18


一枚の封筒を手渡され、スティーブンは首を傾げた。
「なんだい、これ。ラブレターにしては頑丈だな」
彼が受け取ったのを確認し、クラウスは生真面目な顔をよりきりりとさせた。
これは、とある劇団の舞台チケットである。
知り合いの知り合いのそのまた知り合いに劇団の関係者がおり、近々公演される演目についての話に花が咲いた。お忙しいでしょうが是非、とVIP席の招待状を渡されたのはそのときだ。宛名はなく、親しい知り合いになら誰にでも配っているようだった。
クラウスには観に行く時間がない。暇をつくることもできたがふと思い立ち、長方形の白封筒を内ポケットに入れてライブラへ出勤した。
「……というわけで、君に観てきてもらいたいのだ」
「なにが『というわけで』なのかがさっぱりわからないよ、クラウス。君が行けばいいじゃないか。緊急連絡さえ受けられるようにしてくれれば、数時間抜けたってどうってことはない」
巨体が全身で拒否をした。クラウスには考えがある。気遣いという名のひらめきだ。
くんと」
予想外の名前が飛び出し、面食らったスティーブンの顔にはクラウスは気づかない。
くんと観てほしい」
スティーブンは一拍、黙った。
「そんな場合じゃないよ、クラウス」
「彼女に観てもらいたい」
「クラウスー、聞いてるか?」
言葉が続く。
「彼女は君の家しか世界を知らない。だがそう遠くない未来、我々はこの問題を解決し、彼女は外へ羽ばたくだろう。そのときに少しでも怖がらせることがないよう、君の庇護下にあるうちに練習を積むことも悪くないのではと私は思う。そしてそれは出来うるならば、楽しい思い出であるべきだ。ヘルサレムズ・ロットには危険が溢れ、嫌な場面にもぶつかるだろう。そんなとき、思い出して寄り添えるような記憶を持ってほしい」
彼がここまで彼女に心を砕くのは、なにも彼女が死にやすい異世界人であり、彼曰くスティーブンの『半身』だからでもない。ひとりの人間として『』をみとめ、どうにかして助けになりたいと純粋に思うからだ。
これが、彼なのだろう。
スティーブンは封筒に目を落とした。
(……いつか)
遠くないいつか、厄介な呪いは解かれる。ふたりの関係は途切れ、彼女はライブラの監視下に置かれながらも、狂った街で通常の生活を送ることになるだろう。ある程度の支援は行われるだろうが、それでも彼女はひとりきりになる。当然であるはずなのだが、判然としない焦燥が胸を焼く。
ちっとも覚らないリーダーに、スティーブンは困ったように笑いかけた。
「わかったよ、クラウス。ここまで決意した君の提案を却下するのは骨が折れそうだ」
「わかってもらえて良かった。ちなみに、公演は今日なのだが……」
無言でチケットを取り出す。上質な紙は2枚あり、座席番号と日付の欄には確かに今日の数字があった。
「クラウス、僕も彼女もなんの準備もしてないぞ」
「すまない、失念していて……。今日は早くに帰ってくれたまえ。君の仕事で私が手伝えそうなものは、私のデスクに置いてくれて構わない」
「いや、いいよ。明日自分でやるさ」
元通り、チケットをしまう。ジャケットの内ポケットに滑り込ませ、上からぽんと叩いた。
「ありがとう。彼女も喜ぶ」
たぶん、と胸の中で付け加えたが、脳裏にはたまの外出に『やったー!』と喜ぶ姿が思い浮かんだ。
クラウスは真顔で顎を引いた。
話を終え、デスクに戻り椅子に座る。スマートフォンでひとつの名前を選び、耳に当てた。


昼寝してたら電話が鳴った。硬質な台の上に置いておくと、バイブレーションは数倍のうるささでがなり立てる。仰向けのまま画面も見ず「もしもし」と言ったのは、電話の相手など決まりきっているからだ。
予想と違わず、相手は今朝別れたときと同じ声で名乗った。名乗る必要なんてかけらもないのに、丁寧な人だ。
「君、今晩は暇かな」
「それって皮肉?すんごい暇だよ」
「ならちょうどいい。そのまま予定を空けておいてくれ」
空けるもなにも、埋まる気配はナノ単位ほどもない。
