16
紙袋には本がある。なんの本だろう。
袋の口から中を見るのも悪いかなーと気にしないふりをしたが、置きっ放しにされるそれは視界の端で存在を主張した。シンプルな書店のロゴに見覚えはなかったが、中に見えるまとまったページは冊子特有のものだ。一般的な小説ほどの厚さで、文庫本よりは大きいサイズ。それが数冊ある。チラ見だけでは、タイトルまではわからなかった。
「これなに?」
魅惑の湯上がり姿を披露し私の視線を独り占めしたスティーブンは、ぺらぺらと書類をめくり、私には一瞥もくれず答えた。
「君にあげる本」
「えっ」
嬉しいはずなのにギクリとする。また迷惑をかけたか!?
口も開けずあたふたした私を怪訝がり、スティーブンの注意が紙っぺらから外れた。
「もっと大げさに喜ぶかと思ったら、今日は大人しいな」
喜びたい気持ちは山々なのだが意図が読めない。何かの記念日だったっけ、と考えまくったが手がかりは得られなかった。
「嬉しいんだけど、意味がわかんなくて。なんでくれるの?」
「毎日暇そうだからだよ」
「緩やかに罵倒されている……?」
もっと自力でやることを探せと暗に言われたのだろうか。
深読みすると、スティーブンはお見通しというように私を見てからまた、事務仕事っぽい紙束に顔を戻した。たまにそうしているが、なんの書類なのだろう。お仕事の性質上、仕事の持ち帰りなどはよろしくないのではと思うのだがそんなことはないのだろうか。スティーブンなら情報を守りきれると信頼されているのか。それとも秘密組織とはなんの関係もない、ただの文章の羅列だったりするのか。わざわざ印刷し、睡眠時間を削りながら目を通すだけの価値がある文章の羅列とはどういうものか、私には想像もつかない。
「少年がツェッドと話しているのを聞いてね。最近はそういう本が流行っているらしいよ」
ぱちりぱちりとひとりでまばたき。誰も見ていなかった。
「それで買ってきたの?……買ってきてくれたの?」
「そう」
「仕事帰りに?私のためだけに?」
「そうだよ」
唖然とし、じわじわと理解を進めた私はたまらず立ち上がった。倒れかけた椅子の傾きを食い止め、言いたいことも整理できていないのに口が勝手に動いた。
「す、好きになる」
この人は私をどうしたいんだ?
この忙しい人が。
手間と時間をかけて私を気にかけ。
暇でもないのに書店に立ち寄り。
……えっ、なにそれ。
好きになれと言っている?何が望みだ?私は彼に何をすればいい?好きになってしまうではないか。いや、もう好きだけど。完全に転がって、転がった先の湖にどぷんと落ちたけど。
赤くなることも忘れてスティーブンを凝視する。人間は頭の限界を超えると黙る。私はそうだったようだ。普段のうるささが(……自覚はある)嘘のように喉が詰まった。ブレスレットをもらったときの比ではなかった。ケーキともまた違う。
テンパっていた。
「え、え、嘘でしょ?ホントに?」
「ホントに」
「……なんで!?」
「だから、暇かなと思って。実際、暇だろ」
「ひ、暇ですけど」
あわあわする私の対岸で、火の気ひとつない彼は平静だった。
「ど、どうして今になって?」
「気が向いて、ちょうど時間があったからだよ」
いや絶対嘘でしょ、と突っ込みたかった。昨夜帰宅しなかった仕事人間がよくぞ言ったものである。爪痕はつかなかったので、ものすごーく気をつけてくれたのかデスクから一歩も離れられなかったのかのどちらかだ。どちらにしても疲労する。それなのに今日も夜更かしで、顔色が変わらないのが不思議なくらいだ。
読み終わったらしく、大きな手が紙を台に放り投げた。
「ね、ねえあの、あのですね」
「なんだ、黙ってたと思ったらまだ疑ってるのかい?」
だってだって、と重ねる。
「だっておかしいですよ!急にこの優しさ、……私はどうなっちゃうの?」
「どうもならないんじゃないかな。僕が君をどうするっていうんだ」
「わ、わかんない」
惚れさせるとか、そのあたりしか思いつかないしそんなことをしても意味がない。すでに惚れているからだとか、そういった話ではなく。
もともと好きでいたって、恋心というのは際限なく積み重ねられるものなのだ。恋心が行きすぎて恋人を刺した生徒の事件が大学を賑わせたこともある。
腰を下ろして突っ伏した。
「ねー、これ以上好きになるとヤバいよー。ダメだよー。どうにかなっちゃう!」
「たとえば?」
「……どうなるんだろ……」
変わらない気がした。どうなるんだろう。節操なく見つめたり抱きつこうとしたり、寝室に忍び込もうとしたりするのか?いやいやとかぶりを振る。そんな、色々な意味で怖いことはできない。
何もできなさそうだ。
「とりあえず、気に入るかはわからないけど暇つぶしにでもしてくれ。……ちょっと1冊いいかい?」
「あ、はい」
紙袋から適当に本を取り出し、向けられた手にのせる。幾分か読めるようになった英字のタイトルからは、本が推理モノであることがわかった。
スティーブンが本を開き、目を伏せる。
私が『この人は何をしても色っぽいのか?呪いか?目の錯覚か?』と主観をたっぷり含んで観察する間にぱらぱらとページを進める。
「うん、これなら君でも楽しめるんじゃないかな」
緩やかに罵倒されているのか?
