12
テレビというものはだいたいなんでもネタにする。スキャンダルどころではない混沌街でもそれは同じで、今日は『人類オススメ、護身術』と題して理解不能な体術を説明する番組が流れていた。
組手やキメ技などはさっぱりわからないので流し見程度に留めていたが、「イケナイ人とのキスにはご用心!」と触れ込まれれば話は別だ。顔を上げて姿勢をただした。
なるほど、恋愛を装った強盗事件が多発しているらしい。むしろそんなに平和的な手段でいいのか?と思ってしまったあたり、私も感覚が麻痺してきているようだ。
アナウンサーの説明を聞きながら脳裏に浮かぶのは、朝のテラスでうんと伸びをしてから出勤した家主の姿だった。
実に、活用していそうである。
10人に訊いて10人が「うん」と答えるだろう。スティーブン・ナントカ・ナントカはとっても器用そうだし、裏技にも精通していそうだ。恋愛強盗よりも上手に、人から意識を刈り取るに違いない。
(やられなくてよかった……)
記憶の限りでは突如として意識を失ったことはないので、ほんの少しホッとした。血管の血を止められるなんて、怖すぎる。
キスをするときに後頭部に手を添え、どこかにある血管をこっそり圧迫すると、その、効果的、なのだそうだ。恐ろしい話だ。頚動脈とやらにさえ気をつけておけばいいのかと思いきや、人体のどこにも安心はない。そんなことをテレビで放送してしまって大丈夫なのだろうか。模倣犯が増えやしないか?人々の良心を信じたい。
日付が変わるころに家主が私の肩を揺すぶった。
ソファで丸まって惰眠をむさぼっていた私は、凝り固まった腕を天井に伸ばす。寝心地のいいソファでも、おかしな格好で寝るとよくないみたいだ。
「おかえりなさい」
「ただいま。……夕飯を食べたなら部屋で寝ればいいのに」
「ついうっかり」
ほぼ毎日うっかりしているわけだが。
可愛く笑っても効果はなかった。魅力が埋没しているのだろう。
「シャワーは?」
「終わってます。なんか飲むなら用意するよ」
「自分でやるからいいよ。寝たらどうだい?」
「眠くない!」
「だろうなあ」
すかすか眠っていたものね。
振り返らないスティーブンがドアを閉め、かすかに水音が聞こえてくるまでそのままでいる。ソファの背もたれに顔を押しつけた。
「……やってそー……」
何が私にそう思わせるのだろう。あの、ヒャクセンレンマふうの風貌か。それとも言動か。実体験に基づいて構成されたイメージのせいか。デキそうな大人には必ず付属された能力なのか。
たったひとつのバカげた質問をするため、私はお水をくんで、彼の戻りを待った。この時間ならまだ起きて、お酒の一杯でも飲むはずだ。
読み通り、彼はお酒の瓶が並ぶ棚の前で、自分の味覚とお酒の銘柄を照らし合わせていた。私が後ろから覗き込むと(……なんと、この程度の接触ならスルーされるようになった!)、「君の知ってるものはある?」と訊ねられる。
張られたガラス越しに中を見る。
「うー、ん。私、お酒にあんまりキョーミなくて……。お酒強いそぶりとか見せるとモテなかったし……」
「実際は強いのかい?」
「飲み過ぎて本命以外に『お持ち帰りー』とか言われるのがウザかったから飲み会じゃあんまし飲まなかったし、飲んでも甘いカクテルとかだったから、強いかどうかもわからない」
「なら、慣れてないのかな」
「そうかも」
こくりと頷いてから慌てた。彼の視界にわずかでも痕跡を残し、気を引こうと必死で手を振る。
「あ!あー!でもスティーブンになら酔わされてもいいよ!」
「……あ、これにするか」
「聞いてない!!」
取り出されたのは曲線的な形の瓶だった。飾り文字のアルファベットは判別しづらい。三割ほどは飲んだらしく、残りの液体がたぷんと揺れる。
「なにこれ?」
「もらいもののブランデー」
見たことがないデザインだった。この男のことである。相当にレベルの高い『もらいもの』なのだろう。