なぜかと問うと、スティーブンは簡潔に答えた。経緯も理由も説明せず、要件のみを。昼時ではないので忙しく、時間をあまり取れないのだろう。それなのに電話をしてきたということは、よほどの案件か。
「劇を観に行こう」
身構えた私は、拍子抜けして反応できなかった。
「なにそれ。……ヘルサレムズ・ロットで?」
「そう」
「外に出ていいの?」
「僕が一緒だからね」
初期のカンヅメが嘘のようだ。最近の私はよく靴を履く。
「えっ、と、わかった。どんな恰好がいいのかな」
「早く帰るから、見立ててから行こう。そのまま待っていてくれればいいよ」
「は、はあ」
事を呑み込めないでいるうちに、電話はさっさと切れてしまった。
何が何だか、さっぱりだ。
ただひとつ、スティーブンと外出ができるのだという事実のみが頭にしみ込み、ぽかんとしたまま呟いた。
「や、やったあ……?」
しかし現実味を帯びない。
手をぱたんとお腹の上に落とし、もはや『自分の家』と思い込んでしまいそうになる天井を見上げる。
なぜ急に。
だいたいいつでも彼の提案は唐突で、考える猶予のないまま波に乗らされてしまうが、今回もまた怒涛のように用事ができた。嫌なのではない。驚いているだけだ。ふたりだけの(……ふたりだけだよな……?)外出は嬉しい。『あれ?最後の晩餐かな?』という感覚がちょっと抜けないだけだ。優しくされると、ときめくと同時に不安になる。大丈夫か、私は。人の善意を信じよう。
起き上がり、うろうろと動き回る。彼は服を見立ててくれると言ったが、相応しそうなものは手持ちのワンピースにあっただろうか。どんな劇かは知らないけど、彼のことだから、下北沢の小劇場とは似ても似つかぬ場所だろう。
大丈夫かなあ、私。
不安だ。そんなところ、生まれてこのかた一度も踏み入ったことがない。マナーとかも知らないし、彼に恥をかかせる結果にはならないといいのだが。想像して死にかけた。やりそうだ。実にやりそうだ。そそっかしく軽率な私には絶対に向いてない。
緊張と不安感で、外にも出ていない今のうちから胃がキリキリし始めた。
ところで胃痛って、移るのかなあ。


どうやら、ストレス性のショボい胃痛なら影響はないようだった。
帰宅したスティーブンに様子を訊いたが異常はなく、ホッとする。彼も私の胃痛を共有したくないだろうし、私も彼の胃痛を共有したくない。彼の胃痛は凄そうだ。
「適当に着替えて。とりあえず、この間のワンピースでいいよ」
手短に指示をされ、反論もせずに着替えてしまう。こんなのでいいのか?と深い疑問を抱いたが、指定されたのだ。いいのだろう。
どうなるのかと、不慣れな事態にびくびくしながら車に乗り込む。どこに乗ればいいのかドアの前で迷っていると、当然のように私のエスコートを放棄しているスティーブンは、運転席のドアを開けて場所を指差した。
「隣でいいよ」
「ふぎゃー!」
「嫌なら後ろかトランクだ」
「乗ります!乗ります!光栄です!!」
死体がごとく詰め込まれてはたまらない。
シートベルトをつけて、「左ハンドルってすごいね」と言うと、「なにが?」と訊ねられた。どこもかしこも左ハンドル。日本ではないのだなあと外国を感じた。
そして、圧力で潰れてしまうほど彼の運転姿が似合っている。ハンドルも、彼に切られて幸せだろう。隣に座るのが私でいいのか。照れと嬉しさと懸念でいっぱいだ。
「無事故?」
「……ということになってるよ」
「聞きたくなかった!」
秘密組織は怖すぎる。大破しても、なかったことになるんでしょ。免許証に傷はつかず、今日も彼はゴールド免許。
しかし運転はとても上手だ、と感じた。揺れないし、ふらつくトラックをさりげなく避ける切り替えもよどみがない。ピアノを弾くときは女性を扱うようにせよと教わるらしいが、車もまた同じなのかもしれない。
「上手だね。全然酔わない」
「走りながら図面を見たりするから、揺れると困るんだ。たぶんそれで慣れたんだな」
「へえー。車の中で何かを読めるなんてすごいね」