ヴェデッドからの小説は面白かったらしいし、と続いた言葉に無粋な指摘を入れることはできない。もう少しでいいから雑さを包み隠してほしい。わざとなのだとしたら指先で小突き回されている気分だ。
なんとも言えない顔で、読み続けるスティーブンを見守った。
ところで私は読書家ではないのでたまに思うのだが、日頃から文字に触れて生活している人は、並び連なるそれらをいくつも頭に入れていてこんがらがらないのだろうか。真剣そうに書類(……なのか?)に目を通した直後に推理小説を読む楽しさがよくわからない。物事に興味を持てば、共感できるようになるのか?
今の彼の表情はのんびりして穏やかだ。『普通』であるあまり逆に怖い。その表情って私が見てもいいものなの?凝視しちゃってるけど大丈夫かな。このごろは意図的になのか面倒になったのか、自宅特有のリラックスした雰囲気を見せることが多い、ような気がする。気のせいであるならばきっと、私の目は何者かにジャックされているのだ。
「流行るだけあるなあ。悪いけどこれ、先に僕が読んでもいいかい?」
「いいけど、そんなに面白いの?」
「うん。ああ、すぐ読み終わって返すよ」
「い、いやいいよ気にしないで」
たぶん私に読まれるより彼に読まれたほうが本も幸せだ。トリックを完璧に理解し実践できるようになるまでゆっくり読んでほしい。彼ならば、探偵に見抜かれるようなことにはならなそうだ。ブルってしまう。
「スティーブンって普段は他にどんな本を読むの?」
そもそも本を読む時間があるの?質問を追加すると、「あるよ」と肯定が返る。自室で優雅に読んでいるのだろうなと思った。どうせ言うまでもなく想像するまでもなく『秘密組織?全員抱いたよ』みたいな顔をしているのだろう。なんという男。
「クラウスに借りた本だとか、ちょっと気になった雑誌とか、そんなもんだよ」
「貸し借りしてるんだ」
「たまにね。彼の本棚は趣味が良いんだ」
分厚い学術書か魔術の本をイメージした。漫画は驚くが、クラウスさんなら基本的に何を持っていても似合いそうだ。そしてどの本も即座に武器になりそうである。彼に本の角で殴られたら、本もろとも死ぬだろう。
スティーブンの瞳はページに釘付け。どんな良書だ。そして読書中なのに私と会話ができる有能さにまたおののいた。彼がひと言『うるさい』と言えば黙るのに。言われなくても黙れよという話なのだが。
「エロ本読んだことある?」
「あるよ」
「あるの」
幼少のみぎりからよりどりみどりで一度たりとも必要がないかと思っていたので意外だった。
「エロ本って、男の人はよく読むんでしょ? 私、何も知らないから教えてほしいの。どういう内容なの?」
コンビニのアダルト棚で見かけるのはノーカンとしてかまととぶってみる。軽く流されると予想していたので、会話が続いてびっくりした。
「物によってかなり違うよ」
「スティーブンが読んだやつは?」
「人妻もの」
「え!?人妻!?」
お水を飲んでいたらむせて吐くところだった。
「何歳で人妻もの!?」
「いつだったかな。結構前だよ」
「そ、そうなんだ」
頭の中の嘘のつけない部分が『似合うな』と囁いた。すごくそれっぽい。本気で固唾を呑んだ。
「なんで人妻ものだったの?寝取り要素がいいの?私も人妻だったほうがよかったのかな?」
「混乱しすぎだ」
「するでしょ!?」
みんなするよ。スティーブンを知っていればみんな混乱するし、一方で納得するはずだよ。なぜ人妻だったんだ。
「人妻が好きなの?」
「あったのがそれだっただけ」
「へ、へえー……。まだ持ってるの?」
「もうないなあ」
要らなそうだもんな、と納得した。
「他には?」
