10
体調を心配される生活にも飽き、どう元気をアピールしたものかと悩んだ結果、ケーキを焼くことにした。
ヴェデッドさんに頼み、つくり方を教えてもらう。見ていましょうかと言われたので遠慮なくお願いした。万一ドジをしてキッチンをボロボロにしたら困る。
監督が優秀で、粉をふるうコツや混ぜ方のポイント、焼くときの温度をどうするかを細かく教えてもらえたので、日記ノートにメモしておく。クッキーのレシピも教わり、出来上がった2本のパウンドケーキは切り分けてふたりで食べ、1本を「よければ」と言ってヴェデッドさんに押し付けた。彼女は優しく、とても喜んでくれた。私の周りのひとは皆、持ち上げるのがうまい。
ラム酒漬けのドライフルーツでつくるのもおいしいんですよ、とオマケでこっそりラム酒とドライフルーツも買ってきてくれたヴェデッドさんは、煮沸した瓶にそれらを入れ、密閉して暗所に隠した。
「ここに置いておいて、来年、またつくりましょうね」
素直に喜びを表したが、はたして来年まで私はここにいるのだろうか。この超常現象はいつ終わるのだろう。
つくったケーキの写真をスマホに保存し、スッスと画面を指でなぞって機能をさらう。私が元の世界で持っていたものよりも多機能だったが、ほぼ英語だ。言語設定を切り替えるところから始めた。
「ん?」
アドレス帳に知らない項目が増えている。誰にもつながらない電話だから(……相手がいない)気にしていなかったが、パパの連絡先を削除して、この間渡されたK・Kさんのアドレスを登録しようと開いたアプリには、新しい名前があった。
うわっ、と声が出てソファの上で仰け反る。ひとりでなければ不審者だ。
スティーブンの名前があった。
電話番号と、メールアドレスまである。
彼からはこれまでに何度も電話がかかってきていて、わかっていたはずなのに、今まできちんと認識していなかった。というかここまで登録されているとは、目にした今でも信じがたい。
これは貴重なのでは。
売ったらすごいことになるんだろうなあと頬杖をつき、怖くなったのでスマホのパスコードを変えた。ついでにパスワード設定もできたので、悩んだ末に苗字を採用した。気に入らない響きだが、セキュリティとしてこれ以上のものはない。なにせ、誰も知らない、意味のわからない文字列なのだから。
メールアドレスは手中にあるが、メールを出す用事がない。おそらく仕事用のケータイにつながるのだし、使い道といえば声も出せない大風邪をひいたときのSOSくらいか。
電話番号にしても、私から連絡をとることはないのだし、このケータイ電話は通信の面でいじくられているらしいし、宝の持ち腐れ感が否めない。単なる番号通知用に違いない。
しかし、業務的な意味であっても、ちょっとかなり嬉しかった。
ソファで眠るうちにヴェデッドさんが夕食を揃える。
「あら、おかえりなさいませ、旦那さま」
「ただいま」
遅れてスティーブンがドアを開け、私の横向きの寝顔を軽く覗き込む。
「ヴェデッド、彼女はいつもこうなのかい?」
「そうですわね……、たまにひどくお疲れになるのか、よくお眠りになっていらっしゃいますよ」
そう、お引越し初日あたりから不定期に不眠の気をかじっているので、不自然な時間帯に眠くなるのだ。スティーブンに「早起きだな」と言われるときは大抵徹夜である。そうでもなければ自力じゃ起きない。
ふたりの会話を目覚ましに、「おかえりなさあい」とあくびを噛み殺す。
いつもは「うん」と言うだけの返事が、この日は「ただいま」に変わった。
珍しいというか、初めてだ。疲れが少なくて、私に会話の無駄打ちをする余裕があるのかもしれない。
毛布をたたみ、洗面所で顔を洗う。フェイスタオルを忘れ、仕方ないので手近にあるティッシュで拭こうとしたら、手を洗いに来たスティーブンに「それはどうかと思うよ」と洗い立てやわらかなタオルを渡された。ありがたく使う。
そのまま他愛のない会話をしながら配膳を手伝い、早上がりしたヴェデッドさんを見送って、テーブルにつく。
「ケーキって?」
ヴェデッドさんが帰り際に言ったことを問いかけられる。彼女は私にケーキのお礼と感想を言ってくれたのだ。材料を買いに行ってくれたのも手伝ってくれたのもヴェデッドさんだし、実質、買ってくれたのはスティーブンなので、無垢な感謝に胸が痛くて仕方がなかった。
「ごめんなさい、勝手に焼きました……。お金使いました……」
「へえ。上手くできた?」
「ヴェデッドさんがついててくれたから。おいしかったから食べてくれない?……くれません?」
「ああ、いいよ。それじゃあ後でもらおうか」
「うん。ホントにおいしくできたんだよ」
「ヴェデッドのレシピなら安心だ」
なんか微妙に引っかかる。
ワインをついでくれたので、奪い取ってつぎ返す。いい人なので、律儀に簡単なお礼を言ってくれた。
「それと、お金のことは気にしなくていいよ。君に使うぶんは元々、別で渡してある。前も言ったけど、それくらいじゃ痛まない」
そう言われても罪悪感はある。私、何もしてないから彼の出費に対するリターンがない。
彼はテレビに目をやった。お金に関する特集が組まれ、各家計のやりくり方法が紹介されていた。
「どうしても気になるなら、『自由に使っていい金』として少し小遣いに回そう」
「ご、ごめんなさい……」
私が暇つぶしに走らなければいいだけなのに、こんなワガママを言ってしまって申し訳なくて仕方ない。肩身がより狭い。せめていつか返せればと思い、日記ノートに金額をメモすることを決める。
「君はひとりでいるほうが好きかい?」
今までの流れを無視する質問に面食らう。
「人がいたほうが好き」
「そう。じゃあ、良い知らせと悪い知らせがあるけど、どっちから聞く?」
どう関係するんだ。私はおいしいものを先に食べるので、良い知らせを選んだ。
ケーキにワインは合わないが、飲み切れなかったので我慢する。
スティーブンはひと口食べて感想を述べ、ついで、良いことを知らせた。
「明日1日、休みが取れたから君と出かけられる」
「ホントですか!」
「うん。騙してどうするんだい」
「絶望……させる?」
「うーん、悪趣味だ」
うまく感動を薄められ、全身で喜びを表すタイミングを見失った。
だけどすごく嬉しい。