「君は読めない?」
「うん」
「そう」
会話が途切れても気にならない。
運転中の横顔に見とれるが、一軒のブティックの前で停まるまで、反応らしい反応はなかった。
シートベルトがなかなか外れなくて四苦八苦していると、今度は外からドアを開けてもらえる。ハッと気づいてかわい子ぶった。
「シートベルトが外れないから外してっ」
実は完全に外れているのだが。
ざっくり切り捨てられるかと思いきや、彼は心動かされた様子もなく外からこちらに身体を突っ込み、手を伸ばそうとした。信じられないほど距離が近くて心拍数が急激に上昇し、恥ずかしさのあまり激しく後悔する。
「う、うううそです!外れます!すみませんでした!」
押さえていたストッパーから手を離す。
「知ってるよ。はい、出て」
「はい!ごめんなさい!」
キーのワンタッチでロックがかかり、小走りに彼を追う。押し開かれたガラスのドアを先に抜けると、気後れするレベルの高級感が私を襲った。何もかもがきらきらして見えるのは幻覚か。こういうお店、パパと来たことある。
いたたまれなくてひとり硬直していると、何事かを言い交わしたスティーブンと店員さんが私を見、店員さんだけがにこやかに私を個室に誘導した。間仕切りがあり、2部屋が呑み込まれたような個室はこれまた広々としており、肌触りのいいラグと、壁に埋められた大きな鏡がよく目立つ。そこに映る私の顔は明らかにビビり上がっていて、「少々お待ちください」と試着室であるのに飲み物まで出されてしまった私は、ふかふかの椅子に腰を下ろして首を振った。あのときは絶世の美女の顔だったからこそ、自信満々で入店できたのだな。
冷たい紅茶(……明らかに、茶葉が高い)の味に夢中になっていると、ノックのあとにドアが開いた。先ほどの店員さんが、幾着もの服を抱えて現れる。何が起こるか理解して、「……全部ですか?」と訊ねてしまった。柔和な表情の彼女は頷き、「失礼ですがお召し物を」と暗に脱ぐよう指示をした。
気恥ずかしさをおぼえながらワンピースを床に落とす。適当に畳んで椅子に置くと、キャミソールとショーツだけの、どことなくデジャブを感じる姿に変わる。
それからハンガーごと服を当てられたり実際に着させられたりと30分ほどマネキンになり、柔和なのにこだわりの強い彼女から及第点が出されたのは、1着の、緑色のワンピースを身につけたときだった。
緑と言っても濃くはない。あれこれ説明してくれたところによると、糸をこの色に染めるのは難しいらしい。ヘルサレムズ・ロットの服飾に携わる異界人の超魔法的能力により実現したそうだ。へえー、と感心して頷いたが嫌な予感がした。
にこにこした彼女が私を仕切りの向こうへ連れ出し、そこに人を呼んだ。勘弁して、と口元を手で隠した。
「いかがですか?」
「いいんじゃないかな。それにしよう」
「……だ、そうですよ、お客さま!」
「そ、そうですか……」
なんなんだこの苦行?
予感は的中し、私はこの値段のわからない恐ろしいワンピース(……値札も見ずに……)と、シンデレラがごとく足にぴったりフィットした恐怖のパンプス(……値札も見ずに……)、すでに装備するブレスレットに合わせたいくつかのアクセサリー(……値札も見ずに……)を身につけたまま、車に乗り込むことになった。
「……ねえこれ……」
「似合ってるよ」
「私もそう思うよ……」
しかしこんな、二度と着る機会のなさそうな服を。劇場に対する不安がさらに増した。
「か、返せないよ」
「返せなんてひと言でも言ったかな。大したことじゃないよ」
「そーかなー……」
「ドンパチでダメになる僕の服のほうがすごいし」
「あなた普段なに着てるの?」
少なくとも、チェーンのお店で買えるような3点セットや、まとめて洗濯機で洗えるスーツなどではなさそうだ。就活なんてまだ先のことだったし、スーツを着る機会もなかったので、まあ、私はそのあたりのことをよく知らないんだけど。秘密組織は高給取りなの?副業で稼いでるの?