彼は、普段は見かけないグラスを棚から取り出した。「持っててくれ」と瓶を渡される。正直、任された信頼ごと瓶を落として割りたくないので抵抗があったが、スティーブンに頼まれたのなら断れない。胸にしっかり抱き込んだ。
両手をあけた彼がグラスを取り出す。
ふたつあって、目を疑った。
これは、期待していいのだろうか。いいはずだ。いいと思いたい。ここまできてひとりでふたつのグラスを使って飲むのがお作法なのだとでも言われたら、私はがっかりし過ぎて恨めしげに彼を見つめてしまう。
器用に片手でふたつのグラスを持ち、瓶を受け取ろうとした彼だったが、彼がどんなに自分の能力を自覚している有能な人間だとしても不安が拭いきれず、瓶はそのまま私が持たせてもらうことにした。消えた明かりに追い立てられるようにして、テーブルに戻る。
「寝転がりながら飲みたい、とかないの?」
「まあ、やらないこともない」
「カッコイイ……!!あわよくば隣で眺めたいです!」
「反応に困るなあ」
「ひと言『いいよ』って言ってくれたら終わるのに」
ふたつのグラスがお酒のとろけた色に染まる。
「言ったら入ってきそうだから嫌だよ」
「じ、自撮りして送って」
「もう酔ってるのか?」
「一滴も飲んでないです!」
素面でこれというのもかなりキツイものがある。このアピールも暖簾に腕押し。内心ではドン引きかもしれない。
グラスを差し出す動きからは、心の機微は読み取れず。私は指先でそれを受け取り、どうすればいいのか、スティーブンを窺った。
「飲んだことは?」
「な、ない」
彼が自分のグラスに添えた手の形を真似して、私もぎこちなく、薄いガラスを人肌で温めた。ああ、確かにドラマとかで見かける姿かもしれない。
「よくやるの?」
「面倒なときは氷で割る」
「氷もいいの?日本酒みたい」
相槌を打ち、彼は私のグラスに手を当てた。
「そろそろいいんじゃないか? 好き好きだけど」
他愛のない話をするうちに温度が移り、顔を近づけるとふわりとアルコールらしい香りが漂った。
嗅いでわかる。これ、キツそうだ。今までに飲んだことのない、大人の香りがつんと鼻の奥を刺す。
ちらちらと不安がってスティーブンを見たが、あちらはあちらで味を確かめていた。ラベルを見たりする。賞味期限とか、あるのかな。その動きでさらに不安になった。
口をつけただけで喉の奥がキュッとなる。含むと、わずかにぬるい液体は、柔らかい香りの中に強烈なアルコールの熱を感じさせた。飲み下した喉と胃に固まりが滑り込み、触れたところが熱くなる。
ザ・お酒、といった感じだった。
衝撃が大きく、はっきりとは味わえなかったのでもうひと口飲む。
「想像してた味と全然違う。もっと甘いのかと思ってた」
「香りがいいだろ?」
「うん、なんとなく……だけど。女性と一対一で飲んでも楽しそう!落ち着く香りだね」
「もらいものの中では、結構気に入ってるんだ」
他にもたくさんもらいものがあるのか。スティーブンはお友達が多そうだ。それもそうだろう、こんなにも性格が良さげで物腰が柔らかく、理知的で機知に富むイケメンに友人がいないなんておかしい。そのお友達のレベルも高そうで戦慄する。私でさえ良さを欠片なりとも感じられるお酒をプレゼントしてしまうのだ。い、いくらくらいなのかな。下世話な詮索だけど、気になる。
「度数は高いの?」
「普通だよ。40くらいだ」
「40かあ。……基準がわからない」
「いつも君に飲ませるワインが12度くらい」
「これヤバ!!」
倍どころの話じゃなかった。
びっくりしてグラスを顔から遠ざける。まじまじと眺めるだけでは、この少量の液体にそれほどのアルコールが含まれているとはわからない。新しいカクテルだよ、と言われても疑わず口にしてしまいそうだ。
「えー、普段からこんなの飲んでるの?」
「時間があるときはたまにね」
「飲んだら寝るの?」
「寝るときもあるし、少し紙に目を通すこともある」
「恋人にメールを出したりとかも?」
「必要そうならね」
「私、毎晩スティーブンからのメールが欲しいなぁっ」