外に出られることも、隣にイケメン、いや、彼がいることも。
「デートじゃない!?どうなんですかスティーブンさん!」
「君、本当に僕の反応が欲しいのかい?」
「うっ、い、いえ、いいです……。調子こいてキモくてすいませんでした……」
リアルに否定されたら傷つく。
「悪い知らせは?」
「休みが終わったら、また帰れない日が続くかもしれない。忙しくなりそうでね」
こちらはかなり落ち込んだ。秘密組織は忙しい。スティーブンは重要なポジションのようなので、余計にそうなのだろう。それにしてもヘルサレムズ・ロットに労基はあるのだろうか。なさそうだ。
「あと、休みでも召集があったら出るから憶えておいてくれ」
「そりゃそうか。わかった」
彼の安息日が侵されないことを祈る。
「せっかくの休みなのに私に付き合っていいの?いい?後悔しない?」
「君が後悔させないでくれたらいいだけだ」
とんでもない重圧がのしかかってきた。楽しみなはずなのに明日が怖い。
とはいえペラペラの理性は嘘をつけず決壊し、機嫌よくお皿を空にする。残ったワインが鬼門だが、ワクワクしたせいで眠れなかった、などということがないよう、寝酒として飲み干すべきだ。
私は甘いカクテルが好きなんだよなあと思いつつグラスを傾けると、ボウルの底から向かいの彼が透けて見えた。頬杖をつき、非常な色気が放たれている。私が彼を見たと知ると、微笑むサービスまでついた。ガラス越しの歪んだ形でも読み取れたのだから、裸眼で視認したら椅子から転げ落ちてうわごとのように褒め言葉を口にしてしまうのではないか?好みどストライクというのは時に何より恐ろしい。
「……えっと……、私の後ろに何かいる?」
「僕には見えないけど」
「ああそう……。私、酔って狂ったかもしれない。久しぶりにあなたの手のひらで転がされて死にそう」
「死なれると困るなあ」
「じゃあその『これから夜の街に繰り出して手っ取り早く女を引っかけます』みたいな感じやめて!引っかかるから!私が引っかかるから!」
「引っかかるのか。本当に懲りないな君」
「ほっといてよぉ!」
余波に当てられてドキドキする。罪だ。だいたい懲りるわけがない。懲りない、学ばない、諦めないのが私という女だ。
ときめきを吹き飛ばして椅子を丁寧に蹴る。
「洗い物します!」
「ああ、洗い物は僕がするから先にシャワーを浴びておいで」
「うわっ!うわー!!あざと、あざとい!あっざとー!!」
「ははは」
軽やかに笑って、本当に私の手から食器を取って行ってしまう。なんだなんだ、なんなんだ?数日前に病み上がりの私をつかまえて人の恋心を多方面から攻撃してきた男とは思えない。彼の中で何が起きたんだ?
取り残されたワイングラスを持って彼を追う。
エプロンをつけているところだった。通路のあたりから凝視したがすぐにバレた。
「ダメだ、ドキドキし過ぎた。心臓に悪いから私を見ないで」
「今は見てない」
「ありがとう。シャワーお先にいただきます」
「ごゆっくり」
儀礼的に見送られ、私は彼に背を向ける。こっそり振り返ったが、ささやかな期待に反し、彼は要求通り私から目を離していた。乙女心は複雑怪奇。
寝酒が効いたか、ぐっすり眠れた。ケータイのアラームは朝7時で、今日はスティーブンがお休みだということでヴェデッドさんにもお休みができた。
安眠しても寝起きは眠い。目をこすりこすり洗面所に突っ込むと、先客がひげをそっていた。
「おはよう」
「おはよー。早いね。もう少し寝てるかと思った」
「習慣が抜けなくてね」
「ははあ」
ぐうたら人間に聞かせてやりたい。私のことだ。
顔を洗って歯を磨く。人前で歯磨きなんて修学旅行以来だな……としみじみする。できるだけ注目されないようにこそこそと磨いた。興味もないとは思うけど、できれば見られたくない。
私もうら若い女の子だ。まだ全然、余裕で自称できる。
朝ごはんのトーストを焼く平和な7時半。テレビの中では昨夜に酔いつぶれた異界人と人類が折り重なって道を占領し警察に補導されていた。平和だ。
「何探してるの?」
「バターナイフ」
「知らないや。ごめんなさい」
「ナイフでいいか」
リンゴとかをむくナイフか!?と身構えたが違った。物騒だ。
彼がしゃがみ込んで暗所に顔を突っ込みかけたので、あることを思い出しあたふたしながら止める。
「こ、今度探すよ!ヴェデッドさんなら知ってるかもしれないし!」
「そうだな、ヴェデッドのほうがキッチンに詳しそうだ」
冗談なのかわかりづらい。が、とりあえず危機は脱した。ドライフルーツのラム酒漬けなんて、見つかっても問題ないはずだけど、料理も得意らしい彼には深読みされてしまうかもしれない。別に来年も、ずけずけと居座るつもりでいるのではないのだ。危ない危ない。
それから、時間に余裕があるのでトーストと目玉焼きをだらだらと食べる。
「ねー、ナチュラルメイクとガッツリメイクのどっちがいい?」
普段と変わらず朝のコーヒーで空っぽの胃袋を痛めつける作戦に出るイケメンに声をかける。
イケメンは悩むふりをしてくれた。朝でもサービスの質は落ちない。
「君がするならどっちでもいいよ」
「あざとい!朝からありがとうございます!」
最高のナチュラルメイクをキメよう。
食べ終わり、片付けをして出かける準備に入るかと化粧ポーチを開く。パパのところで使っていたものなので何もかもが良質だ。ありがとうパパ。顔面がなければ最高のひざまくら係はその顔面をナチュラルに隠蔽します。
パタパタとチークをはたいて武装完了。数々の合コンを総ナメにした私の技術に顔面程度が敵うはずがないのである。
原宿ではウケない。だが大学では反応がいい。はたしてあのイケメンには。
まあ、どうせ想像を裏切らない経験豊富ぶりなのだろう。諦めない。諦めないが心が折れそう。どうしてよぉ!と別れを悲しんでトラジコメディを演じたときに一度折られた自信がもう半分になりそうだ。
ああそれと、服の数が少なすぎるので服を見たいんだ。切実に。せびることになるんだろうなと思うと胃が痛む。パパとは話が違うのだ、パパとは。本当にあのお金はどこに行ってしまったんだろう。実はまだカバンにあったお財布も返ってきていないのだ。あそこには多少、入っていたのだが。……というかカバンが本当にない!!