車はそう離れてはいない駐車場で緩やかに停止し、「たまに解体しようとするやつがいるんだよなあ」とヘルサレムズ・ロットの世知辛さを私に教えてくれた彼に連れられ、レストランに入る。確かに空腹かもしれない。
「何にする?」
なぜ彼と雰囲気のいいレストランに入るときは常に、私の背に冷や汗が流れているのだろうか。ここは優雅に食事を楽しむ場ではないのか?やはり最後の晩餐である気がする。
「うーん……」
許容量をオーバーして徐々に気持ちよくなってきたので、メニューの文字は前のときよりも落ち着いて追えた。
「ジェノベーゼ食べたい」
「前もそうだったけど、君はそれが好きなのかい?」
「目に入るんだよね」
観賞前に軽く食べておこう、という程度なので量は頼まない。私も服のウエストがキツくなるとショックだ。
「あ、ねえ、なんで私を誘ったの?劇が観たいなら、もっと慣れてる女の人と行けばいいのに」
「クラウスが、君に観てほしいって言ったんだよ」
「クラウスさんが?なんで?」
「……さあ?」
スティーブンは肩をすくめた。
「……彼の考えることは、たまに、僕の理解を超える」
クラウスさんか、と威圧感たっぷりな紳士を思い出す。わざわざチケットを手に入れてくれたのだろうか。ほぼ何の義理もない私のためにそこまでしてくれるとは、どこまでも善良な人だ。
「私、こういうのしたことないから、なんか間違えたら教えてね」
「寝ずに観ればいいだけだよ」
「そうじゃないよ!」
そのつど訊くしかなさそうだ。
「普段は誰と行くの?」
「行かないけど、行くとしたらひとりだな」
「誰かを誘ったり、誘われたりしないの?」
「誘われたら、行けそうなら行く。自分からは誘わないなあ。こういうのは趣味があるだろ?」
「なるほど」
誘われて断れる人と断れない人がいるもんね。無理に付き合わせるよりは、気兼ねなくひとりで行くのが楽しいのかもしれない。
同僚とは行かないのかな、とも過ぎったけど言うのはやめた。絶対に行かなそうだ。
料理が来て、いただきます、と食べ始める。ヴェデッドさんのご飯を食べ慣れた舌はすっかり肥えたが、とてもおいしく感じられた。向かいの席でもぐもぐしているイケメンを見ながら食べるパスタはよりおいしい。心が癒える。
「何時からなの?」
「19時」
「何時まで?」
「21時だったかな」
だとすると、まだ余裕で時間がある。本当に早い仕事上がりだったのだなあ。
「劇場?までどれくらい?」
「10分くらいで着くよ」
「近いねー」
でもここまで来るのに多少時間がかかってるから、そんなものなのか。家からは遠い。
「ていうかさ、ヘルサレムズ・ロットによく劇場なんてあるね」
文化的な建物は、いかなこの街といえど保護されるのだろうか。
「いつ壊れるかの賭けはあるらしい。ザップが言ってたよ」
感心したのにやっぱり物騒だ。

腹八分目で満足した私たちは、開場30分前に劇場に到着した。
ロビーは人でごった返しており、異界人と人類は6対4ほどの割合だった。ペアで来たり会社の付き合いで来たり、それぞれの事情で席につく。
私たちも空調の効いた中に入り、明らかに人影の少ない一角にいることに驚きつつ腰を下ろす。椅子がふかふかだ。
「なにここ」
「特別席。この高待遇、さすがはクラウス」
考えるのをやめた。
舞台がよく見える。周りの人が少なく、椅子の間隔も大きく取られているため、息苦しさもない。これが劇場なのだとインプットしてしまうと、のちにギャップで苦労しそうだ。
あ、と思い出して立ち上がる。
「ちょっとお手洗い行ってくる」
「場所はわかるかい?」
「訊く」
「そう。気をつけて」
儀礼的に聞こえるが、私たちの場合だとかなりマジな忠告である。
暗がりから明るい廊下に出る。照明は穏やかな光で、目に優しかった。
案内板に従って階段を下り、隅にあるトイレに入ったのだが、こちらもまた感嘆するほど綺麗だった。
用を済ませて、外に出る。見ると、ここは関係者出入り口のすぐ近くだった。細い廊下の奥から男性が扉に向かい、私に気づいて会釈した。私も会釈を返す。
踵を返す直前、同時に扉を開けて外へ出た男性の持った紙袋から、ぽろりと何かが落下した。大切そうに包まれた手紙と箱のようだ。
「あの、落ちまし……」
声は届かず扉が閉まる。すごく大切そうなのに。
困ってしまった私は、誰も見ていないのを確認してからキープアウトの横をすり抜けた。ちょっとした親切のつもりである。外に出られた喜びとワクワクが、私の心に余裕を生み出していた。

関係者出入り口の向こうは、劇場前とは打って変わった薄汚い路地だった。入り組んではいなかったので、落し物を持って進む。片方は行き止まりだ。
「……で、……」
「……わかってる……」
声が聞こえて安心し、『あの』と呼びかけようとして、第六感的なものが警告を発した。反射的に、近くの隙間に身体をねじ込む。
男性はふたりいた。
「これマジでヤバくねーんスか?引っかかるっしょ、ナントカとかいう取り締まりに?」
「バレやしねーよ。誰も見てねえし、知ってるやつはみんなお寝んねしてんだから」
「つってもっすよー」
どっちかはわからないが、男がもう一方を小突いたようだった。
「じゃあお前やめられんのか?」
「無理!」
「だろ?これ、たまんねえよな。みんな絶頂だぜ」
げらげらと笑い声が立つ。私は手の中の包みを見下ろした。嫌な予感がするのだが。
がさがさ、紙袋を探る音がする。
「……っれ、一個足んねえ……」
「は!?マジすか!落とした!?」
「マジかよヤベエな……」
明らかにこれである。逃げるタイミングを逃した。常套手段である猫のふりも唾棄すべき悪手。
冷や汗が気持ち悪い。
『偶然にも』落し物を拾ってしまった私は、『偶然にも』不穏な会話を耳にし、『偶然にも』逃げられない場所にいる。
異世界人は死にやすい。この場合、これって私が悪いのか?
