14


「今晩は出かける準備をして待っていてくれ」と言われ、驚きと期待に胸を膨らませて待つこと、18時から30分。連れて行かれた先は、不可思議な建物だった。
あまり綺麗ではない道の先にあり、行き止まりかと思ったら中へ入れる。スティーブンの手が壁を押すとあっという間に重厚な扉が開き、敷居をまたぐ一瞬、その先がしんとした。顔を輝かせてくれたのはK・Kさんだけだ。
知った顔と知らない顔が混ぜこぜで、視線が集まり居心地が悪い。大盛り上がりの合コン現場に数合わせで連れて行かれ、『大ハズレだな……』という顔をされたときのような気まずさがあった。とっさに私がとった行動は、そんなときの常套手段だった。九割の本音が混じっていた。
「こんなトコ見ちゃったら私死ぬんじゃない!?」
必殺技は『茶化す』と名がつく。
正統な態度では決して太刀打ちできない硬質な、見定めるような空気に対抗できるのは異彩だけである。二度目だが、九割の本音が混じっていた。明らかにここは秘密組織だ。
わざとか無自覚か、隣の色男が乗ってくれた。
「君が死ぬと僕も死ぬから誰も殺さないよ」
「このつながりが切れたときが私の命日感ある!」
「それは否定できないな」
「いやだー!!れ、れれレオ!助けて!誰も味方じゃない!」
飛び込んでレオに駆け寄ると、作戦通り、場の空気がいい具合に白けた。私に抱きしめられたレオがこちらの背中をタップする。
「なんスかなんスか!スティーブンさんもやめてくださいよ、本気に取っちゃうんですから!」
「取ってないよ、彼女」
「えっ?」
「取ってるよ!!冗談を言う顔で言ってよ!!」
扉は閉まり、逃げ場がなくなる。
困り果てたレオから「少年が可哀想になってきた」と引きはがされ(……レオのことを大切にし過ぎなのでは……)、再び注目を強く感じた。
「彼女が例の異世界人だ。クラウスとK・K、少年は知ってると思う」
クラウスさんが私に手を差し出す。大きすぎて、びくつきながら体温を感じた。その気になれば簡単に折られそうだ。
くん、その後、経過はどうだろうか。傷跡などは残ってはいないかね?」
「あ、はい!大丈夫です!ありがとうございます」
「それは良かった。女性の身体に傷が残るのでは、と気になっていたのだ」
「あんなとこ、見せる予定もないから残ってても大丈夫ですよぉー。ミニスカ履いても見えないんですよ!」
「そうかね」
笑ってもらえるかと思ったのに狙いが外れた。や、やっぱりやりづらい。すごい生真面目なんだもん、この人。飲み会で相手するのに困るタイプだ。話し始めると勢いに乗るのだが、それまでが長いし気を遣う。私の周りではあまり見かけなかった。
椅子に座ったり、脚を広げたり、立ちっぱなしだったり。さまざまな人に、スティーブンが私をさして言った。
「見た通り、聞こえた通り、こういう性格だから適当にしてくれ。怪我だけはさせるなよ、僕が痛い」
「もっと私を心配して!?」
「してるだろ?」
「帰らせて!」
耐えきれないと言ったふうに、私の背中に重みが飛びついた。ふわりと香った匂いで女性だとわかる。そして、こんなことをするのはひとりしかいない。
細い指が私の服をつかんだ。
ちゃん、本当に久しぶりね!今日は楽しんで行って。好きに飲んで食べていいのよ」
「は、はあ。ありがとうございます……」
気遣いと好意は嬉しいのに、勢いが強すぎて引いてしまう。私もこんなふうに他人を引かせているのだろうなと思った。
柔らかい体温が背中に押しつけられ、「あの、当たってるような」と教えたが、「やだ可愛い、照れてるの?」と完全に、何を言っても好意的に受け取られる。これはもう突かないほうがよさそうだ。前にも似た感じを覚えた気がする。
室内にはたくさんの人がいた。全員が、漫画に出ていた人たちに違いない。知り合い以外、誰の名前も記憶になかった。
「えーと、といいます。スティーブン、……さんの……、なんだろう……」
「『半身』ではないかね?」
「なにそれ!?……じゃない、なんですかそれ!?お荷物です!お荷物です!」
クラウスさんはいつも真顔で爆弾を落とす。なんなのだ、その表現は。誤解を生むし、できれば前に言っていた『大切なパートナー』のほうが嬉しかった。知らない人々の前で無駄なあがきを見せてこれ以上迷惑をかけるのも何であるので口には出さない。
ひとりひとり、スティーブンに名前を紹介してもらう。やっぱりあまり聞き覚えがなかった。ザップ、というのはスティーブンの口から聞いた気もするが。
へー、と立ち上がった『ザップ』に上から下から前から後ろから眺め回される。
「フツーの人間にしか見えねーな」
「フツーの人間だもん」
「この人がヤる女って聞いてたから意外っつーか」
「どういう風評!?ていうかなんで知ってるの!?」
「遊ばれちまったパターンかあ?」
そう言われるとうまく否定できない。遊びではなかったのだが、では何かと言われると『仕事』としか言いようがないし、それを言うとスティーブンには都合が悪そうだ。それくらいなら考えられるのである。というか本当に、なぜ深い逢瀬を知られているんだ。
沈黙すると、ザップさんが相好を崩した。スキャンダルが嬉しそうだ。
「オイマジかよ、サイテーだなあの人よ」
「あんたが言える立場かよ」
ボソッと毒を吐いたレオの首に細い腕が絡む。締めつけられた少年から、潰れたような声が響いた。
「不純な動機から始まる付き合いもあるだろ?そんなもんだよ」
K・Kさんが吐き捨てた。
「うっさんくさ……」
ちょっと同意する。
スティーブンはまったく意に介さず、『ツェッド』と『チェイン』、『ギルベルトさん』を紹介した。名前は覚えにくいが姿は目に焼きつく。個性的だ。
です」
「よろしくお願いします。ツェッド、でいいですよ」
ツェッドからは握手があったが、チェインさんからは会釈しかなかった。シャイなのか。
しかし目が合って、何かを読み取る。悪意ではなかった。品定めするような、学校で進級し、新しいクラスに配属されたとき、周りから向けられる興味と不安のこもった眼差しに似たものだ。
「……あの、チェインさん、って」
おそらく普段の賑わいを取り戻した室内で、私だけが半笑いを浮かべていた。スーツ美人の大きな瞳が疑問に光る。
「……なんでもないです」
「……そう」
チェインさんはスティーブンを見て、私を見た。伏せられたまつげは長く、物言いたげだった。
それがやけに気にかかる。

渡されたグラスに、甘い香りのお酒が満ちる。わー、と飲むとグレープフルーツの味が口に広がる。飲みやすい。女子会を思い出した。
私はちらちらと、なぜかザップさんの頭の上でしゃがみ込んでお酒を飲むチェインさんを気にしながら、K・Kさんやツェッドから振られる話題にひとつずつ答えていく。時おり私も話を持ち上げて、狙った笑いを取らせたりした。そういうネタがあるのだ。『必ず笑えよ』と言外に前振りすることで、全員が予定調和に笑い声を立てる。一体感が生まれ、距離が近づく小技である。……私に弄せる小細工はその程度なのだけど!