ドアを開けて様子を見たらまだ時間がありそうだった。カバンについては出てきたら訊こう。それまでドアを半開きにし、耳をそばだてながら鏡の前で髪をいじる。逃走するとき、ポーチの中に細々としたものを突っ込んできたのが幸いした。久しぶりに外行きに装ったので気分が上がる。
飾り終わったし、お水でも飲もう。
テーブルに置きっぱなしのお水で喉を潤す。
「あ、スティーブンさあん」
「ああ」
部屋から出てきて即呼び止められたのに、動揺など知らないようだ。スマホ片手の彼と目が合う。
ジェスチャーで四角をつくった。
「私のカバン、持ってない?最初に持ってたやつ。憶えてる?私、カバンはあれしかないの」
「……あー、悪い。預かったままだった。……手元にないんだ」
「知ってた」
あるよ、と言って出されるほうが困惑する。
「うーん……。じゃあ、何にもないなら今度返してね」
「なるべく急ぐよ」
「ううん、そこまでじゃなくていいよ。これからまた外に出ない生活になるんでしょ?」
「まあ」
それに、彼はしばらく帰って来ないと言った。デザインを忘れたあたりで手元に戻りそうだ。
「あと、愕然としたんだけど、ハンカチとかもないんですよ」
「ああ、それじゃあどうせだし揃えるか。他には何が必要?」
「一式!?い、いや、それは……」
スケールが違う。表情ひとつ変えずに言える台詞なのか。なぜか私が冷や汗をかく。
「君、『パパに頼めば何でも買ってくれるからラッキー』って言ってたよな?」
「もっと可愛いシーンを憶えてて!!」
よりにもよって私の記憶にもないえぐい発言を。そんなことを言っていたのか。どこまでも調子づいたひざまくら係だ。もっと謙虚な姿勢を見せれば初期の好感度がもう少し高くなっていたかもしれないのに、何をしてるんだろう。
「パパにせびるのとはワケが違うじゃん!……買ってもらうしかないけど!」
「だろ?気にしてるのは君だけだよ」
私とあなたしかいないけどね。
抵抗感たっぷりに顔をしかめる。
「外、出なくていいのかい」
玄関扉が良く見えるよう、身体を反らす。
ここでうだうだ言っていても時間がなくなるだけだ。千載一遇のチャンスを逃す。せび、いや、おねだり、いや、財布に、……いやいや。並んで仲良く(……一方的に!)ウインドウショッピング。外に出られる。身体を伸ばして歩き回れる。
「……行きます!行こう!」
「死なないように」
「お互いにね!」
何日ぶりか。靴に足を差し入れ、スティーブンの開けた扉から外に出た。
並んで歩いてあわよくばハプニング的な密着を、と邪心を募らせていた私だったが、前触れなく車道側から肩を抱き寄せられたときは心臓が凍りつくかと思った。
明らかに身体を強張らせたのは、『あれ?殺される?』と思ったからではもちろんない。心の準備ができていなかった。
ギクシャクする私と、ガラの悪い男が3人すれ違う。私の心臓をうるさくさせている男は私から手を離し、簡潔に説明した。
「ぶつかると絡まれるよ」
「だ、だよねー!わかってた!ありがとう!」
ヘルサレムズ・ロットは平等に不平等な街だ。危険は吹き荒れ、自力で避けなければ厄介ごとにまっしぐら。自力で避けられない私は、おそらく非常に強いこの社会人に頼らなければならないワケだ。どこまでもお荷物である。スティーブンが私のことを頭の中で『ミス・足手まとい』と呼んでいたとしても何も反論できない。
雑多な街並みは、たまにビル風に似た捲き上げるような強い風が吹く。落ちたチラシが旋風を描いたり、異界人が盛大なくしゃみをして飛び出した粘液で自分の靴を溶かしたりする。いちいち目を引かれるので、そのうち面倒になったのか、「はぐれそうだから掴まってくれ」と言われてしまった。合法的に腕を組める。
街を歩きたいと言った私をうまく誘導し、飽きさせないように頭の中でルートを組んだらしいプロフェッショナルにはいったいいつ休日が訪れるのだろう。欠片たりとも癒されない有給休暇で(……有給なのかは知らないが)申し訳ない。
気もそぞろに恩返しの方法を考えつつ、立ち止まり、指差す先のものが何かを教わりながら足は公園に向く。食べたそうにして見えたのか(……実際に食べたかった!)異界人が営むクレープ屋さんでクレープまで買ってくれた。ベンチに座るときにハンカチを出されかけたので慌てて止めた。「そうかい?」と彼はあっさりやめて腰を下ろし、慣れた動きで脚を組んだ。
クレープをかじる。生クリームとイチゴはテッパンだ。これは本物のイチゴですか、とはよう訊けなかった。
異世界に来てからこの方どころか、元の世界でもかなり食べていなかったクレープの味は衝撃だった。こんなにおいしかったっけ。
「か、完璧!!」
周囲を見回したスティーブンが首を傾げた。何もかもがあざとく見える。いくつなんだ、この男は。自分の魅力を知り尽くしてはいないか。
「これは完璧な流れ。こういうの……、こういうのが……!たまんない……」
自覚以上にフラストレーションが溜まっていたようだった。
空、広い。空気、埃っぽい。風、気持ちいい。
ウルっときた。私は頭だけでなく、涙腺もユルユルだった。
ヤバいヤバいと顔を背ける。無理を通させた本人が勝手に泣き始めるのは、恋人ででもなければ相手にするのも億劫だ。私は友達であっても相手がいきなり泣き始めたら引く。
クレープを食べることで心をなだめる。
「食べる?」
「いや、いいよ」
「おいしいよ」
「知ってる」
「知ってるの!?」
スティーブンと可愛らしいクレープの組み合わせは、面妖だ。
「……デートで来たの?」
「同僚と食べたんだ。よく昼飯を食いっぱぐれるやつでね。食いっぱぐれるというか、搾取されてるのに近いんだが。この公園でぐったりしてるのを見つけたから適当に食べさせた」
「へー」
「彼も『漫画』に出ていた人物だろうけど。君、クラウスのことは知ってるんだったか」
病室で見た、迫力ある姿を思い出す。印象深い姿だっただけで、詳しく知っているわけではない。
彼が望む答えは出せないが、見たことがあるかという意味では是であるので肯定した。
「その少年は彼と同じくらい重要な役割を担っているんだ。ひもじいままで放ってはおけなくてね」
「男の子?」
「ああ」
漫画に出てくる、秘密組織の中の男の子。特徴は憶えてなくても、ああ、と糸がつながった。その少年は漫画の主人公だった人だ。
でも別に、それを思い出しても何も起こらない。スティーブンに教えたって何の役にも立たないはずだ。
へえー、と受け流した。
「年下かあ。そういえば付き合ったことないや。ある?」
「あるよ」
それもそうか。視点が逆なのだ。
「ところでハタチの女の子はどう?」
「懲りないなあ、ホントに。仕事に必要なら、相手の年齢は関係ないよ」
「個人的なストライクゾーンとしては!ハタチは!」
ベンチの上で詰め寄る私に、秋風よりもさらりとした回答。
「同じ年齢でも、人による」
「だよねー!」
真理だ。まさにそれである。私だってそう答える。年齢ではないのだ。人物が大切なのだ。
犯罪はよろしくないが、と公園を走る子供を目で追った。
ふいに頭が働き、気が回った。
「ねえ、こんなところを女の人に見つかったらヤバいのでは?」
「ヘルサレムズ・ロットでは突然遠縁の親戚が現れてもあまり深く追及されない」
彼なら理由をつけてうまい具合に有耶無耶にできそうだ。それとも清濁合わせて飲み干して、バレバレな嘘も駆け引きのひとつと楽しめる、理解済みで付き合っている人が多いのか。爛れた大人には今一歩近づけない。どこまでも猿真似だ。
「プライベートの本命とかさ!いるじゃん、そういうの。あなたが距離を詰めてる最中だったりしたらさ、余計な波風が立ったら不利じゃない?遠縁の親戚って言われてもなかなか納得しないかも」
やはり自宅でのんびりさせるべきだったのだろうか。彼にこれ以上の悪影響が及ぶとなんか、人間関係がこじれそうで怖い。もうすでにこじれているのにね!