(ど、ど、どうしよう、どうしよう)
頭が真っ白だ。来た道を探そうというのだろう。足音が近づいてくる。どう考えても見つかるし、案の定私は見つかった。
あっこれダメだわ。
様々な意味で私ひとりの身体ではないが、キレた目を見て腰が抜けかけた。
「み、見てないです!」
包みを投げて逃げ出した。とりあえず劇場に入って人混みにまぎれ、そのまま席に戻って頼るべき人に頼るべきだ。それしかない。
それしかないのだが、場数を踏んだらしい犯罪者には勝てなかった。腕を掴まれる。ひっかかったブレスレットが千切れて飛んだ。狂乱しかない。
「どっから見てた?」
「見てない!何も知らない!」
「ヤベッすよー、こいつ中身も見たかもッスよー」
「見てない!見てない!!」
「うるせーなこいつ」
これがヤクザキックか!と思う暇もなく鳩尾を押さえて崩れ落ちる私。救いの道は閉ざされたか。綺麗に決まった暴力で、食べたものを吐かなかっただけ良しとしたい。なにが良しなのかはまったく理解不能だ。
息が止まってうずくまっていると背中を踏まれた。こういうの、ドラマでしか見たことない。
「見たよな?」
見てないと言っても見たと言っても結末はひとつな気がした。
この痛みがスティーブンに伝わってはいないかと期待したが、かなり昔の記憶が蘇る。そうだ、打撲は移らない。
絶体絶命、四面楚歌、猫を噛む鼠はどうなるの。噛めないけど。
「えー、どーしますー?見られちゃってますよぉー」
「そりゃおめーバラすしかねーだろ。常識的に考えろよ」
「ッスよねー」
私の知ってる常識とは違った。
もう1発、あっ、3発くらい蹴り飛ばされ、『え?嘘でしょ?本当に死ぬ?ちょっと待ってよぉ』と考える時間も皆無で、かつてないバイオレンスな凶行に、か弱く必殺技も持たない私はひたすら震えていた。いや、もう震える気力も湧かない。ひたすら、たったひとり信頼する人を思い浮かべ、どこか遠くから地面を伝わるようなバイブレーションを感じた気がして『うわっしまった!メールすればよかったんだ!!』と頭の隅で気づいて自分のバカさ加減に辟易した。まさに間抜けが命取りであった。あと、たぶんバイブレーションは気のせいだ。
このままではなんかよくわからない死因で死ぬ。蹴り殺されるのって何死になるの?ショック死?
いつの間にか腕を擦りむいたり、小石で頬が切れたりしていたのだが、まあそのような些事に気づけるはずもない。健気にも私は霞む目を開け、犯罪者たちには目もくれず、汚い路地には必ずありそうなものを探した。
もしも、あれば。あるならば。あったのならば。あってくれたらと目を凝らす。
それは私が隠れた隙間の奥に散らばっていた。
這いずろうとしたがかなり無理でドン引きする。しかしここでやらねばいつやるのだ。人生でこんなに必死になったことがあろうか。いや、あるかもしれない。けど最近はなかったからノーカンだ。
手を伸ばし、かつて酒瓶だったものを引き寄せる。反抗されると思ったのか手を踏まれそうになったが、それよりも早く、やり遂げた。
ここでやらねばいつやるのだ、自傷行為なんか。
なんかもう何にも痛くなかったので(……末期か?)、自慢ではないが柔らかい腕の肌に、ガラス片を滑らせた。
(か、……勝った……)
もう私にできることはなかろう。
死ぬ前に来て、そうしたら惚れるから。
念じつつ目を閉じる。


遅い、と不審に思う。時計は開演時間の迫りを示すが、隣の空席は埋まらなかった。具合でも悪くなったか、と電話を取り出す。彼女はカバンを持って出たから、連絡は取れるはずだ。スティーブンは廊下に出て電話を耳に当てたが、しかし何コール繰り返してもつながらない。
嫌な感覚が胸に広がる。
画面を操作し、アプリを立ち上げる。何度か指を動かすと、近辺の地図が現れた。光る点は劇場の四角い箱から動かない。近くにはいるらしい。当たり前だ、彼女が自分から出て行くはずがない。
感覚に従って足を早め、もう人のいない階段を下りる。
「お客さま、そろそろ開演のお時間ですが」
「ありがとう。連れが迎えに来てほしいと言うんだ。すぐに戻るよ」
「さようでございますか」
スティーブンは追及をかわし、レストルームのある角を曲がる。人の気配はない。居場所を示す画面の点は、確かにこの近くにあるのだが。
ふと、扉が目に入る。目立たないよう明かりを落とされた一角は、関係者専用の通路だった。
一歩、進めた足が止まった。彼の左腕の内側に、一直線に痛みが走る。袖を捲ると、シャツにぺたりと血がつく切り傷が生まれていた。
彼は素早くロビーを振り返るが、騒ぎの気配も、ライブラからの緊急連絡もない。街の異変に巻き込まれたのではないらしいとわかる。
この焦りは、どことも知れない場所で『お荷物』が死に瀕している可能性があるからか?