「なかったら死ぬくらい切実に?」
切実に欲しい欲望はあるが、『死ぬほどか』と言われると答えづらい。もちろん土下座するほど欲しいとも。だが私たちの場合、『死ぬ』という脅しは何より効果的だ。ジョーカー過ぎて、決して場には出せないのである。だから彼もそんな言い方をしたのだろう。ここで『死ぬくらい切実に!』と押し切ればメールをくれるかもしれないが、私はそこまで負担にはなれなかった。
「だ、大丈夫です……」
欲しいなあ、と思いつつグラスを口に運ぶ。3口目は初めよりも落ち着いて飲めた。舌の上で転がし、味をみてみる。アルコールが強くてうまく理解できなかった。
「おいしいものなの?」
「物によるけど、これはうまいかな」
「へえー」
「他にも飲み方はいくつかあるよ。やってみるかい?」
なぜ、と疑問符が浮かぶ。構ってくれるのはすごく嬉しいのだけど、明日も当然のごとく出勤を控えるスティーブンが、日付が変わっているにも関わらず事態を長引かせようとする理由はどこにある? 私はなにも面白いことは言えないし、彼を癒すだけの力もないのに。
……単純に、たまには誰かと宅飲みしたいのかもしれない。仕事まみれで、飲み会なんてものもあまりないのだろう。
私は人と一緒にいるのが好きだから、気持ちが少しだけわかる気がした。勘違いでもいい。彼が飽きるまで、いつまでだって付き合おう。だってそれは、私にとって幸福なことでもある。好きな人との晩酌なんて、夢そのものだ。
「やってみたい」
「うん。ちょっと待っててくれ」
やおら立ち上がったスティーブンは、またキッチンに消え、しばらくガサガサと何かをいじったのち、別のグラスを持って出てきた。ここにはお酒用のグラスがいくつあるんだ。
細長いグラスにレモンの輪切りが添えられている。
「……絞る!……ってこと?」
「どっちかっていうと、かじる」
「へえー」
砂糖の盛られたレモンは甘酸っぱく、ブランデーの味を軽くしてくれた。こちらのほうが好きだ。ところでこれは本物のレモンかな。
「スティーブンは物知りだね。誰かにつくってあげたりするの?」
「これは誰でも知ってるんじゃないかなあ。知り合いも僕もこういう飲み方はしないから持ち腐れだよ」
「女の人は好きそうじゃない?したげればいいのに」
彼は首を振ってお酒を飲む。
「プロがやるから、僕の出る幕はない」
「宅飲みでさ!」
「しないなあ」
「えー!もったいない!絶対好感度上がるのに!……まあこれ以上?上がらなくても?いいですけど!?」
ライバルが増えてしまう。万に一つも勝ち目のないライバルが……!!
レモンの酸味に釣られて、中和するようにお酒を飲んでいたら、ペースは遅いながらも減りが見えてきた。
「あんまりペースを上げると潰れるぞ」
「介抱してくれるなら喜んで一気飲みするよ!」
「酒がもったいないから味わって飲んでくれるかな」
「はいごめんなさい」
煩悩は時と場合を選ぶべきだと何度自分に言い聞かせれば学ぶのか。おとなしくちまちまとお酒を舐め、彼のペースに合わせた。彼の顔色は変わらない。私は身体がポカポカしてきた。
「あ、そーだ。ねえスティーブン、あなたってキスしながら人を失神させられる?させたことある?」
「ん?どっちの意味で?」
質問返しに違和感がなくて突っ込み損ねそうだった。
「ど、ど、『どっち』!?テクニカルな方向でも経験があるの!?ありそう!キスだけで失神させてそう!」
「さすがにそれはないよ。君が僕をどう思ってるかがよくわかるな」
「だってありそーなんだもん……」
キスだけで失神させられた女の人は、どんな気持ちになるのだろう。うっとりして彼に惚れ直すのかな。狂ってた私なら(……今も軽くクレイジーだけど)、彼の認識を改めて、スリリングな口づけにロマンを抱いたはずだ。そんなもんなのかもしれない。やっていようがいまいが、スティーブンだから許される、というところは確実にあると思う。
「あのね、今日テレビでやってたんだけど、最近は『恋愛強盗』が流行ってるんだって」