異界人と人間のカップルが寄り添い合って風をやり過ごす。彼女のほうのスカートがめくれた。
素早く隣の男を窺うと目が合った。びくっとする。
「な、なに?ドキドキするよ?」
「へえ」
「熱烈に見つめられると照れる……。惚れちゃうからやだ」
片手で壁をつくった。
「君、もう俺に惚れてるんじゃなかったっけ?」
「『僕』!」
「はいはい」
不意打ちはやめてと胸の中で懇願した。
最高だ。実に最高なのだ。しかし今はまだお昼前もお昼前、かろうじて10時を刻むか刻まないかの狭間なのである。今からこんな調子なら、帰るころにはときめき過剰で寿命が8年は縮んでしまう。
「か、買い物に行こう。行きましょう。買ってください!」
「買い物ついでに昼飯を何にしたいかも考えといてくれ」
「スティーブンは何がいいとかある?」
「君のための外出だ。君が決めてくれ」
パーフェクトにイケメンなフレーズを噛み締めた。
「それと、見られて困るような本命はいないよ」
2歩、遅れて理解する。
つんのめって追いかけた。
「じゃあ、見られても困らない本命はいるの?」
「それってそこまで大事なことかい?」
「気になって眠れないよ!」
長身を見上げ続けて足元がおろそかになり、よろめいてぶつかった。
「道はあっち」
「あっごめんなさい」
あらぬ方向へ飛び出した身体を引き戻される。車道から大型トラックが歩道に吸い込まれる大事故が起こる可能性を考慮してか、マナーなのか、性格なのか、また彼は道路側を歩く。
答えを催促する寸前に大きな建物の名前を教えられ、肝心な部分ははぐらかされてしまった。
服を5着、肌着を5セット、ハンカチ、カバンをひとつ。シャンプーなどの生活必需品を買ってもらった。大漁だ。あからさまに高級なブランド店の影が見えたが「い、いやいや、私もっとこう、気軽に着たい!」と足を踏ん張って近くにあった別の店に引き込んだ。これが良質なお店で、デザインも可愛かったし値段も私の感覚に近かった。どちらにしようか悩むのも醍醐味だ。スティーブンは女性店員さんに話しかけられていたので、鏡の前で当てて考える。するとその女性店員さんがスティーブンを私の前に引っ張り出した。
「お悩みですよね?恋人さんに選んでいただくというのはどうですか?」
「ヒイッ」
おののいた。恋人扱いされるむず痒さと気まずさには耐性がつかない。違うんです。誤解です。「そうだなあ、僕は……」とか言ってくれてるけどその人は。デートだなんだと浮かれても他人に突っつかれるとびくつく肉袋と化す。
言われるがままワンピースを2着お願いした。私も『お小遣い』としていくらかいただいていたのだが、スマートな決済には1分もかからず、心得たりと微笑む店員さんが紙袋を差し出した先には男の手がある。快く受け取ったスティーブンは、並みの女では耐えきれないであろうスーパーな彼氏オーラを放った。私は耐えきれなかった。
這々の体で別の階に移る。歩きながら紙袋を奪おうと隙を探すも、そのうち『私が持つと彼のメンツに関わるのかも』と思い直した。うむ。私もサービスさせまくりなことに気が咎めるだけで荷物を持ちたいのではない。
書店を見つけて立ち止まる。
「スティーブン、……さん。ごめんなさいなんですけど、ちょっと待っててもらってもいいですか?」
スティーブンは瞬きした。目が動いたのは、たぶんトイレの場所を確認したのだ。だがそうではない。書店の斜め向かいのカラフルなお店が目的だ。
「えっと、まあ、手伝ってくれるならそれはそれで」
「すまない、何の話か読めない」
「だよね」
人の目を避け、ワンピースの上から指を当てた。スティーブンの目が私の顔から指先に移る。
「合わせるよ!趣味に!」
言いたいことが伝わったとわかる。なぜなら顔が白けたから。
「ああー、間に合ってるよ」
「だよね!間に合ってそう!」
切り売りできそうなほどテンションが高まってしまって、謝罪しかない。すすすと後ろに下がった。
「ごめんなさい。ホントすみません。嘘です。5分で買ってきます」
「急がなくていい。僕はここにいるから、終わったら適当に探してくれ」
「はい!」
ダッシュで動いた。
5分で、と宣言したがうまくはいかなかった。色と種類が豊富で店員さんの口も上手く、バストサイズなども測ってもらうと駆け足でもギリギリオーバーする。オススメされたもののなかからセール品を選んで、オシャレかつ一目でそれとはわからない袋に入れられた品物を提げて書店に急いだ。
「ソニック、急がなくてもちゃんとやるって、っとと、うわっ、と」
「あっ、ごめんなさい!」
角で小柄な青年と接触する。相手は寸前で気づいて足を止めてくれたのだが、私はたたらを踏んで壁に肩をぶつけた。ヤバいボコられる!と咄嗟に思ったのはヘルサレムズ・ロットをある意味で信用しているためだ。
「や、僕こそすいません!前、ちゃんと見てなくて。大丈夫ですか?怪我とか……」
ボコられるどころか、稀に見る『普通』な対応に拍子抜けする。
「大丈夫だよ、……ですよ!ありがとう」
年下の人を見ると、どんな話し方をすればいいのかわからなくなることがある。サークルや後輩になら馴れ馴れしい口をきいても許される空気があるが、こういう場合は習慣と理性が譲り合う。
少年の肩に小動物が飛び乗り、頬にすり寄った。
「すんません、こいつに気を取られてたんです」
「可愛いですね」
「ソニックって言うんです。あんまり人に慣れないんですけど」
「わかるー、動物ってすごい人見知りする子いるよね。……いますよね!」
「や、あの、そんな気ィ遣わなくて大丈夫ですよ。ていうか、おねーさん急いでたんじゃ?」
ホワホワした空気に包まれてうっかりした。会釈して横を抜ける。ニコニコ顔の少年が「わかったよ、ソニック。そこのベンチでやるからさあ」と壁際のベンチに腰掛けるのが見えた。
書店にはまばらに人がいた。目立つ棚にクロスワードパズルの雑誌があったので、値段を確認する。ファンタジー文学コーナーらしきところで目を皿にして知ったタイトルを探し、こちらも値段を見た。覚えておいて、そのうちヴェデッドさんにお返しをしなくては。
棚を移動する。荷物を持ったすらりとした長身をさがすのは大した仕事ではなかった。
本の立ち読みは、かなり彼に似合っていた。
「お待たせしました」
「結構早かったんだな。君のことだから、1時間くらいはかかるかと思ってた」
「新しい罵倒?」
私のことだから、というのはもしかして、パパとの駄々こね放題な散財ショッピングの話をしているのだろうか。痛い歴史を掌握されてやいないか?確かに私はぐだぐだとしてオチも会計もない冷やかし遊びや試着地獄の常連だったが、もはや見せる相手もいない下着に1時間もかける価値はない。
「本、買うの?」