壁の花ならぬソファの花になるスティーブンは、にこにことクラウスさんにお酒をついだり、K・Kさんにつまみを遠ざけられたりしながら温厚に飲み会を楽しんでいるらしかった。
なぜこんな機会が設けられたのか、私にはまったくわからない。彼は語らなかったし、「負けちまったんスよね、スターフェ」まで言ったザップさんはギャアと悲鳴をあげて飛び退き足を押さえた。そこだけ床の空気がひどく冷えていた。必殺技なのかもしれない。そんな安売りをしていいのか。
さんは、普段どんな生活をしているんですか? 前に、オセロをつくっていたという話を聞いたのですが」
「そうなの。暇だから。だって、誰もいないし、誰とも話せないんだもん」
ここにいる人たちは、私が異世界から来たと知っているので『以前』の話もできる。
「元の世界では、だらだらしてるよりみんなと遊びたくて色んなところに行ったり合コンしたり、サークルで飲んだりしてたんだけど、こっちじゃそうもいかないじゃん?」
「そうですね」
「合コンとかしたらハズレ引きまくりそうだし」
「ヘルサレムズ・ロットですからね」
「うん」
ヘルサレムズ・ロットだから。その言葉ですべてが片付く。この街に当たり外れの概念はもはやないと仮定しても、私の感覚では抵抗がある。パパみたいな人ばかりでは決してないとわかっているが、柄が悪かったり脱法的だったりする世界を日常的にテレビなどで見ていると、理想も潰えるというものだ。
「遊び歩くのが好きだったなら、今は少し不自由でしょうね」
「でも仕方ないし! 問題が解決するまでの辛抱だよね、お互いに」
「今度あいつに色々と遊べるものを渡すから、受け取ってねちゃん!」
グラスごと手を握られて思い出す。K・Kさんには以前お世話になっていたのだった。それからお返しをするつもりが、すっかり忘れていた。
カバンからお財布を取り出す。即物的でちょっと申し訳ない。
「あの、前にお世話になったお代をお支払いしたくて。スティーブンからもらったお小遣いからでごめんなさいなんですけど」
「え?」
「……生理のときの」
耳元に顔を寄せて声をひそめる。K・Kさんは「やだ!」と口元を手で隠した。
「水臭いこと言わないでよー!あんなの気にしなくていいんだから!ね、またいつでも頼ってくれていいのよ」
「え、いや、でも、なんか色々と道具とかも買ってくれたし……」
妙齢の美人は、母親のような顔で微笑んだ。
「困ってたんだから当然でしょう?ほら、そんな無粋なものはしまってしまって!お代わりいる?今度はピニャコラーダにしましょうか?」
「あ、はい……」
押し切られてしまった。お財布を閉じられ、カバンに直して留め金まで下ろされる。ぽん、と叩かれてはもう手出しができない。
ついさっきまでカンパリ・グレープフルーツが入っていたグラスを、私を挟んだスティーブンのほうへ押しやったK・Kさんは、新しい長めのものに白濁したお酒を流し込んだ。大量の瓶が用意された箱から迷いなく選ばれたそれは、飲んだことのない味がした。興味がなかったので、カクテルでは一見変わり種の味に挑戦したことがなかったのだ。
「なあチャン、私生活での番頭はどんなカンジ?」
いまだにレオの肩を抱いたままのザップさんが、ほろ酔いの顔で言った。みんなレオのことを好き過ぎだし、飲みのペースが早い。
「優しいですよ!ね!」
「僕に言われても答えづらいなあ。邪険にしてるつもりはないけど」
「あとたまにあざとい!」
「君のアンテナが敏感なだけ」
「絶対そんなことない!!ツェッドだってドキドキするに決まってる!」
「な、なぜ僕なんですか。しませんよドキドキなんて!」
「わかんないじゃん!」
などと言いつつ、また、ちらりとチェインさんを窺う。彼女は淡々と喉にアルコールを通していた。再度、目が合う。やはり何か問いたげだった。
これまでまったく話したことがない女性なのに、なぜこんなにも吸引力を感じるのだろうか。無言で呼ばれているのかもしれない。そうなると、気づいてしまった以上、応えないのは失礼だ。
私はK・Kさんの腕をそうっと抜け出し、ピニャコラーダを持ってチェインさんに近づいた。同時に椅子になっているザップさんの側にも寄ることになり、手がお尻に伸びてきたので「好きな人だけ!!」と悲鳴をあげて飛び退いた。その手は、上からチェインさんが思い切り踏んでくれた。優しくていい人だ。
「ん」
部屋の隅を指さされる。広い一室は中央に人が密集し、ギルベルトさんが控える窓際のほうは、空間が異なるかのように静かだった。
異色の取り合わせに、K・Kさんが「珍しいわね」と声をかける。彼女の声はどこか、何かの真意を探るような響きを帯びて感じられた。なんの話なのかは、全然わからない。
チェインさんは清濁呑み込んだように振り向いて軽く頷き、私は「お酒の飲み方を聞いてきます!」と背を向けた。

並んで歩くと、体型の差が歴然とする。鍛えた女性は凛々しく、しなやかで強い。私の付け焼き刃の筋トレでは絶対に敵わない努力がそこにあった。甘いものだけに触れて生きてきた私には、それがすごく眩しかった。
チェインさんは窓枠に腰を預け、ごつごつしたグラスを手持ち無沙汰に揺らした。何か喋りたがっているような、ただこうしていたいだけのような、どちらとも取れる動きだ。私はピニャコラーダに差し込まれたストローをくわえた。
チェインさんを観察していると、彼女は、無意識にだろう。喧騒の中心に顔を向けた。私も首をめぐらすと、こちらを見るスティーブンと目が合う。素早くチェインさんに目を戻す。スティーブンに微笑みかけられた彼女は、一度会釈して向き直り、白い頬に、酔いではない赤みをさした。