それとも、他に何か混じる感情があるというのか。
考える時間はない。
キープアウトを飛び越え扉を押し開く。汚い路地のどこからか声が聞こえる。声のすぐ近くの壁に背をつけ様子を窺うと、彼の鋭敏な聴覚に鈍い音が届いた。砂袋を蹴るような音だ。それが砂袋でないことは明らかである。
「これ客ッスよねー。身元とかバレちゃうんじゃないスかー。やだ困るッスよー」
「るせーなおめーは。もったいねーがコレ打っといて、ヤク中が我慢できずにヤっちまってラリ死んだことにしちまえばいーだろ。よくあるよくある」
「ッスかー。この子もオシャレしたのにツイてねッスねー。つか自分で腕とか切っちゃって」
この先は聞かなかった。調子よく喋る口は瞬間的な冷気により動きが止まり、蹴り倒されるように地に伏して気を失う。
薄氷を乱暴に踏み砕き、見つけて、彼は声を上げて名前を呼んだ。
近づき抱き起こしながら救急車を呼ぶ彼の動きには慣れがある。視界の端に、引きちぎれたブレスレットの残骸が見えた。
。聞こえるか、
スティーブンが何度か呼びかけ、頬をたたくと、青ざめた唇が動いた。
「惚れた……」
あまりの台詞に、スティーブンは黙り込んだ。
呆れ果てて、ぐったりした身体を抱え直す。
「君、この状況で言うことがそれなのか?俺には君が何を考えてるのかさっぱりわからん」
「こっちの話……」
が身じろぎしようとした。
すぐに諦める。
「ダメだ、せっかくの機会なのに、なんで私は……すり寄れないんだ……」
「ボコボコだからじゃないかな。すぐに救急車が来る。病院に着くまで起きていられるか?」
「切実に寝かせて……」
見るからに彼女はボロボロである。交通事故にでも遭ったかのようだ。
くだらないことを呟く女を抱えて、なぜこうなるまでに気がつかなかったのかと、スティーブンは苛立ちをおぼえた。打撲の痛みは通じない。仕方がないことではあるのだが、『まさか』と想像すらしていなかった自分に強く憤る。最終手段を使うまで何かしらの方法で連絡を取ろうとしなかったにも非難の目が向く。怒鳴りつけたくなるほどに。
非常に珍しい姿であるとは、ここにいる誰にも指摘できなかった。
「服が」
「言いたいことはわかったからもう喋るな」
「さいごまでいわせてよぉ」
拗ねた抵抗には応えず、スティーブンは言葉を落とした。しぼり出すように。
「今は、くだらない話は聞きたくないんだ」
あーそー、とが首から力を抜き、内心焦ったスティーブンのスーツに頬をこすりつけた。
「傷、痛いだろう」
彼女は考え込んだ。
「『痛くないわ、スティーブンが来てくれたもの』……と、『痛いわほんと痛いわーなんでもっと早く来てくんないんだよー』……のどっちが正解?」
「……悪かったよ」
「うそだよ!何も思っゲホッ、思ってないよ!あー!!痛い!押さない、うえっ」
やがて来た車両で搬送され、どことなく元気な重傷患者は久しぶりの入院を果たした。
彼女が落ち着いてからも手を離す気にはなれず、彼はしばらく、ベッドの隣についていた。



が目を覚ましたとき、一番に見たものは自分を覗き込むスティーブンの顔だった。
「……えっ……」
寝起きということもあり、反応が遅れる。
じわじわと目元が赤く染まるのが、彼にはよく見えた。
「え、わ、は?え?は?……は?キス?」
顔が離れる。
「何もしてないよ。見てただけで」
この病室は以前にもが寝込んだ場所で、何度となく様子を見に訪れて慣れ切ったスティーブンは、その辺にある椅子と机を使って持ち込みのノートパソコンを触っていた。ひと息ついて寝顔を覗き込んだところでこれだ。そろそろ起きるだろうと医師に言われていたので、彼に驚きはない。対するには驚天動地の動揺がある。
「なにしてるの?」
「お見舞い」
「えっ!」
「フルーツはないけどね。ああ、クラウスから花を預かってるよ。そこにあるやつ。見えるかい?」
台の上に小ぶりな花瓶があり、淡い色の花が開く。匂いこそ届かないが、長い間暗闇にいたような気のする目には優しいだろう。
身体はきちんと動くようで、彼女はぎこちないながらも起き上がり、水を飲む。
運がいいことに見かけよりも怪我は浅く、致命的な損傷もない。手で腹を押すと潰れた悲鳴をあげたので、特に強く、重点的に蹴られたそこにはまだ痣があるらしいがそのくらいだ。あとは腕の傷だが、綺麗な刃物ではなかったので治りは遅いものの、そちらも問題はない。