「あんまり興味が湧かなかったからやめとくよ」
彼が読んでいた本の題名は、知らない英単語で構成されていた。棚のジャンルから推理すると、化学の話だ。傷跡のある側から横顔を見上げる。うむ。眼鏡をかけてカフェか公園かであんな本を開いていれば、理系の研究者に見えそうだ。彼が大学かどこかで講義をするとしたら、その授業には女生徒が殺到するだろう。すなわちイケメンと言いたい。
「あ、さっきは本当にごめんね」
「……ん?」
書店の前のベンチに少年が座り、小動物にナッツのようなものをあげていた。無言で素通りするのも気が引けて、最後にと声をかける。スティーブンが口を開いた。
「少年、こんなところで何してるんだ?」
「え……、うえっ!スティーブンさん!?」
「なんだいその反応。傷つくなあ」
飛び上がらんばかりに驚いた少年をつつく彼は、面白がっているようだった。
少年は激しく首を振って、スティーブンと私を交互に見た。
「あ、えーと、すんません、おねーさんはスティーブンさん……の、えっと……」
なんなんだろう、と私たちはふたりして曖昧な笑みを浮かべた。
仲人役は、どちらの存在も知るスティーブンが務める。
「彼はレオナルド。簡単に言うと僕の同僚だ」
「レオナルドくん」
「あ、レオでいいです」
瞬き5回。
頭を掻いたレオの、色彩豊かな口元がむずむずと動く。
スティーブンを見て、レオを見て、私は「ははあ」と気の抜けた相槌を打った。
彼が主人公だ。目にしてみると、普通の男の子にしか思えない。善良そうだ。
「あ、私は……」
「彼女は前に僕が話した女性だ。憶えてるかい?」
「え。……えっ」
レオが口を大きく開き、閉じ、赤くなり、青くなった。
「少年?」
「は、はいッ!憶えてます憶えてます!え、え、でもこのおねーさんが異世界の……、じゃあ……」
事情は察されているらしい。
百面相を披露したレオの肩で、小動物(……ソニックだっけか)が少年を慰めるように尻尾を動かした。
異世界人かつ、組織の副官的存在にくっついた女はこの世にふたつとない珍奇な存在だ。どんな話を聞いたのかは知らないが、悪感情はないようで安心した。
「あーっ、えっと、じゃあおふたりは、今日はデートですか?」
純粋で、フィルターのない質問だ。どうしてか彼とはすぐに打ち解けられる。年下だから話しやすいのか。レオ自身も温厚で無害そうだ。イケメンやイイ男とは違う癒しを発見した。
「ね、そう見える?デートっぽい?」
「ぽい、っていうか、……そうッスね」
「ビミョー!?」
「いやいやいや見えますって!ねえスティーブンさん!デートなんですよね?」
「僕はそのつもりだよ」
「ほら!大丈夫ッスよ!」
必死にフォローされた。嬉しいのだが、少年の手が宙を高速で撫でる動きが焦りまくりで、デートには見えてないんだろうなと思った。なんでだろう。私が押し切れてないからか?しかし逆に、デートに見えたとしても引いてしまう。だって彼的には、見えてはいけないのでは……。
ここは客観的に、正直な意見を頂戴しよう。
「ねえねえレオ、ちょっと来て」
「えっ?あ、はい?」
よく動く手を握ってその場を離れる。角のそばまできて、耳元に顔を寄せる。
「素直に。素直に言ってほしーんだけど」
「はい」
レオは訝りもせず、聞く態勢に入った。彼が誘拐などをされやしないか、不安になる。
「長く付き合ってるレオからして、今のスティーブンってどう?完全にリップサービスじゃない?」
「は、あ?」
「接待みたいな」
「ええ?」
「業務の一環……みたいな……」
「え、えっと」
レオが私の顔を見る。「ホントに言ってます?」と言われたので「え?ホントは見るからにラブラブなの私たち?」と返すと「えっ、いやあ……」と気まずそうにされた。そうではないらしい。
「僕も長くお付き合いさせてもらってるわけじゃないですけど。でもあの人は、仕事の関係でもないのに、サービス?っていうんですか?……そういうのするほど暇な人じゃないと思います」
「異世界人でも?」
「もしかしたら、仕事として割り切ってやるのかもしれないですよ。……しれないですけど!だけど、そのくらいならあの人は、休みをとってまであなたを街に誘ったりなんかしませんよ!」
仕事第一の人だそうですから、と小声でくくられる。
レオナルドくんは私の外皮から5cm離れた空間を忙しく撫でてくれた。
「なんでそんな不安そうな顔してるんですか!僕の言葉は信じられないかもしれませんけど、スティーブンさんのことは信じてあげましょうよ」
「うん……。なんかなんか、優しいイケメンに負担をかけてるんじゃないかなって思ってしんどかった」
「あー、スティーブンさんってオトナですもんね。だけど本当に負担になって面倒に感じてたら、『デートのつもり』なんて言いますかね?僕は少しですけどおふたりの経緯を知っているのに、その僕の前でわざわざそんなふうに口にするキャラには見えなくないすか?はぐらかしそうじゃありません?」
第三者の意見は私の目からボロボロと鱗を落とさせた。今までこんなことを相談できる人がいなかったので、皮がむけていくような心地だ。
私はいたく感激した。スティーブンと運命の出会い(……一方的!)を果たした日。ヴェデッドさんの手料理を初めて食べた夜。外に出られた今朝。そのどれもに匹敵する、大きな感情だ。
不安というのは心に凝り、思考を妨げる石となって頭に重く積み上がる。すっからかんの脳みそが石でいっぱいになってしまっていては、どんなに根っから気楽でも、道に迷って動けない。
レオは私の重石をごろんと崖下へ転がり落としてくれた。目の前が明るくなる。
そうだ、なにやらよくわからない精神の苛立ちによって私の想いがズタボロに攻撃された日、私は論理的思考の糸を切って言ったではないか。私が好意を抱くのは私の自由だ。ぶつけられたそれをどうするかは相手の自由。そして思い出そう。スリリングな逢瀬の時間を綺麗さっぱり後腐れなく処分しようとしたあのイケメンの冷静さを。
どう考えても、邪魔になったら、そうと気づかせないうちに関係を切りそうだ。
「……切られてない!?」
「切られてると思います!?」
「思わない!!つまり私にも望みが!?」
「そーですよ!……あるのかはわかりませんけど!」
女の泣き言に付き合うレオはやけっぱちに私の背中を押した。ここまで親身になってくれるなんて、この少年はとんでもない逸材の香りがする。
「ありがとう!ハグしていい!?外国ではハグするんだよね」
「もうあんまり馴染みのない風習ですよ、それ。でもありがとうございます。悩まないのが一番ですよ!」
抱きしめると、少年の身体がか細くて引いた。ウエストなんか、私くらい細いのでは。成長期の男の子はこんなものなのか?