「……えっ、と。……そういうことですか?」
そういうことらしかった。
「永遠に気づかないかと思ってた」
「たぶん、気づかなかったと思います。チェインさんが気づかせようとしなかったら」
こうでもされなければ私たちは、ずっと微妙な距離を保ち、理由もわからずギスギスしていただろう。一歩踏み出した彼女の姿勢を理解し、激しい感動に襲われた。そんなこと、私はできるだろうか。
うむ、無理だ。
精神力の問題か、それとも彼女自身、早く解決したがっているのか。
私は目下、大切なことに思い当たって青ざめた。
「ごめんなさい、わ、私、人の恋人を寝取るつもりなんてなかったんです!これからもないです!」
かろうじて声はひそめられた。
「あの、確かに私は何度かスティ、……あの人にお願いして、……させていただいて、こう、……いい思いをさせていただきました! で、でもそれはあの人にとっても不本意なことで、愛情なんてこれっ!ぽっちもなかったんです!」
「どういう意味?ホントに恋人同士じゃないの?」
「違います!私が勝手にあの人を好きなだけです。あちらにその気はまったく!これっ!ぽっ!……ち!もなく、ただやむを得ない事情により家に置いてもらってるだけなんです」
チェインさんは腰掛ける窓枠にグラスを置いた。私の目をまっすぐに見つめる瞳には、どこか諦めが浮いていた。
「初対面でこう言うのって失礼だけど、君ってもしかして変人?」
「突然の罵倒!?」
美女からの罵倒はご褒美、という界隈もあるらしいが、私はそちらについては詳しくない。罵倒は罵倒であり、普通に傷つくし面食らう。
変人どころか、私は没個性である。明らかに個性豊かで一般からかけ離れた変人たちに囲まれる彼女にそう評されると、自信のジの字あたりにひびが入った。
「チェインさんも……好き、なんですよね?」
気を取り直して本題に戻る。
彼女は唇をかすかにとがらせた。
「誤魔化しても、ここまできたら意味ないよね」
「チェインさんからアプローチをかけたんですよ」
「わかってる」
今回は、彼女はスティーブンを見なかった。ずっと、私だけを見つめる。
「恋人なんかじゃないよ。だから寝取るとか、ない。……でも好きだったし、今も好き。あの人の前で失敗するのは死ぬほど嫌」
「みっともないからですか?」
「そうかもしれない。自分を許せない。ただでさえ失敗は悔しいし、プライドに傷がつく。だけどあの人の前では特に無理」
わかるような、わからないような。住んでる世界が1mmたりとも重ならない私たちだから、お互いの内心を完璧に読み取れるなどありえない。
任務とか仕事とか、チェインさんに密接する事情はわからないけど、好きな人の前できちんとしていたい、その部分だけは素直に共感できた。
「私もスティーブン、……さんが好きです。チェインさんほどの歴史もありませんし、歯牙にもかけられてませんけど。お荷物ですけど!」
「うん」
「でも、あの人にも言ったんですけど、チェインさんはそんなことはしないってわかりますけど、……私があの人を好きだという気持ちだけは誰にも否定されたくないので、えっと……。えーと、……そんなもんですよね、きっと?」
頭が弱すぎて理性的な会話ができない。
こんなボロボロな言葉からでも内容を読み取ってくれた彼女は、ひとつ、こくりと首を振った。
「そんなもんだよ」
「ですよね!」
チェインさんはお酒を飲んだ。くっ、と飲んでもまだ残る。かなりなみなみいれていたようだ。顔色も変わらないし、よく飲む人なのかもしれない。
「だから……」
私はまだ、飲む気になれなかった。思いついた言葉ごと、身体の奥に消えてしまう気がした。
そんなつもりはないのだろうが、普段のくせなのか、どこかアンニュイな雰囲気をまとう彼女に近づいた。嫌がられはしなかった。
「チェインさんには不愉快かもしれないですが、私も好きなままです。寝取るのは心外ですけど、そうでないなら諦められないです。たとえ!たとえどんなに望みがなくても!懲りない、諦めない、考えない、っていうのが私の信条なんです。ごめんなさい!……信条これで合ってたかな、ちょっとたまに変動するんです」
チェインさんは平然と頷いた。
「うん、まあ、知ってたし、わかってる」
「え!?」
「見るからにお互い気安いし。……あの人もね」
彼女からの客観的なその評価にはドキドキしたものの(……たくさんの意味で心臓が痛い)、あのお方のあれは『気安い』というか、どことなく雑なだけなような気もする。
「君も、スターフェイズさんのことすごく好きそうだったし。嘘とか苦手でしょ」
「いやいや、私は秘密多き女で」
「そういうのいらない」
「よく言われます!!」
グラスに口をつけたまま、目だけ横に動かす。単にあちらの様子を見ただけですよ、といったふうを装って、私も自然に振り返った。誰もこちらに注意を払わない。
チェインさんの気持ちを私が推し量ることはできず、チェインさんもまたそうだろう。人の恋の重さなんて言葉じゃ説明しきれない。私の語彙も致命的に少ないし、ノリとウェイで乗り切った部分がなきにしもあらずなので、真剣な空気には不向きだ。笑わせたくなるし、笑いたくなる。
だんだんと汗をかく冷たいグラスと同様に、私の手のひらもじっとりと湿っていく。
沈黙の重さが最高潮に達したとき、風船を割るように、美人さんがくーっとお酒を飲み干した。見事な飲みっぷりだった。
「さっきも言ったけど、君は、……あなたはヘン」
「ええー……」
「私もまだ整理がつかない。見て、理解はしたつもりだけど、感情が追いつくには時間がかかる」
何を理解したのか、ちょっと思考がついていけなくなった。私の執念か?
