼らは戦い、勝利し、傷を負い、こっちだってとばっちりを食う。
だけど私は幸せだった。
「私、スティーブンに会えてホントによかった」
女子大生だった私が見れば、気が狂ったんと違うかと肩を揺さぶられそうな生活だ。私もたまにそう感じる。感覚が麻痺してきた。しかし日々は退屈に充実し、最近は、目にする世界も人も増えた。
好きな人の近くにいることを許され(……ちょっとだけでも!)、こうして、なんか、隣り合って飲み物の交換までできるようになった。とても好きな人と。
とんでもない多幸感が、麻薬以上に私の表情を崩す。
聞いているかいないかは知らないが。
「私はスティーブンが好きなんだよ。あなたは知らないかもしれないけどさ」
こんなときでもないと、真面目に言えない気がする。
お互い、顔を向き合わせてはいないし、夜はちょっとだけ静かだ。風は気持ちよくて、背後で揺れるカーテンの衣擦れの音も悪くない。私に勇気と手管があれば、私はここで手を滑らせ、彼の手をそっと握っただろう。たぶん今の彼ならぼうっとしていて振り払わない。隙だらけである。
勇気は振り絞るものだそうだ。
細心の注意を払い、気づかれないよう相手に近づけた手は、しかし決意半ばで挫折した。どうしても恥ずかしい。ただでさえ私はつい先日、しつこいキスミーアピールを成就させようとしてくれた彼の善意を、臆病とワガママによる支離滅裂な言動を放ち拒んだ。これ以上ドン引きされても気まずいだけだ。
諦めて柵から滑り落とした手を、寸前でスティーブンがすくい上げた。びっくりして反射的に身体を引く。だが手は掴まえられたまま、同じ場所に戻された。
押さえられている。私の手が。
私よりも少し体温の低い手に。
衝撃が大き過ぎると人は黙る。今日の私はそのタイプだった。
こわばった情けない私の指は緊張して、そこが身体の中心になってしまったかのようだ。目が釘付けで離せない。彼の表情が変わらないから余計にドキドキする。
「あ、わ、私」
こうしようと望んだはずなのに、考えを読まれていた恥ずかしさと、なぜか実現してしまった状況に忍耐が飛んだ。
「て、手つめたいんだね」
「そうかもしれない」
「冷え性なの?」
「そういうわけじゃないと思うよ」
苦し紛れに話題を絞り出したが、限界を迎えた。
「も、もう恥ずかしくてダメ」
「そう。僕は恥ずかしくない」
「私の話だよ!」
「知ってるよ」
コーヒーを取り落としそうだ。苦味が心を現実に引き戻してくれるのではと期待しぐびりと飲んだ。ダメだった。
スティーブンは突然話し出した。
「僕にもよくわからなかったんだが、どうやら面倒なことになったみたいでね」
「はあ」
間抜けな相槌を打つ。面倒事が増えるとは、可哀想だ。
「気づいてみると頷ける。確かに僕はいつからか、いつもそう思っていた気がするし、逆もまた、いくつも数えられた。僕のほうこそ幻想でも抱いているのかとも考えたが、どうやらそうでもないらしい」
「はあ」
それ以外に言うことが見つからない。独白のようで、意見は求められていなかった。
「面倒なんだ。すごくね。そういうのは困る。仕事に私情を挟むつもりはないが、心に余計なものがたくさんあるのは良くない。僕はそれで失敗したことがあるから、少し慎重になってる」
「え、ええ」
彼の手に、私の体温が移りつつある。
「だけど無視できないんだ。気づかなければどれほど良かったかとも思う。僕はそれを優先できない。僕が本当に大切なものはそれじゃない。このことは永遠に変わらないだろう」
私はよくわからない告解のようなものを聞きながら、コーヒーを飲んで気を紛らわせる。
大きな手に力が込められた。「あの、痛い」と抗議したら、「ああ、悪い」と拘束が緩む。
「それに、これには必ず終わりがくる」
「よかったじゃん。面倒からの解放だよ」
ようやく彼が私を見た。
「そう思うかい?」
「だって邪魔なんでしょ?」
じゃあ終わるのは僥倖だ。先が見える話なら、悩むことなんてない。ちなみに、なんの話かはさっぱりわからない。
「ここまで言っておいて、『終わらせたくない』と感じているのは奇妙だよな」
「まあ……。でもそれはそれでいいんじゃないですか」
なぜか私が神妙な面持ちになる。相手に釣られた。
「頭の中で考えても解決しないときは絶対、イイ答えなんて出ないじゃん!そんなん仕方ないから思った通りにするしかないよ。『太るけどこのケーキ食べたいなー、でもなー、太るしなー、でも絶対食べたいなー』って思ったら食べればいいんだよ。あとでそのぶん運動すれば解決するんだから。悩むのってすごい必要ことかもしれないけどさ、健康に悪いよ」
放っておいても彼は悩みの種を植え付けられて植物園みたいになりそうなのだから、簡単なものはさっさと処理してしまえと暗に主張する。
「終わらせたいなら、そりゃ別だけどさあ、終わらせたくないなら終わらせなくていいじゃん。なんで無理に終わらせようとするの? 一番大切じゃなくても、心の……なに?負担?……みたいなやつでも、スティーブンなら整理できるよ!わかんないけど。作戦とかいっぱい立ててるんでしょ。私の何十倍も頭がいいじゃん」
一瞬黙る。
「私の頭脳は0だから何倍しても0だって言いたい?」
「なんで君はそういうところだけ疑り深いんだ?何も思ってないよ」
「だよね!」
よく突っ込まれるから先に言っておこうかなって。自虐ネタならともかく人に言われると、真実だからこそ地味に傷つくのである。
「だからさー、深く考えるのやめようよ!そんな体力があるなら私のことを考えてよ。それで、一緒にのんびりしてよ」
「うーん、そう言われると問題が増えるなあ」
「厄介扱い!ごもっともです!」
なくなりかけたコーヒーを見て、彼の手元に目をやると、彼は中身が見やすいようにマグカップを傾けてくれた。あちらも残りが少ない。
「飲む? もう、ちょっとしかないけど」
「君が飲んでいいよ」
「ありがとう」
飲み干してしまう。中のコーヒーが三日月型と筋をつくるマグカップは、早く洗わなければ跡がついてしまうだろう。
スティーブンも、おそらく完全に冷めたお白湯(……だったもの)をすべて呷った。
「僕は終わらせたくないし、きっと終わらせられないんだろうなあと思うよ」
「はあ」
「君には悪いけど」
「よくわかんないけどもっと悪びれて?」
明らかに謝罪するときの顔ではなかった。
手が離れ、そこだけ風を冷たく感じる。
「もう寝ようか」
「え、あ、はい」
テラスからの風が窓にぶつかり、音も立てずに進路を変えた。
カーテンが閉まると宵闇が戻る。キッチンで水音を立て、マグカップを拭く。
その間、ふたりは無言だった。

「おやすみなさい。眠れるといいね」
「君もな」
スティーブンを見送り、あ、と身振りと声で呼び止める。
「私、悩んでるスティーブンも好きだよ!」
彼はぞんざいに頷いた。
「というか、君はどの僕でも好きなんだろ」
「私を殺そうとするのはちょっと無理……」
「もうしないよ。今のところは必要がない。おやすみ」
ドアが閉まった。
残された私は、半笑いで手を下ろした。
「そ、……それはよかった」
そんな必要が永久にないことを祈る。……何にだろう。
うむ、安定しているから、クラウスさんに祈っておこう。



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