スティーブンは顎を撫でた。
「君は、異世界人とは思えないくらい運がいい。……ああ、褒めてるよ」
「ほんとかな……」
は胡乱な顔でいる。
暴行を受けたあとでもスティーブンに向けてぺらぺらと喋れていたので、本人の自覚は薄いようだ。絶対的な危機感と絶望をおぼえたはずなのに、スティーブンがわずかに遅ければ死んでいたかもしれないことをコロリと忘れたらしい。それとも忘れたふりをしているのか。
直接質問すると、は『なにを言っているのだ』という目をした。
「すんごい怖かったよ。当たり前でしょ!死ぬかと思った!スティーブンレベルで怖かった。怖くないはずがなくない?」
「うん」
「でも喉元過ぎればナンチャラって言うし」
真実を見抜く瞳がを痛く刺した。責められている気分になり、は居心地が悪くて肩を落とした。
「もしも君が強がっているのなら、そういうのはやめてくれ。前にも言ったけどね。……信じていいのか?」
真摯に見つめられ、がうなった。
「……うーん。ていうかたぶん、現実味が……ない?っていうの?だって謎取引を見てボコられるって、……ないでしょ?」
「君にはね」
「うん。だからよくわからない。本当はすごい怖いのかも。でも今はぼんやりしてるし、何にも思わない」
スティーブンが口を開く前に、座るが自分の膝を叩いた。
「あ!そう!えーっと、スティーブンがいるから安心してる!そうそう!スティーブンがいるから平気!」
「ああそう、そりゃよかった」
「反応が薄い!」
「乱発しすぎなんだよ」
「気をつけます」
しかし、彼女ならそんなこともありそうだなとも思ってしまう。日頃の行いは人のイメージを強く左右するのである。
ひとまず信用することにして、スティーブンは時計を見た。昼が終わる。そろそろ戻らなければならない。
ゴネる彼女を横たわらせる。
普段と変わらないやりとりを交わし、無事でいる姿を見ると、染み渡るような安堵を感じる。ライブラの誰かが傷つき、回復したときとはまた違う感情だ。
この正体は、いったい?
自然と眼差しを緩めると、は「うわっ……あざと……」と呟いた。完全なる誤解である。
「また来るよ。暇ができたらね」
は神妙に頷いた。
「早く治して家に戻ろう。ヴェデッドが心配してるよ」
「そうだよね!あー、ヴェデッドさんに会いたいなあ」
ある程度体力を取り戻して油断しているらしく、彼女は枕元のスマートフォンに手を出した。通話可能な個室からいつでも連絡が取れるよう、充電器に繋ぎっぱなしになっている。
K・Kからのメールが入っているのを確認し、微笑み、それからスティーブンに笑いかけた。
「寂しいなー」
「うーん……。何かしてほしいことはあるかい?……ここにはいられないけど」
「知ってる!逆にいてくれるほうが怖い」
スマートフォンが枕の横に投げられる。彼女は軽く笑った。
「キスしてくれたら治るかも」
いつもとなんら変わりのないネタ振りである。本気なのはわかるのだが、なにぶんしつこい。
しかしこのとき、スティーブンはじっと彼女の顔を見つめた。知らず、こくりと喉仏が動く。のほうが目を白黒させた。てっきり軽くあしらわれると思ったのに、と瞳が語る。
ポケットに入れていた手をゆっくりと、白いベッドシーツに押しつける。自宅のものとは質の違うそれは、ふたりぶんの体重に可哀想な声をあげた。
力関係とは正反対に、スティーブンのほうこそ、彼女から目を離せずにいる。
「それなら、しようか」
が絶句した。
「……は?」
「キスだよ」
実に簡潔だ。
「……なんで?」
「君が言ったんだろ?」
「……じょ、冗談はよくないよ。もっとドキドキしちゃうよ」
「どうぞ」
お互いが、お互いの瞳の奥に絡め取られる。はスティーブンのそこに知らない光を見つけ、ぐるぐると頭を空転させた。
彼女はスティーブンを拒まない。驚愕しているだけで、肩に触れる手から力も抜けている。
ただ彼女から望まれて、スティーブンは要求を受け入れただけであるはずなのに、彼には、まったく逆の意味があるように感じられた。
の唇がもの言いたげに開く。吸い寄せられるように近づけた顔は、肩から離れた手で押さえられた。