「だけどあなたが言ったみたいに、それは私の自由。……そうだよね?」
「もちろんです!」
強く頷く。どうこうしようなんてちっとも思ってない。彼女がそうであるのと同じように。
「私から、あなたに言っておくことがあるわ」
「罵倒?」
「取りようによっては」
「ソフトにお願いします」
チェインさんは、空のグラスのふちを指でなぞる。今まで見たどの女性の仕草よりもうつくしく、目を奪われた。
「あなたはヘン。あるいはバカだと思う。悪い意味じゃないけれど。もう少し人を信じたほうがいいよ。あなたが思ってるより、人って自分に嘘がつけない。どんなに守っても、どこからか情報を奪われてしまうように。どんなに巧妙に隠されていても、手がかりがあれば真実に辿り着ける。人の言動のその先に何があるか、よく考えなよ。本人だって、気づいてないかもしれない」
「……は、あ」
とめどなく溢れる言葉の奔流に流されないよう、ピニャコラーダにしがみつく。目が回るかと思った。
チェインさんの胡乱な顔を直視できない。
「わかってる?」
「わ、わかってない」
「……だと思った」
呆れられてしまったようだ。私はいつもこうである。実は自覚していないだけで、コミュニケーション能力に乏しいのかもしれない。
「ごめんなさい……」
「怒ってないよ。……ちょっと待ってて」
なんの前兆もなく、チェインさんが溶けるように空間から掻き消えた。目を疑って辺りを見回すと、1秒と経たずザップさんの悲鳴が酒気をつんざく。チェインさんは銀髪を踏み台に降り立ち、大ぶりな瓶から、今度は透明の液体をお代わりした。ザップさんが振り上げた抵抗の拳は空をかき、あっという間に彼女の姿は私の前に戻る。
「……い、いまの……」
「手品だよ」
「……そ、そうですか」
追及したら死にそうだったのでやめた。危機管理能力は着実にレベルを上げている。
自分のお酒の他にもうひとつ。片手にあった新しいグラスでは同じ色のお酒が動きに合わせて波打つ。ピニャコラーダを片手に移し、差し出されたそれを右手に持った。
乾杯、と羽根のような軽さでガラスがぶつかる。意味はわからなかったが、飲まねばなるまいと空気を読んだ。唇を焼くほど強いアルコール臭にウッとなる。しかし勧められた手前、リタイアもできない。
ひと口飲む苦行を終え、チェインさんを窺い見ると、彼女は髪の一筋すらも酔わせず、知らん顔で言った。
「飲もうよ」
甘くないし、度がキツすぎて飲めません、とは、言えなかった。


まず異変に気がついたのは、レオナルドだった。ザップの絡み酒を適当にあしらい、時に実力行使で酔いをさましてやっていたスティーブンは、レオナルドの驚愕に振り返る。
「チェ、チェインさんとさんが抱き合っ……!!」
「いや、ありゃー雌犬が襲われてんな。ってソッチもイケるクチか?」
「ザーップ」
「ギャー!俺なんも悪いこと言ってねッスよ!」
だが確かに、見るからにチェインは困惑して、こちらに視線で助けを求めていた。程度、押しのけるのは簡単だろうが、チェインの性格ではその手段は取れなさそうだ。
ツェッドとK・Kが駆け寄って、ふたりがかりでを確保した。
「どうしたんですか、いったい」
「酔ったみたいで」
「酔っ……、……って、これウォッカじゃないですか!」
「しかも『アブソルート』!」
聞き覚えのありすぎる響きに、スティーブンはつい好奇心をそそられる。酒箱には確かにその瓶があった。洒落か揶揄で入れたのだろう。
度数の高い酒だった気がする。ウォッカであるのだし、少しのブランデーで酔った彼女には、チェインについていくだけのキャパシティがない。どうせ釣られるように、何度かお代わりに来たチェインのペースに合わせて杯を重ねたのに違いない、と同居人は推理した。酔いが共有されていなくてラッキーだった。
「これくらいで酔うんだね」
「彼女とあなたは違いま、……は?」
酔っ払いを羽交い締めから解放したツェッドは、素早く身をかえした彼女の腕で身体を締め付けられた。
もちろん、どうということはない力だ。
「な、な、なんです?なんなんですかこの人!?」
「なんかさー、なんだろうね!なんなんでしょう私って!」
「あー、ちゃんって酔うと人に抱きつくの?」
「さ、さあ……」
「抱きつかれてたわよね、思いっきり」
「突然のことでした」
チェインは、突如としてチェインの間合いに踏み込み、突進して彼女の豊満な胸元に顔を埋めたを思い出した。どうしたらいいかわからず戸惑ったが、姿を消して逃げる気にも振り払う気にもなれない。くぐもった声が胸元を湿らせた。
「私、スティーブンもだけど、チェインさんのことも好きかもしれない。勝手でごめんなさい」
混乱し過ぎて反応できず、ひたすらに助けを求めた。望み通り身体が離れると、変わりづらい顔色の下で彼女は目を彷徨わせた。さっきまでの空気はどこへ行ったのだろうか。すべてを忘れて飲もう、と言ったのは自分だったけれど。想い人の態度でずっと何かを察し、当人を見て少し認め、整理し、歩み寄るつもりだったけれど。
あまりにもスピードが速すぎないか。
「……びっくりした……」
「そりゃそうよねえ。私もびっくりしたもの。とりあえず座らせて、お水ね。レオっちー、悪いけどジョッキ取ってきてお水淹れてちょうだい」
「あ、はい!」
「私にできることはなにかないだろうか?」
「クラっちは大丈夫よ。なんとかなるからまあ見てて」
ザップの腕を押しのけてテキパキと介抱の準備を整える。ツェッドからK・Kのほうへ移動したハタチの異世界人は、もともと座っていた席に身体を落とした。K・Kの隣であり、スティーブンの隣である。
スティーブンは「あーあーあー」と困った様子で彼女の顔を自分に向ける。頬に当てた手が、体温の高さを感じ取った。
「レオー、ハグー、レオー」
その体勢で呼ばれたレオナルドは、目を強く閉じて何度も首を振った。
「いやですよ!目の前に……いるじゃないですか!」
「抱きついたら興奮して死ぬってわかってて抱きつけるの!?私は無理だよお!ねえ!レオ!どうしたらいいの!?」
「キレないでくださいよ!」
「酔ってるなあ。君、少年が困ってるよ」
K・Kがスティーブンを睨んだ。
「なにが『君』よ、名前を呼びなさいよ名前を」
「呼んでるさ」
ちゃんの言葉を聞かせてやりたいわ!私が名前を呼んだとき、『久しぶりに名前を呼ばれた』って言ってたのよ!? よりにもよってなんでこんな男なの!」
K・Kに殴られたテーブルが軋んだ。
「僕に一目惚れしたらしいよ」
「うわーこのねーちゃんのシュミわかんねー」
「いーんだよそれで!みんながスティーブンを好きになったらヤバいでしょ!?」
「地獄絵図かよ」
彼女が頑なにスティーブンには手を出そうとしないので、ザップが鷹揚に両腕を広げた。
「鳥の骨にくっついた陰毛よりも、おっそろしー番頭よりも、このナイスなイケメンに抱きつくほうが楽しいぞー」
「え、ああ、そうなの? えっと、……そうなの? なんか合コンでそういうの常套句だったかも」
「君、どんな合コンに行ってたんだ?」
今時の若者事情は節操なく楽しげなものなのである。
そんな彼女を見ながら、彼女が前に言ったように、この悪癖を出されると合コンでは見事に『持ち帰られる』のだろうなあ、とスティーブンは思った。造形や何がどう、という話はそこまで重要ではないのである。頑なに泥酔を警戒した彼女の選択は正しい。