「ロマンチックな名前だ」
「キスするときに相手の頭を支えるふりをして、血管……かなにかを押さえて失神させるの。それで女性がやられまくって、3千ゼーロの被害が出てるらしいよ」
「それを僕がやったことがあるかって?」
「うん」
いかなスティーブンといえど、そんな過激な手段は使わないか。使うシチュエーションもイメージがつかないし、普段の手練手管で万事うまくいきそうな気がする。
「そういう意味なら、あるよ」
「あーやっぱりないよ、……ね……」
お酒でむせるところだった。
「え!?あるの!?」
「ここだろ?結構有名だよ」
自分の頭の見えないところを指で触ってみせる。唖然とした。有名ってなに?どの界隈で?致命的に私が踏み込んだこともない世界の常識だったようだ。
レモンの汁がテーブルに垂れた。それにも気づかず、目だけ丸くして相手の顔と頭を映す。
ある、のか。
「だ、誰に?」
「君の知らない人に」
「そりゃそうだわ!!」
私の知ってる人って言ったら、スティーブンかK・Kさんかレオしかいない。クラウスさんは……かろうじて知人、なのかなあ。あの人を知り合いに数えるのはなんだか畏れ多い。
多くの付き合いがあり、今もまだたくさんの赤い糸が彼の手中だと知ってはいるが、新たな衝撃だった。
「どんな感覚なの?失神って」
「その場合は、頭が重くなってぼうっとして、気が遠くなって、目覚めたらいつの間にか違う場所にいる、って感じじゃないか?」
「め、目覚めないこともある?」
「やり方によってはね」
「こわっ!!やだ!!」
「誰にもされるアテがないだろ、君は」
「強盗が押しかけてきてキスして金品を奪っていくかもしれない。……うわーサイアクー。知らない男のキスとかキモ……」
自分の想像で鳥肌が立った。頭は軽いが、お尻はそうでもないはずなのだ。
「だってアレでしょ?キスだよ!知らないやつからの!どんな強盗だって話だよね。まあ、ホントは恋愛に持ち込んどいてホニャララ、みたいなやつなんだろうけどさ。単純に家に押し込んできて無理やりキスして昏倒させられるー、とか考えたらサイアクだよね!?うわっ、想像しちゃった。すんごいキモい!」
ううー、と腕をさすると、スティーブンのグラスが傾き、中身が干された。
「……そいつは侵入する前に僕の部下が取り押さえる。君が気づかないうちにね。僕がいるときなら、それよりも楽に対処できる」
「もしものときはそいつ殴っても合法?」
「その『もしも』は絶対にない。君が考える必要も、想像する必要もない」
ぴしゃりと怒られてしまった。スティーブンちのセキュリティと、見守ってくれているらしい部下さんたちはすごく信頼してるのでただの笑い話にできたらよかったのだが、プライドを傷つけてしまったかもしれない。
「ごめんなさい! そうだね、私がクチビルを許すのはスティーブンにだけだからね!全力で信じてるよ!ホントに!」
「ああ、それならいいんだけど。嫌な想像は酒がまずくなる」
言われてひと口飲んでみた。
「変わんない」
「君はそうだろうな」
それからしばらく私たちは黙り、スティーブンが2杯目をつぎ、勧められるがままに(……高いお酒だというので、せっかくだし)分けてもらった私は、徐々に脳みそがふやけてきた。いつもよりも、という意味である。
ほわほわした頭は濃かったブランデーを『おいしい』と感じ始め、口角が持ち上がる。レモンがなくても飲めそうだ。
そんな私に、テーブルに両肘をつき、手指を組んだスティーブンが問いかけた。
「……僕はさっき、なぜあんなに苛立ったんだろうな」
なんの話?と目を泳がせた。『苛立ったスティーブン』という表現がしっくり来ず、話の概要を辿るのに数秒かかる。
「えーと、セキュリティ?……とかが疑われたから?」
私の答えはあまり求められていなかったようで、彼は視線を落として、それからまた、空白の暇つぶしに酒瓶に目をやる私を見たらしかった。注目を感じて顔を上げる。
「君は本当にそうだと思うかい?」
「違うの?」