ああ、そういえばよくご飯を食べ損ねているのだったっけ。もう少し肉付きがよくなるといいね、と私の贅肉を分けるように念じながら背中と腰をさすった。「わひゃ!」と飛び退かれ、まさか今のはセクハラに含まれるのか、と愕然とする。
「へ、変質者じゃないよ!」
「知ってます!もー、スティーブンさん待ってますよ!」
回り込んで、物理的に背中を押された。
わたわたとスティーブンのほうへ戻り、「お待たせ」と短く詫びた。
私の後ろで、レオが顔を横に向け、口の中でこう呟く。
「ていうかホントに付き合ってなかったんだこの人たち……」
もちろん、私には何も聞こえなかった。
初対面より疲れた顔のレオとは、建物の前で別れた。彼はスクーターに乗り込み、ゴーグルをして手を振った。バイトに戻るらしい。ここで何をしていたのかというと、ひょいひょいと身軽に出かけてしまうソニックの捜索だったそうだ。
排煙が砂埃を浮かせる。
「服とか、買ってくれてありがとう」
「いいよ。それも僕が持とうか?」
「これは下着だから自分で持つよ」
「そう。昼に食べたいものは決まった?」
すっかり忘れていた。時間は14時ちょっと前。遅めのランチは何にしようか。
胃袋に問おう。
「……あ!久しぶりにあそこ行きたい。近くだよね?」
カフェの名前を挙げる。
スティーブンの自宅からそれなりに歩いたり電車に揺られたりして辿り着いたここは、私が逃亡拠点としていたホテルのすぐ近くだ。カフェはホテルから少し歩けば見つかるので、ここから遠くもない。
否やなど降るはずもなく、スティーブンは方角を確認すると、「こっちだ」と私の背に手を当ててすたすた歩き始めた。追いかけて、わかる。身長の差か人種の差か性別の差か、私たちのコンパスは異なる。歩幅が合わない。今まで違和を感じなかったのは、私のふらふらした歩みに彼が付き合ってくれたからだろう。
横断歩道を渡る。小石を踏んだ振動で、足がツキリと痛んだ。運動不足がたたり始めたか。
停止の色に変わりかけた信号を突破すると、スティーブンの歩みは目に見えてゆっくりになった。
「ここの信号は長いんだ」
「慣れてるね」
「よく通るからだよ」
時間外れのカフェでは友人同士の集まりや仕事をする人に紛れてカップルが席をとる。私たちも傍目からはそう見えるのかもしれない。それとも遠縁の親戚か。
メニューを開き、私はパンケーキとカフェラテを。彼はクラブハウスサンドとコーヒーを頼んだ。
お冷で喉を潤す。
「サンドイッチめちゃくちゃ好きなの?」
「好きというか、手軽だろ?」
「確かに」
片手で食べられるし、エネルギーも充分にとれる。私もコンビニではおにぎりよりもサンドイッチ派だった。
会話もせず、窓の外を眺める。
通り道で暴動が起こることも、大事故が発生することも、上空から落下物があることもなかった。異世界人は今のところほぼ十割死んでいるそうだが、私はかなり運がいい。それとも、守られているから大丈夫なのか。
足を動かすと、かゆみが走った。テーブルの下を覗き込む。踵を浮かせると、アキレス腱の皮膚がかすかに赤く、熱を持っていた。
……まあ、大丈夫だろう。朝からここまで平気だったのだ。早めの帰宅まであと数時間。もうあまり歩く用事もない。
テーブルを飾ったランチのプレートに歓声をあげると、足のことなどすぐに忘れた。
膨れたお腹をこなそうと、1時間ほどのんびりした私たちは再び街へ繰り出す。
用事はすべて済んでおり、大して行きたい場所もなかったので電車に乗って、来た道を引き返した。反対方面の駅へ行き、多様な文化がごちゃまぜになったヘルサレムズ・ロット特有のカオスな番地を目指す。
席に座り、地下鉄の代わり映えしないコンクリの壁をただ視線で舐める。彼のポケットでケータイが短く震えたのに、マナーなのか私を気遣って見ようとしないので、「私も遊んでるから、気にしないで見ていいんだよ。急ぎかもしれないし!」と強く勧めた。
自分のスマホの画面を見るうちにまぶたが重くなる。やはり体力の低下が著しい。オールからの2徹でカラオケに行って海まで出かけられたスタミナは、自堕落な生活で溶けて消えた。
電源が自然と切れる。力が抜け、俯いて目を閉じた。
「つくよ」と揺り起こされてパッと目を開ける。私は隣のイケメンにもたれかかっていた。
なぜ本気で眠ってしまったのだ。もたれた時点で目を覚まし、あとは寝たふりを貫けば、胸がドキンと高鳴っただろうに。
頭を戻す。
「も、もう一駅このまま、ってどう?」
「僕は構わないけど」
「え!いいの?」
「君の観光の時間が減るよ」
どちらも楽しそうで天秤にかけづらい。スマホで時計を出す。
邪念が勝った。
「……もう一駅だけ……」
目を閉じるが、睡魔はシャットアウトする。『恋する乙女』の免罪符だけではドン引きを防げない領域にまで来てしまった。
しかし、とレオの顔を思い浮かべる。
断られないなら、まあ、いいか。ノーテンキに生きよう。
一応、否定が前提で気休めに訊いた。
「キモい?」
期待に応え、否定された。
「別に。こういうのはよくあるよ」
「よくあるの!?」
電車に限った話ではなさそうだ。並んで座りさえすればどこでだって簡単にできる。電車でだって車でだって、公園のベンチでだって映画館でだって、ソファでだってベッドでだって。座ってなくてもやろうと思えば。自分の想像でダメージを受けた。
「誰にでもオッケーしてるの?」
「必要そうならね」
「肩が脱臼したら大変だ」
「君、寝ぼけてるだろ?」
何も考えずに口走っていた。
寝ぼけていたことにした。
紆余曲折あり降り立った駅を出る。改札口で何度もチケットが弾かれ不正を疑われる一幕もあったが、無事に異国情緒溢れまくる通りに突入できた。