すると、ふっ、と大気を揺らがせることもなく、チェインがの前に現れた。はすぐに気づいて手を伸ばす。
「うええ!?」
「あのイヌやっぱり両刀かよ」
「下半身男は言うことが低俗だね」
「祭り売ってんなら買うぞテメー、それとも褒めてンのか?あ?」

「無視してんじゃねーよ!」
チェインがの手を受け入れた。腹の辺りで、座る彼女の頭を抱える。
ざわ、と一部が震えた。
「お、おい……あっちでマジでナニしてたんだよこいつらはよぉ……。神聖な飲み会で乳繰り合ってたんじゃねーだろーな……犬女はどーでもいいけど混ぜろよ……」
「ザップ、お前の発言がネタ振りなのか本気なのかが本当にわからないんだけどどっちなんだ?」
これには3人が声を揃えた。
「ホンキでしょう……」
「本気ですよ」
「そういうやつなんです」
「うーん。僕に血の無駄撃ちをさせないでくれ」
「しなきゃイイじゃねーッスかあ!」
「ていうかチェインさん、なんで抱っこしてるんですか……?」
おそるおそる問うたレオナルドだったが、チェインは無造作に体重を受け止めたまま直立不動の視線で、少年の狼狽など意に介さなかった。
「一番平和だから」
「チェイン、それは僕も含めてるのかい?」
「そうです。……嫌がられてましたし」
複雑な気持ちがあってのことだが、まあもっともらしい理由がついた。スティーブンの困った顔も、腹に感じるの熱い息も、不快ではなかった。
異世界人がもごもごと喋る。
「チェインさん、いつかカフェでデートしてください。それで、いっぱい、腹を割って、赤裸々にお話を。下着の色まで! ……パンケーキを食べて、女子会で、私ってこんなこと言える立場じゃないし、チェインさんに失礼で迷惑だけど、こんなふうにはっきり話ができたのはチェインさんが初めてでした。嫌いだったらごめんなさい。たぶん嫌いだと思うんですけど!私はチェインさんが好きです!このことは秘密でお願いします!」
チェインはの頭を遠ざけ、ソファに彼女の背中を押し付けると、「いつかね」と言った。いつなのかは、彼女にもわからない。
スティーブンを横目で見て、チェインはぎゅっと胸を握られる感覚を覚えた。どんなに希釈しても残るそれを。
いつか変えるときが来るのだろうか。
傷のある顔をこんな気持ちで見つめたことはかつてなかった。
「チェイン、君たちは何の話をしていたんだい?」
チェインはの肩を押し、スティーブンにもたれさせる。
「ふたりだけの、秘密です」
酔っ払いが残した酒を一息で呷り、チェインはぷはあとエチル的香りを吐き出した。
寝顔に向けて胸でつぶやく。
私たちの人選は、何よりも正しかった。
きっといつかふたりとも、そう思う日がくるだろう。


何かに引き上げられるように、急激に夢から抜け出した。酒に溺れて死にかける夢だ。
私はソファに座ったまま、上半身だけを横に倒して眠っていたらしい。むくりと起き上がると、「お」とザップさんが私を指差した。
「水飲めよ、そこにあるやつ」
「ありがとうございます……」
ジョッキからこぼれそうな水を飲む。ぬるかったが、身体にしみた。
半ば意識を失うように記憶が途切れ、気づいたらここに寝ていたが、私はどうなったのだろう。
室内にいる人はかなり少なくなり、残るはザップさんとギルベルトさんと私だけだった。
スティーブンがいない。
「……置いてかれた!?」
「んなワケねーだろ。レオは明日もバイトがあるっつって、姐さんも帰宅。魚類も寝た。雌犬もしこたま飲んで帰った。旦那と番頭はションベンだよ」
「あ、ああそうなんですか。よかった!帰れないかと思った!」
まさか置いていかれるはずはないよね、そりゃそうだ。酔いつぶれたところから回復したとはいえ、まだ頭が働いていないのだろう。
ザップさんは酒瓶から直接お酒を飲んでいた。
「いざとなりゃ連れて帰っても良かったんだが、俺、今、家がなくなっちまって今はエミリーの家に泊まってんだよ。3Pも悪かねェけど異世界人とヤるとヤベーし」
この人はヒモなのかな、と思ったところで、ある部分が引っかかる。
異世界人とヤると?
「えっと、……何かあるの?……ですか?」
「めんどくせーからフツーに喋れよ。オメー知らねえの?」
「えっ、何を?」
ザップさんは豪快に、手の甲で口を拭った。脚を組み替える動作は同じなのに、スティーブンとは印象がかなり異なる。
「異世界人とヤったやつはそいつと傷だか何だかを共有することになんだよ」
それは、私の頭を揺らした。
「……はい?」
せっかく組んだ脚を下ろして、テーブルを乗り越えんばかりに私のほうへ身を乗り出す。
「だぁーかーらぁー!一発で聞き取れよ!」
「聞き取ったよ!聞き取ったから訊き返してんじゃん!」
「訊き返すもなにもそれしかネタはねーよ!なにが訊きてェんだオイ」
「なにって」
乱暴な態度にムキになりかけたが、なにについて知りたいかと言われるとちょっと謎だ。訊きたいことはあるはずなのだが、ゴチャゴチャになってまとまらなかった。
「えーと、スティーブンはそれを知ってるの?」
「たりめーだろ。番頭だぞ番頭」
そう言われると知らないほうがおかしい気がしてくる。
「なんでわかったの?」
「どっかからケンキュー資料みてーのが出てきたんだとよ」
「じゃあ、なんで異世界から人が来るの?」
「知らねーよ!!俺が訊きてーよ!どこだよ異世界っつーのは!モクとヤクとセックスは合法か!?」
「モクってなに?麻薬は違法だよ」
「煙草だよ煙草!クソみてーな世界だな!」
「判断基準そこなの!?」
「キメセクの楽しさ知らねーのかオメー」
「『キメセク』?」
「想像しろよ」
「したくない!一生知りたくない!捕まってしまえ!!」
この世界はやっぱり狂ってる。ここでも違法なんじゃないのか。規制がゆるくて、あの世界でダメだったいけない薬もこちらでは合法なのか。スティーブンも『知ってる薬があったら教える』とか言ってラーメン食べてたしそんなもんなの?あの人は毒味的なもので慣れてるだけだよね?そうだと思いたい。
ザップさんは酒瓶をひっくり返した。水滴しか落ちない。飲みきったのか。
「どうやったら、この状況を解決できるの?私は帰れ、……るの?」
帰りたいかと言われると、気は進まない。こんなすごい世界に馴染み、好きな人に優しくされて、元の世界に対する思い入れも薄いのに、離れたいと思うだろうか。私はそれほど、思わなかった。
だから消極的な言い方になる。
ザップさんが私の気持ちを読み取ったかどうかはわからなかったが、彼はテーブルを乗り越えるように大きく回り込むと、私の隣に馴れ馴れしく腰かけ、肩を抱いた。なんだこいつ、と私以上の酔っ払いにドン引きする。ギルベルトさんに目で訴えたが、『いざとなったらぶちのめしますから大丈夫ですよ』というような頷きしか返って来なかった。見間違いだ。
「解決法だの何だのはまだわからねェ。そう簡単に見つかるなら、オメーと番頭がヤッた1週間後にゃ解決してただろーぜ」
「スピード解決過ぎる……」
その時点ではまだ傷を共有する事実すら判明していないだろうに。
「ところで俺さあ、ずっと気になってることがあるんだけどよ。チャン、協力してくんね?」
「えっやだ」
「最後まで聞けよ!」
「チェインさんがザップさんのこと『歩く下半身』って言ってたもん」
「あのクソ女……」
これまでの態度を見るに、誇張なしの真実なのだろうなあと察せられる。チェインさんはザップさんに辛辣だが、評価は客観的なようだ。