「僕にもよくわからなくてね」
「最近多いね。疲れてるんじゃない?」
「……そうかもしれないなあ」
瞳が私のグラスたちに向き、レモンに向き、瓶に向き、自分のアルコールに向いた。自己分析に余念のない男が全体を俯瞰する。
「味はどうだった?」
そのまま答えを求められたので、正直に、「初めは飲みづらかったけど、レモンのやつにしてもらったら慣れて、今は普通に飲めるようになった」と言った。
「こんな時間までスティーブンと話ができて楽しかったし。……そういうのもあるのかもね!ひとりで飲んだら、また飲みづらくなってたりしてさ」
「君ならありそうだ」
彼にはなさそうだ。彼はいつでもフラットである気がする。気分によって左右されることはあるかもしれないが、それならそれで、と受け入れる力がある。私はうまくいかないとがっかりして飽きてめんどくさくなってしまうので、成熟とは程遠い。
最後のひと口、ちょっと多い量をまとめて胃に流し込む。喉が熱く、酒気を帯びた。
立ち上がった瞬間、『あっ、酔ってる!』と思った。気分が高揚して、楽しくなってしまう。スティーブンにさえ気づかれないレベルだが、足に力も入らない。
「ねえ、あのー、スティーブンさん」
テーブルを大回りし、向かいに辿り着く。えへへといじらしく微笑んだつもりだったが、もしかすると『ふへ、はへ』と表情の締まりすら制御できなくなっていたかもしれない。
空のグラスにかかっていた手に手で触れる。大きな手はぴくりと動いたが、引き抜かれることはなかった。半ば理解した様子で、訝られる。
「あの! ね、ね、ハグ!ハグしませんか!?」
片手はそのままに、もう一方を広げる。
「……強くもないけど、弱くもないか。それなりに飲んだもんなあ」
「そう、酔った!酔ったので!優しくハグをしてくれたら……」
「『してくれたら』?」
考えてなかった。
「……気持ちが良くなる!」
「酔ってなくてもなりそうだよ、君なら」
ご指摘はもっともで、私自身もむしろ酔ってないときにやってほしいと願う。
しかし軽くでも酔った今なら、どんな無茶ぶりでも『酔っぱらいだからな……』と許してもらえる可能性がある。世間は度を超えなければ、酩酊状態の人に優しい。ヘルサレムズ・ロットは除く。
これまで数多くの女性(……あるいは男性?)から、より質の高いアピールと誘惑を受け続け、そのどれもに理性で勝利した(……と思しき)人物に挑むには、私という存在はあまりにも貧相かつ矮小だ。
しかし、しかし。今の私は酔っぱらい。手のつけられない面倒な絡み酒である。
「ねー、一回だけ!5秒でやめるから!していい!?」
ここでハッとした。これが理由で、もう二度と飲みの席に誘ってもらえないかもしれない。冷や汗が出た。なるはやで口を開いた。
「……な」
焦ると急激に酔いがさめていく。
「……なあーんちゃって!ウソです!ウソだよ!酔ってるけどウソです!調子に乗りました!ごめんなさい!だからまた一緒に飲ませてください!」
手を離し、素晴らしい速度で後ずさる。無実を証明するように両手を肩の位置まで上げた。
酔いを瞳に浮かべないスカーフェイスのイケメンは、私が触れた手でおもむろに頬杖をついた。
ざっと私を上から下まで見澄ます。バスタイムは終わったので、当然、すっぴんにパジャマ姿だ。あまり可愛くない格好である。急に恥ずかしくなった。
「いやその、あんまし」
「5秒ならいいよ」
時が、止まったかと思った。
脳細胞までがアルコールとともに蒸発したか、思考が停止する。時計をふり仰ぎ、秒針の動きを確かめた。時間は進んでいた。つまり私がおかしいのだ。ひとり、取り残されている。
「5秒ならいいよ」
親切にも、彼はもう一度言ってくれた。逆に、私はさらに一歩よろめいて後ろに逃げる。
「う、うそ?」
「嘘じゃないよ」
「……わ、私はすでに失神して夢の中!?」
「起きてるように見えるけど」
「じゃ、じゃあ、……ほんとに?」
「5秒だけだ」