左右にぎっしり建ち並ぶのは、異界も人界も国境も、それだけに留まらず合法も脱法も関係なく、とにかく楽しく飲んで食べて摘発されよう!とアウトローな意識のもと組み上げられた飲食店だ。買い食いもできる。中華街の雰囲気に似てるなあと感じたのは、甘栗ならぬ異界の木の実を売りつけられそうになったときだ。横から切り裂くように腕を突き出されて「ヒイッ」と喉が引きつった。飛び上がった私を見て、スティーブンは軽やかに笑っていた。なんだこいつ。
とにかく通りは混沌としていた。
「ゴーホーですよゴーホー!おいしいから食べてごらんなさいよ!」
「お嬢さんお嬢さん、こっちは焼き立てだよ!何が焼かれてるのかは食べてからのお楽しみ!」
「あんちゃん、異界のテッペンまでトべちゃう体験とか興味ない?キモチイイぞおー」
「おふたりさんならドリンク割引きしてもいいよー安いよー」
「酔いつぶれたらウチに来な!素泊まり1泊10ポッキリ!イロイロ楽しく遊べるぜ。イロイロな!」
ひとりで来たら二度と出られなさそうな商店街だ。
「ここ、誰と来たの?」
彼が自主的に踏み込む空間だとは思えない。好奇心をむき出しにする。
「誰と、……と言われると、君かなあ」
「は?」
「ここに来たのは今日が初めてだよ。前から噂を聞いて気になってたんだ」
だからあなたも物珍しそうにしているわけか。なるほど、納得だ。
っていうか、ええ?
「……ぶっつけ!?」
「こんな機会でもないと暇がないしね。だが、クラウスに土産を買うにはちょっと下品かな」
下調べの鬼かとばかり思い込んでいたので、相当に意外だった。
けれど驚愕と呆れは、物の魅力に惹かれても、決して私から離れない姿を見てかき消える。
うむ、意外性などどうでもいい。どうでもよくはないが、取り立てて騒ぐことではない。
妨げにならないよう、死なないよう、周囲に気を配った。
えぐい食品をいっぱい見つけた。
屋根に陽が遮られ、賑々しい空間にもみくちゃにされたことで時間の感覚が狂っていたが、時計を見ると、観光の終わりが近いとわかる。
頭をつつくと目玉が落ちるからくり人形にゾッとし終わり、しゃがんでいた膝を伸ばす。
「そろそろ戻ろうか。夜に食べたいものはあるかい?何でもいいよ」
「んー……」
唸り、抜け出した雑然とまとまりのないストリートを振り返る。
何気なく廻らせた目が、ひとつの看板を捉えた。
「あ、ああーっ!」
仰天して目が丸くなった。よろよろと屋台に近寄る。
「う、う、嘘でしょ……、同名なだけだよね……」
行列必至、開店前の早朝から並んでも食べられるときと食べられないときがある、店主の気まぐれによる限定メニュー。食べログを見て行ってみたが、あまりの人気ぶりによる、1日経っても解消されないのではと思うほどド迷惑な長蛇の列に怖気付いて諦めた。
「ちょっとごめんなさい!」
屋台に駆け寄り、店主に詰め寄った。
「日本からですか!?」
「オウ、そうだよ。創業ン十年。数年前に暖簾分けさせてもらって、味を広めるためにここまで来た」
「あそこにあるお店ですよね、あの、住宅街の坂の近くの……なんていうんだっけ……」
「わかるぜ。その店だ」
いやが上にも欲求が高まる。
「あ、あの、店主の気まぐれの限定メニューってありますか?」
「あるよ」
「日本産ですよね!?」
「材料も裏ルートでアッチから仕入れてるから、水以外は本家と変わらねえよ」
「おいくら!?」
「限定1杯で……」
答えは出た。
走って引き返し、スティーブンに手を合わせた。
「お願い!どうしてもあのラーメンが食べたい!!」
「ああ、うん。いいよ。君はラーメンが好きだったっけ?」
普通、と答える。
「でもあのお店、私がいた日本にもあったの。人気過ぎて、絶対に入れなかった。……あっ、違法なお店なのかな!?」
「無法地帯なのはストリートだけだよ。ここ一帯の経済に影響が濃くて手が出せないだけで、あそこを出ればただの街だ。住み分けされてる」
「じゃあ大丈夫?」
「……って聞いたけど。ダメだったら教えるよ」
「それは……大丈夫なのかな……」
不安は空の彼方へ放り捨てられた。
「う、うわああおいし、おいしっ!これ絶対にヤバいやつでしょ!?スティーブンさん!?」
「知ってる薬は入ってなさそうだから、ただ美味いだけなんじゃないか?」
こんなにおいしいラーメンは初めてかもしれない。スープだけでこんなに身体が喜ぶのだ。麺と具が絡んだらどうなってしまうのだろう。
「……あっ、今更だけどスティーブンって麺をすすれるの?苦行だった?」
「別に、何も思わないよ。職場の近くにもラーメン屋はある。そこも結構人気だ。レオナルドと食べたが、ここより異界寄りの味がしたなあ」
確かめずに引きずり込んでしまったのでヒヤリとした。抵抗がないと聞いて胸を撫で下ろす。これで不愉快な思いをさせたら目も当てられない。……というかスティーブンはレオと一緒に食事を取りまくってはいないか。秘密組織に新人を馴染ませるための心配りかな。レオは痩せているから、健康的な体型になるまで是非とも餌付けを続けてもらいたい。すごく優しい男の子だったので、私はすっかり彼が好きになっていた。そしてチャーシューがおいしい。とろとろだ。
「ライス、あるぜ。小ライス」
残ったスープで雑炊もどきにして食べろ、と店主の姿の悪魔が囁く。お行儀が悪い、魔の誘いだ。食べてみたい。とても食べてみたい。
だが、胃袋には限界がある。
今の時間は17時半。遅いランチを消化しきれなかったお腹では、小ライスですら食べ切れそうにない。
「じゃあ僕はもらおうかな」
「えっ、入るの!」
「入るよ」
均整の取れた身体をまじまじと見る。主に腹部を。私もそれほど目立たないが、彼は『本当に食べた?』と訊きたくなる不動さだった。腹筋の存在が重要なのか?