「例えばなんだがな、例えばオメーがラリるとすんだろ」
「う、うーん」
「すると番頭もラリんのか?っつー疑問が浮かぶワケだ」
「そ、そうかな……?」
私にはまったく浮かばない発想だった。物騒どころの話ではない。私の常識では完全にお縄の事案である。
「他にも、あんたがセックスかなんかでヨくなるとすんだろ」
「え、ええ?」
「たーとーえーばーだっつーの」
「聞きたくなあい」
「そしたら番頭もヨガるのかっつー学術的キョーミが離れねーんだわ」
「学術に謝ったほうが良くない?」
「ケンキューにジャンルは関係ねェんだよ」
呆れ果てた。それにしたって無節操で下品極まりない。普段、この人は何を考えて生きているのだろう。
ギルベルトさんが私の背後に指先を向けた。影を感じる。私の頭に手が乗った。ザップさんは気づかない。
「なあ、どう思うよ?」
ザップさんの頭にも乗った。
「随分と楽しそうだが、ザップ、何の話をしてるんだい?」
「ゲエーッ!!」
ザップさんが私から3mほど距離を取った。
「あ、おかえりなさい、スティーブン」
「ただいま。……あー、こいつ、全部飲んだな……」
倒れた酒瓶は、もしかすると高いものだったのか。スティーブンが額を手で打った。気に入っていたのかもしれない。彼が気に入るのなら、さぞやおいしいお酒だったのだろう。
「それで、何の話?」
私は水を口に含んだ。なんとなく、ズルをして真実を知ってしまったようで気まずい。私のせいではないはずなのだが。
「えーと。異世界人と……えー、しっぽりいくと……って話」
処女でもないのに激しく照れた。クラウスさんが近くにいたから余計に言いづらい。声は可愛らしいほどか細く、顔も合わせられなかったが、十二分に意味は伝わったらしい。
スティーブンは「ああ、言ったのか」とザップさんを見た。
何も知らず、原因は何かとあれこれ頭を悩ませていた私は、今なら裏切られたような気分になってもいいのだと気づいた。
「別に隠すようなことじゃない。言ってなかったのは、必要がないと思ったからだよ」
先手を打たれて、納得する。
彼は正しく、私が原因を知ったところで何がどうなるわけでもない。教わった今だって、ポカンとするばかりで反応すらできないのだ。有効な対策や緩和方法を考えつけるはずもないし、よしんばひらめいたとしても、きっとスティーブンたちがすでに検討し、却下したものだろう。
混乱をもたらさないようにしたのだ、彼は。
うっかりザップさんが口を滑らせなければ、いつか解決するまで、いや、解決しても一生理由を知らないままだった。それで良かった。彼も、私も。
だって知った今、めちゃくちゃ居た堪れないんだもん。
やってしまった。そういうことか。ホントごめんなさい。パパに拾われた私がバカで、そんな手段をとらざるを得なくてすみません。渦巻く後悔はこんなところだ。いつスティーブンがこのことを知ったのかはわからないが、彼はそのときどんな気持ちだったのだろうか。あああ、心底からつらい。
「っつーか思ったんスけど、スターフェイズさん」
「なんだ?」
復活したザップさんは、お酒が入ってぽやんとした目を三日月型に歪ませた。
「あのッスねー、ヤッたらそうなっちまったんですよね。んじゃあもっかいヤッたら治るとかないんスか?」
まさに目鱗。
『Dimension Charm』の資料のことなど知らない私は、ザップさんの画期的すぎるアイディアに感動した。この人はすごい!と見直しすらする。
スティーブンはざっくり正論で切り捨てた。
「無理だっていうのはわかってる。奇数回、偶数回、なんて条件がついていなきゃの話だが」
「わかってる、っつーと……」
ザップさんが指を鳴らした。
「はーん。ま、そりゃーそーか」
「わかってる……?」
「わかってる……?」
私とクラウスさんが疑問符を飛ばしたが、スティーブンからもザップさんからも答えはなかった。
話題も話題、羞恥でやっていられなかったが、スティーブンの横顔を見て考えるうちに思い至った。そうか、逢い引きはもちろん一度だけではない。そういうことかあ。
……暴露するのやめてください!
切実に埋もれたかった。

ザップさんが引き上げ、残された私たちがめちゃくちゃな宴会の後片付けをしようとすると、ギルベルトさんがすうっと私たちの前に立ち塞がり、「お任せください」と包帯の向こうで微笑んだ。
「お先にお送りしましょう。よろしいでしょうか?」
「うむ、夜道は危険だ。くんもいることだし、ここは……」
「ああ、大丈夫だ。終電はまだあるし、来るときに道路工事の看板が見えたから渋滞してそうだしね。飲みに付き合わせてしまったし、これ以上君たちの帰りを遅くはできないさ。今日は電車で帰るよ」
「しかし、くんは酩酊していたのでは?」
「私は大丈夫です!ひと眠りしましたから」
「無理強いはしないが……。では、気をつけて帰ってくれたまえ」
「ありがとう」
「ありがとうございます。今日は楽しかったです!」
「私もだ」
そう言って凶悪に表情を緩めてくれたクラウスさんと別れ、私たちは週末の混雑する地下鉄に乗り込んだ。
車両はすし詰め状態で、自然とスティーブンの身体にひっつくことになる。まあ、私も周りの異界人にひっつかれているわけだが。
私たちを含め、どこからともなく列車に漂うアルコールの匂いが強烈だった。
ため息をつく。
今日はものすごい1日だった。もうあとは落ち着いて家まで戻って眠るだけだ。

……と、思っていたのだが。
鈍行列車はゆっくり走り、レールの継ぎ目に合わせて車体が揺れる。この揺れが心地よく、座席のお客さんはうとうとする。
私は傾く身体をスティーブンにしがみつくことでかろうじて支え、どの世界でも満員電車は変わらないのだなあとうんざりしていた。
変わらないのは不快な揺れと人混みだけではなかった。
足首にぬるいものが絡みつく。どこぞの異界の触手のひとつか、とキモい感覚を無視していると、それは蛇行するように進路を変えながら徐々に上へとのぼってきた。
(……は、あ?)
頭が回らなくなる。
不穏を感じるうちに、不届きなものは本数を増やして膝丈ワンピースの中に入り込んできた。
一度ならず、受けたことはある。トーキョーの某満員電車に乗る用事があればそんな体験もしようものだ。不愉快極まりなかったので、安全ピンでチクリと刺したりもした。
だがまさか、異世界で。それも、ヘルサレムズ・ロットで。
無秩序な街だが、だからこそなんとなくそんな世俗的でくだらない犯罪などは起こりえないのだろうなと、狂った信用を置いてしまっていた。だって誰が思うんだ。暇すぎるのか、酔っているのか、女型なら誰でもいいのか。
安全ピンはない。太ももがなぞられ、かつてない鳥肌が立った。二度言う。安全ピンはない。
ゾッと背中が寒くなる。生理的な嫌悪で脚を振りたくなったが、ギュウギュウの車両内では叶わなかった。
これは、どうしたらいいのだろうか。
正しい選択肢としては、私の手すりになってくれている色男に助けを求めるあたりが妥当だろう。でもこの電車を見送ると終電はなくなる。タクシーに乗れば帰れるだろうが、先ほど彼が言った通り外は交通渋滞で、異界人のトラック兄ちゃんがクラクションを連打する眠れない夜が続いている。帰りが遅くなると、明日も仕事のある疲労満点(……なのか?)な彼は睡眠不足に陥りそうだ。それははたして、正しいのか?