胸いっぱいに息を吸い込んだ。喉だけでなく、頬も、手も熱くなる。手なんかは汗すら滲み出た。パジャマに手のひらを押しつける。
目がギラギラしてやいないだろうか。
わざわざ立ち上がってくれた(……くださった!)スティーブンに、おそるおそる、相手は狼か?と訊きたくなる慎重さで腕を回す。パッと離した。
「こ、これどの時点から5秒!?」
「どこでもいいよ」
「ふぁー!!法の穴!」
今度こそ身体をくっつけて、『うわやばい、いつぶり?いつぶり?照れる照れる、しんじゃう』と空気の抜けた頭のタイヤで必死に自転車をこごうとする。自転車はすぐに後輪を滑らせてガードレールに激突した。
「ヒイッ!」
スティーブンの腕もこちらにまわった。
これにこそ耐えきれず(……過去には何度もしてもらっていたのに!)、熱湯に触れた気分で飛び上がった。けれど、サービスは、やるからには徹底する主義なのだろう。あちらからの拘束が強く、抜け出せなかった。どこまでも、プロである。私は羞恥の限界を迎えた。
「あああ……あ……、わ、私……わ、わた、私……」
「君は本当に、その状態で生きているのはつらくないのか?」
「ぜ、ぜんぜん。幸せ。嬉しい。スティーブンのサービス精神……すごい……ほんと……これは……これはニクい……大好き……」
「サービス?」
「タダでやってくれてる!得しないのに!優しさを感じる……あっ、もう5秒経ってるよね!ごめんなさい、ありがとう」
計るのも忘れていたが、きっと経っているはずだ。
名残惜しさ、未練、寂しさ。胸の中がぐずぐずだ。スープになってしまいそう。恋とは本当に、エネルギーを使うものだ。
腕を解いた私は、「あああーほんとに好きい」と囁いて顔を上げた。その頭を、右手が押さえる。左手はいまだ私の腰にあり、びっくりしすぎてその腰が抜けかけた。
「ご、5秒は?」
「うん。……サービスだ」
「ふぁ!?」
声が優しかったことにも反応し、単純に、あっちへゴロゴロこっちへゴロゴロといいようにされてしまいそうだった。
「ふぁ、う、うあ」
混乱の波が引くと、異世界から来た私というハタチの女はゲンキンなもので、すっかりさめたアルコールよりもずっと濃く、強く、甘ったるく脳髄に染み渡るしぶとすぎる恋心とサービスタイムに酔いしれた。ぎゅうと抱きしめてみるとあちらも力を込めてくれるので、元の状態に帰れなくなりそうである。間近で感じる、というよりもはや全身で感じられる他人の体温と混じる匂いに大興奮だ。
「やばい……やばいよ……す、好きになっちゃうよ……、もっと好きになっちゃう……、トキメキ過多で泣きそう!」
「泣かれるのは面倒だなあ」
「泣かないほうが好き?」
「寝間着が濡れるだろ?」
「確かに!!じゃあ泣きません!」
そこまで号泣はしないけど。
私も彼の服を私の体液まみれにしたいわけではないので顔を離そうとする。だがその頭は押さえつけられており、本能に任せて頬を擦り付けるくらいの動きしか許されていない。うむ、なんだこれ。あまりにも行き過ぎたサービスではないか?そういうのはあとで別料金を取られる、と元カレが言っていた気がする。仮にも恋人がいるのにセクパブやキャバクラに通い詰めたやつだ。2週間で切った。
「あ、あの、私、なにも払えません!」
「なんの話だい?」
「追加サービスのお代!」
ああ、とスティーブンは頷いた。頭上から降る声は普段と変わらないはずなのに、状況ゆえか、やけに私を興奮させる。
「なんとなくやりたいだけだからそういうのはいいよ」
「ふぁ!?なんとなく!?それは私の魅力に気づいたということ!?」
「それはどうだろう。……ああ、あとさっき言ってた血管はここだよ」
「教えてくれてありがとう!?」
優しく抱きしめられ続け、血管なんて押さえられてもいないのに、私はいつか失神するのではないかと危惧する3分をじっと、ウブな中学生のような面持ちで満喫したのだった。
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