スティーブンが目だけでこちらを見た。
「『人妻ものってどういうこと?』とは訊かないんだな。君のことなら、知らなければ一番に訊きそうなのに」
「しまった!!」
ボロが出た。人妻ものの実物を読んだことこそないが、聞きかじりの知識ならある。この男、私のなにを知ってるんだ。いや、色々たくさん知られてるな。もはや把握されてないことのほうが少ない。
「いや、あれ。あれです。想像つくから!」
首を振る私から目を離し、彼の意識は本に戻った。
「今、『しまった』って言っただろ。いいよそういう弁解は。僕は君が人妻ものを知っていようがいまいがどうでもいいし」
「そりゃそうだ」
彼の人生には何の関係もない話である。
「嘘ついてごめんなさい」
「つくならもう少し練習してからにしてくれると助かるよ」
「なんで?」
「見てられない」
「そんな最初からバレてたの!?」
「バレる以前の問題」
「お恥ずかしい」
「それに、君の隠し事が下手なのはじゅうぶん知ってる」
「というと」
何か嘘をついていたかな。話についていけず、こめかみに指を当てる。彼はさらっと言った。
「君に叩かれたときは特にわかりやすかった。本当に誤魔化してるつもりなのか疑うくらいぎこちない」
「あれは仕方ない……よね……!」
過去の話を蒸し返されると肩身が狭いし、私はよくぞこのハンサムフェイスをひっぱたく無体を働けた、と自分に感心してしまう。命がかかればフルスロットルで無茶ができるものなのだろう。何の効果も見込めなかったうえに、実は呆れ返られていたわけだけど。私には、あれ以外の方法は思いつかなかったのだ。だってもう無理でしょあれは。
「叩いてごめんなさいでした」
「いや別に。そういう理由ではかなり久々だったから新鮮だっただけだよ」
「そ、そうですか……」
考えてみれば、よく叩かれっぱなしになってくれたものだ。あの時点で必殺技によりいてこまされているのが『ヘルサレムズ・ロット』だろうに。ありがたいことである。すみませんでした。
そろそろ眠らなければ明日に響く。そんな時間になり、私たちは片付けをした。
私がグラスを洗ったり、スティーブンが書類をカバンにしまったり。次々に明かりが消され、すっかり慣れた薄暗がりにふたつの影が立つ。
「じゃあこれ、しばらく借りるよ」
「はあい」
紙袋を抱え、できるだけ可愛く微笑む。合コンで楽しむときの笑顔とは異なるものに、自然となった。
「本、買ってくれてありがとう。いつもそうだけど、優先してもらえてすっごい嬉しかったよ! 大切に読むね。読めたら感想も言うね」
「寝不足には注意してくれよ。君が体調を崩すと……」
一旦言葉が切れる。
崩すと、どうなるんだろう。『困る』や『迷惑』あたりが順当か。
その通り、スティーブンは「僕が困る」と言った。指先ぶんほどの躊躇いが感じられた。何に対するものなのか、私にはわからなかった。
「気をつけます」
「うん。……おやすみ」
「おやすみなさい。……いつかスティーブンの気が向いたら、あなたの読む本を貸してね」
「貸すのはいつでもいいけど、君の好きなジャンルかは微妙だよ」
「そっかー」
貸したくないと拒絶されなかっただけ収穫か。
しかしすぐに「あ!」と落とした気を取り直す。
「じゃあさ、じゃあさ、スティーブンが隣にいて一緒に読んでくれたらいいんじゃない!?」
「食らいつくなあ。僕に暇があったらな」
「やったー!」
暇はなさそうだ。
ベッドの上に本を並べる。
これを読みながら眠ったら、いい夢が見られそうだった。
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