健康第一。もしも不調によりうっかり大怪我をされたら、誰も幸せにならない。
そう考えると、太ももとお尻くらいなら我慢しても……?
いやいや、と内心で首を振りまくる。酔って錯乱しているらしい。
気色悪い。とにかく気色悪いのだ。吐き気と悪寒がするほどに。
好きな人の健康のためなら、なんて綺麗事を言って健気ぶっても耐え切れない。今すぐこの痴漢の触手を踏みつけて千切って投げ捨てたい。スティーブンに言いたい。助けを求めたい。
とにかく、とにかく、本当に吐き気がした。
めまいがする。気の迷いのせいであっても、痴漢はすべからく滅びよと私は願う。
電車がゆっくりと、プラットホームに漸近する。
先端が下着に触れたので限界が来た。無理だわ吐くわ。飲んだものを全部吐く。胃だけでなく、胸も頭も気持ち悪かった。
「ごめんなさいマイダーリン、私、ちょっと乗ってられない。降りる。先帰ってて」
「酔ったのかい?」
「そうそうそう、あなたの魅力に酔った。ごめん降りる」
よほど顔が青ざめていたのだろう。彼はドアが開くなり、私の背に手を当てて駅に降り立った。
「えー!!い、いやいや乗って乗って帰って寝て!」
「君に何かあると困るんだよ」
「そうだった!」
無情にドアが閉まる。どこの誰かは知らないが、無差別に睨みつけた。触手っていうのはそういうことに使うものじゃなくて、もっと、高いところにあるお鍋を取ったりするときに使うものだよ、と言いたい。
離れて安心したのか、逆にめちゃくちゃ怖くなってきた。耐性が消えたころに襲い来る災難って本当に困る。
「君、ただ酔っただけじゃないな」
指摘されて、脚がへろへろになっていると気づいた。よく考えたらさっきからしがみつきっぱなしだ。強く握りしめたせいで、彼の仕立てのよい服にしわが刻まれる。照れも忘れる衝撃だった。
パニックから脱せたので、慌てて両手を離す。
「セクハラじゃないです!」
「今はそういう話じゃないよ」
手を掴まれた。そのままベンチまで連れて行かれるが、情けないことに脚に力が入らず何度も転びかけた。そのたびに、スティーブンが支えてくれた。
ベンチに座り、脚を見て引いた。
「う、わっ……」
引きすぎると声が出るのだなと初めて知った。
まとわりつかれた部分に得体の知れない、キモ過ぎてギネスに登録したくなる粘液が付着していた。再び錯乱。さすがにバレた。
「……訊きたいことがいくつかあるんだ。いいかな」
「拭いてからでいいですか……」
「いい、俺がやる。そのまま座って」
「は、はあ」
スーツが汚れるにも関わらず、清潔そうには見えない床に膝をついた色男は、取り出したハンカチでよくわからない液体を拭い始めた。彼の視線は脚にあり、『わあ、ちゃんと処理しといてよかったー』と場違いな乙女思考が顔を出した。沽券にかかわるところだった。
何から言おうか考えていたようで、やがて開かれた口から落ち着いた声が出される。
「いつから?」
「真ん中……くらい……?」
地理がつかめてないし、駅名も複雑でまだ覚え切れていないので感覚だ。
「その辺りからずっと?」
「そう。キモい」
「降りるまで?」
「うん。すごいキモい!」
いつものやりとりに戻したいのだが、私はまだ狼狽えているわ、彼は機嫌が悪そうだわでやりづらかった。
「か、感覚が共有されてなくて良かったよね?キモいよこれ」
「今、この状況でそんなことを考えるのは君くらいだな」
「……褒められてる?」
「そう思うか?」
「思いません……」
しつこいくらい拭いてくれるので悪い気持ちになってきた。
「いや、もういいよ。あとはトイレとかで洗うよ。ありがとう。トイレ行ってくるから……」
もう一度、念入りに上から下まで拭いてから、彼はハンカチを捨てたそうにした。
「君をひとりにしたら泣きそうだ」
「泣かないよ!こういうのホントは慣れてるんだって!安全ピンをね、持ってたら刺せるの。あとはサインペンとか。電気がビリッてなるグッズがあったらそれもできるし!」
結局捨てずに、面を変えてポケットにしまう。なぜか私の手を握ったので、びっくりして場もわきまえず照れた。
「でも、何も持っていなかった」
図星だったのでぎくりとして、さらに普段は見上げなければならない顔を見下ろすギャップにどきりとして、そしてすごく安心した。私はとても単純にできている。
「どうして俺に言わなかったんだ?」
「電車が終わると帰れなくなるなあって。……お、思いました!」
「言おうとも思わなかったのか?」
「お、思いました!でも、まあいけるかなって……。いけなかったけど……」
もしかすると、言えばポジションを変えるなりなんなりしてやり過ごし、あのまま電車に乗って帰宅できたのだろうか。選択を間違えた。切羽詰まってた。
「感覚が共有されるかされないか、帰れるか帰れないか、そういう話はどうでもいい。そういう場合、君は何も考えなくて構わない」
今までに見たことのない感情が、瞳からダイレクトに脳髄を貫く。
「ただ黙って、俺を呼んでくれ」
黙って呼ぶとは、矛盾してます!とはもちろん言えなかった。
「いいな?」
念を押される。心にくさびを打ち込むような眼差しだった。
このとき私は、ものすごく弱っていたようで、信じられないし信じたくないし、思い出したくもないことに、ヘルサレムズ・ロットが誇る色男(……個人的に!)の前で、可憐な処女のように、呆然としてぽろりと泣いた。
「……うわ!泣いた!私泣いてる!キモ!!」
女の涙など見飽きているであろう男の前で。恥ずかしげはあったけど。
一粒涙が落ちてしまうとよくないようで、ひとりおろおろしながら、握られてる手を引っ張った。
「君、ハンカチ持ってるか?」
「カバンにある」
「俺のは使えないから、それで拭いてくれ」
「私もそのハンカチは使われたくない!ごめんなさい!」
大粒の涙がだらだら出てくるので急いでカバンを探る。お財布の陰にもスマホの陰にも手鏡の陰にもなかった。最悪だ。女子力とはなんだったのか。
「忘れた!」
パパに買ってもらった高級なクリームもチークも涙くらいでは落ちないので腕でこする。マスカラやアイシャドウはつけていなかったので、目尻までこすって水分を除く。
それでもまだ出てきたので諦めてななめ上を向いた。ダメだ、女の涙は武器なのに、もったいない。
彼は立ち上がり、世の彼の恋人が羨むようなやり方でこちらの涙をぬぐってくれた。
じきじきに。
手と指で。
私は貴重さに恐れおののいた。
「ヒイッ!死ぬ!恥ずかしい!泣き顔は見ないで!見せたいときは見せるから!」
「そういうギャグは今はいい」
「ギャグ!?」
私の渾身の抵抗は無惨にも切り捨てられた。何を言っても無駄そうだ。
とても怒っているように見えた。
「……なんで怒ってるの?」
気にしないでいいと言っていたので、感覚や終電の話ではない。私が黙っていたこと、と考えるのが妥当だ。でもなぜ私が黙っていたことに対して怒るのだかが呑み込めない。
「わからないかい。まったく?……ちっとも?」
怖かったので笑ってほしかったのだが、言える空気ではなかった。
きっかけもなく、ぽん、と可能性が浮かぶ。
……あれ? もしかして私、心配されたのか?