想像だにしなかった抵抗に、スティーブンは面食らった。
の頬も耳も目元も羞恥と期待で泣きそうなほど真っ赤であり、嫌悪から拒絶したのでは決してないとわかる。これまでのアピールも接触も本物で、どう考えても彼は、彼女から心底の恋情を向けられていた。彼が知る彼女なら、恥ずかしがりはしてもこの機会を逃さない。
そのはずなのだ。
彼女は焦りでわなないた唇から、必死に言葉を紡ぎ出した。動揺は伝わるが、話し方はしっかりしている。
「あの、ですね」
ふたりの距離はとても近い。相手の吐息すら感じられる。
「私はとてもバカです。よく言われるし自分でも思う。それで、バカな私なりにすごくスティーブンが好きです。この世界の誰よりも」
スティーブンは無言で続きを促した。
「何かしてもらうとすごい嬉しいし、ハグとか、もう、胸が破裂するかと思うくらい幸せ。一緒にいるだけで気分が上がって、楽しくなる。お話しするのも安心する」
時計の秒針の音も遠かった。
「でも私はキスするなら、相手にも私を好きでいてほしい。ありがたいし、スティーブンが優しいのはわかる。私がほしがったからしようとしてくれたのも、わかる。うれしいよ。すごいうれしい。夢みたい。でも、だけど、私のことを好きでもないのに、やっぱり、スティーブンにそんなことはさせられません。申し訳ないから。またいつか、私を好きになれたらしてください。たっぷり、ラブラブで!」
は、深く息を吸い込んだ。
「……サービスのキスはもういやだ」
この言葉はも意識しないうちに、スティーブンを手酷く傷つけた。カッとした苛立ちと、呆然たる空白が生まれる。
『好きでもないのに』
このフレーズが刺さった。
瞠られた瞳がそれを表したが、彼女はその意味を図り損ねた。
愕然と、確かめる。
「……サービス?」
「そう。気遣い。どんなサービスでも等しく嬉しいけど。ありがとう。……ワガママでごめんなさい」
ふたりは見つめ合い、そして硬直が解けたように、スティーブンは時間をかけて身体を離した。誰かが見れば、ぎこちなく思ったかもしれない。
「そう。……それじゃあ僕は行くよ」
「うん、気をつけてね。クラウスさんにありがとうって言ってくれる?」
「わかった。元気になったと知ったらきっと喜ぶ。何かあったら連絡してくれ」
「うん」
軽く手を掲げる。も手を振った。

ドアを閉め、スティーブンはひとりになった。忙しく看護師の行き交う廊下を通り、正面から外に出る。埃っぽい空気はいつものことなのに、うっとうしく思える。
驚愕のほかに、強く痛む部分があった。
(……あれ、俺、……傷ついてるのか?)
『サービス』という言葉が刺さって抜けない。
以前までなら『ごもっとも』と頷いて、彼女のおかしな真面目さを笑ってやれたはずだった。君もこれで懲りろよ、と。
なのに今はひどく傷ついている。このスティーブン・A・スターフェイズが。なぜだ。
本部に戻り、デスクについて、コーヒーを淹れる。
(サービス……)
サービスなどではなかった。ふと彼は思う。
あれはそんなつもりではなかった。
気づかないようにしていたのか、それにはかなりの時間がかかった。
しかし彼はようやく、ずっと抱えていた、不明瞭で理不尽で奇妙なものの正体を、察してしまった。
(……まさか、もしかして、俺は、本当に……)
もう己に『気のせい』とも言い聞かせられない。
額に手を当てたスティーブンに、クラウスが声をかけた。
「どこか具合が?」
彼は首を振って返した。
「あー、いや、なんでもない。彼女、喜んでたよ、見舞いの花」
「目が覚めたのだな。君が落ち着いているので、そうかとは思ったのだが」
スティーブンの心を乱す爆弾を落とすのはやはりいつも、彼である。
「……クラウス、悪いがちょっと、しばらく俺を放っておいてくれるとありがたい」
「君が言うのならばそうするが、……大丈夫かね?」
「大丈夫だ」
マグカップを置く。
「……いや、大丈夫じゃないかもしれないな……」
理解した感情とは関係なく、意識を向けるべき書類は山のようにある。メールも嫌というほど舞い込む。
平和なヘルサレムズ・ロットが、頭の痛い彼を待っていた。



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