頭が真っ白になって涙が止まった。
え、なんで心配してくれてるの?優しさ?ヤバくないか。
いやしかし、確かに女性が痴漢されてひとりで耐えてたら心配になる。言ってくれれば何かしてあげられたかもしれないのに、と思うかもしれない。ましてやそれが親しい仲なら、なんで言わなかったの、と怒ることもありそうだ。
そういうことか、とピースが嵌った。
「君が俺にどんな印象を持ってるかはなんとなく察しがつくよ。けれど、俺が『君が考えているように』君の存在を認識していたら、今日、君をあそこには連れて行かない。何があっても、絶対に」
「え、あ、はい」
「俺自身、よくわからないところもあるが、君にはそれなりの信用を置いてる。親しみも感じてるし、面白い部分もある」
「え!?えー!ホントに!?褒め過ぎじゃない!?私明日骨折りそう!」
「やめてくれ。君、俺の態度をなんだと思ってたんだ?」
「優しさ?」
「そこまで暇じゃないよ」
「ワオ!」
天下の秘密組織の番頭だもんね、と頭の中で呟いた。口に出さないところは、バカなりに褒められたいポイントだ。ところで番頭ってなに? 今さら、誰にも訊けない質問だ。物知らずですみません。
涙が止まり、塩からい涙の跡だけが残る頬を両手が包んだ。
あまりのことに私の心臓は刹那止まって、寿命が縮むほど激しく走り出した。
「君は、俺には余計な気を遣わなくていい。俺には何を言ってもいい。何をしてもいい」
心臓はばくばくして痛いのに、貧血が起きそうだった。
真摯な眼差しは私だけに注がれて、その表情も体温も感情も私だけのものであった。
「一人で抱え込まないでくれ。……こういうのは、ひどく不愉快なんだ」
あ、死ぬ。
これほど死を間近に感じたのは逃亡してひっ捕まったあのときくらいだが、今のものはそれよりもずっと苦しく、興奮と幸福感と恋と冷や汗ではち切れそうなデス・バルーンだった。辞世の句を詠むだけの頭脳はないし、あったとしても脳細胞が熱で溶け、使い物にならなかっただろう。
かろうじて私は、ベンチの上で後ずさった。
「お、オッケー、わ、わ、わかった」
狼狽ぶりと顔面の熱が、手のひら越しに包み隠さず伝わった。あらぬ誤解を呼ぶ。
「……君は別のことに気を取られて内容を聞いていなかったんじゃないか?」
「私をなんだと思ってるの!?聞いてたよ!ありがとうございます!」
この言葉をもらえただけで、痴漢のショックが吹き飛んだ。触手なぞ、ぶつ切りにして鍋で煮てしまえ。謎のキモい粘液はゼラチン代わりだ。
「ほ、本当に嬉しかった。そんなふうに思ってもらえて、心配してもらえて。本当に」
また視界に透明な膜が張ってしまって口元がひきつる。お酒が入ったのもあって、何もかもがゆるゆるなのだ。
思いの外、不安だったのかもしれない。
予想だにしなかった言葉をかけられ、私は安堵していた。お荷物だ、迷惑だ、と自分に言い聞かせるたびに心に積もる砂のようなもの。レオに悩みを聞いてもらい、解消できた部分もあったが、本人から直接聞くのとでは天地ほど違う。
『人を信じるな』と言ったスティーブンとは逆に、『人を信じろ』とチェインさんは言った。何を信じればいいのかもよくわからなかったが、たぶん、きっと、私はこの言葉を信じればいい。
……余談になるけど、スティーブンの『人を信じるな』という発言の『人』とは、具体的に誰を指していたのだろうか。私は、彼本人のことだったのではないかなと思う。どう考えても穏便でない生活が始まったというのに、オツムがすっからかんな顔をしている私に、ビミョーな心持ちがあったのかもしれない。なんかごめんなさい。
「わかったから、泣くな」
「キスしてくれたら止まるかも……」
「元気になって良かった」
「変わり身!」
終電のなくなった誰もいない地下鉄の駅。わーんと声をあげて泣くふりをしたらリアルに嗚咽が漏れて動転した。ハタチなのに。成人としての自分を思い出してものすごく困惑する。「今のなし今のなし」と否定しても止まらず、スティーブンが電話で呼んだタクシーに乗り込むまでも乗り込んでからも、私はぐすぐすひっくひっくと忙しく泣いていた。
スティーブンは最近特有の特別な優しさとサービス精神を見せ、ずっと背中を撫でていてくれた。

翌日、泣きはらした寝不足顔はどうにもならず、「もう女の子としてダメです」と言いながら諦めてテーブルを挟んで向かい合うと、睡眠時間約3時間半の悪体調も何のそのな体力のあるイケメンサラリーマンは私の顔を見てさらりと言った。
「別に僕は気にならないし、君は誰にも会わないんだから、僕が気にならなければ問題ないだろ」
寝不足の胃袋に食べ物を突っ込む気にはなれないのか、口にするのはコーヒーだけのようだった。
「……なるほどねー! 最近あなた、また私に口説きテクニック使ってない?」
「正直に言っただけだよ」
「それが素なのかテクニックなのかわからなくて悔しい。ひたすらに恋を燃やす毎日」
「それは大変そうだ。頑張ってくれ」
「放火したまま放置!?」

レタスを食む私の隣を通りざま、彼は私の頭に手を乗せた。軽く髪をかきまぜる。
「君ならどんな顔でも可愛いよ」
「……は……」
手が離れ、恋の放火犯は上着を取りに部屋へ入ってしまった。
触れられた場所を確認し、私は愕然と呟いた。
「私、この家にいたら、心臓が、爆発しそう」
あざとすぎて、立ち向かう気力も湧かなかった。



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