泣く泣く箸を置く。お茶碗によそられた白米は総立ちだ。
気を取り直すため、口をさっぱりさせようとお冷をお代わりした。
無念を漂わせる私に、イケメンは天使のような提案をした。
「ひと口食べるかい?」
「スティーブンさん……!」
お茶碗からご飯を失敬し、レンゲでスープにひたして食べてみた。
「スティーブン、私、今ならパパにハグもできそう」
「少年にしたみたいに?」
「……もうちょっと格は下がるかな……」
どんなにラーメンが美味しくても同等は無理だ。
「……あっ!ねえ!もしかして女の子としての好感度的には、ラーメンじゃなくてオシャレなイタリアンとかのほうがよかった!?そっちのほうが好み!?冷めた!?」
「食べたいものを食べるのが一番」
見てて面白かったよ、という部分は幸か不幸か聞こえなかった。
真っ暗な家に入り、手探りで明かりのスイッチを押す。
帰りの電車でも睡魔に負けた私はもちろん、私のワガママにひとつひとつ付き合ってくれたスティーブンも、かなり疲れているだろう。
シャワーを浴び、さっぱりしてから買ってもらった服を開く。クローゼットに直すと、目に見えぬ生活感が増した。客間が私の部屋になってゆく。本来の目的を放棄させられた客間は、泊まりのお客さんが来たときにはどうするのだろう。一時的に私物を片付けて私がソファかな。
そのソファに身体を預け、踵を見る。お湯と石鹸が沁みたそこは皮がむけて赤くなり、別の部分には水ぶくれができていた。もうしばらく靴を履く予定はないことだし、じきに治るだろう。
水ぶくれを指でいじる。
「君、靴擦れしてただろ」
湯上がりのイケメンは色っぽい。毎回ドギマギしていてバカらしいので、早く彼の色気を封印するか、私が慣れるか、対策を打ちたい。ちなみに彼の色気を封印するのはヘルサレムズ・ロットの損失なので(……大げさか)、私が慣れる道しかない。
「してた」
「僕にも移ってたよ」
「うえっ、ごめんなさい!」
靴擦れレベルの小さな傷でもきっちり共有してしまうことをすっかり忘れていた。
「どんな具合だい?」
「すりむけたのと、水ぶくれ」
「ふうん。水ぶくれは移らなかったな」
覆いかぶさるように上から足を観察され、カフェインよりも眠気を妨害する緊張に強襲された。
「傷っぽくないからかな」
「そうかもしれない」
上を向いた私と、見下ろす彼の目が合う。
「この流れはおやすみのキスだと思わない?」
「君が死ぬほどどうしても、って言うなら考えなくもないけど、基本的に僕はタダじゃないよ」
「知ってた」
逆に彼が慈善事業で唇を開放したりしたら私みたいなアホが毒とわかっている餌に食らいつくから、このままでいいや。
つっぱって大人ぶってたときを思い出しつつ、つんと顔を背けて目を瞑る。
「いいんですよ。そのうちね、いつかこう……、なんか突如開花した私のとんでもない魅力に気がついたらね、あなたのほうから私に死ぬほどどうしてもキスしたくなりますからね」
彼は背筋を伸ばして腕を組んだ。
「うーん……」
「そこを笑ってよ!?」
そういう真剣な逡巡は胸に刺さる。誠意ある対応をしようという親切さが人を苦しめるときもあるのである。
お水を飲む。拗ねたわけではない。直後に喉を詰まらせそうになった。
さっきドライヤーで乾かしたばかりの髪に手が触れる。さわさわと何度か動き、乱れたらしいところを指が直した。
なんだ急に、と突っ込みたいが動けない。いやしかし、本当に、なんだというのだ。頭がオーバーヒートしそうで、目が回る。
「久しぶりの外はどうだった?」
至って普通の質問だ。一緒に出かけたのだから、1日の締めくくりに感想を聞くのは自然なことだろう。心なしか声が柔らかく聞こえて(……とうとう幻聴か?)地に足がつかないが瑣末なことだ。
「楽しかったし、おいしかったよ。一緒にいてくれたから安心できたし、色んなところに行けたし。服も買ってくれてありがとう」
「それは大したことじゃない。楽しかったなら何よりだ」
ゆらゆら揺らされた。強くないし乱暴でもないというのがまたニクい。
ようやく上を向く。こちらの動きにしたがって、手の位置が変わった。
「あのー、なに?」
「最近気づいたんだが、君、バスルームに自分のボトルを置いてないよな?どうしてるんだ?」
華麗に疑問をスルーされた。
「ああー……。なんか家の邪魔になるかなと思って一回一回出し入れしてる」
「ならないから、置いていいよ」
「ありがとう」
「あと、判断に迷ったら訊いてくれれば答える」
「そうだよね」
訊けない空気を勝手に感じてしまっていたのだ。そのせいで要らない気を回させてしまった。
許可が下りたのはありがたい。慣れはしたが、面倒なものは面倒だったものだから。置いていいと言ってもらえるなら遠慮なくスペースを取らせていただこう。
「それで、なんで撫でてるんですかね」
彼は遠くを見るような目で自分の手を注視し答えを探したが、明確なそれは見つからなかったようだった。
「……実は僕にもよくわからないんだ。見ていたら、なんとなく」
「そういう自供聞いたことある」
かくいう私も痛いくらいに憶えがある。
うう、とすっぴんの下でうめいた。そろそろ限界だ、籠絡のプロフェッショナル。そんな呼び方をしていると知られたら笑われるか呆れられるだろう。
「あの、スティーブン。私はあなたが好きだから、好きな人にこういうことをされるとホントに照れるし、さらに好きになりそうになるんだよね。ホイホイ触られると勘違いするからあんまり」
ここで自分に正直になった。
「いや……、止めはしないで欲しい!やっては欲しい!でもバランスが!」
「要求が多いなあ」
「ハタチの乙女は難しい生き物なの。あ、あ、もうちょい強めでも大丈夫……くすぐったい……」
「ん?これくらい?」
「そー。絶妙ー」
停滞していた眠気が蘇り、目が細くなる。ベッドに行かなければ風邪をひく。また寝込むなど、冗談ではない。
手から離れて立ち上がる。時間も遅いし、疲労も溜まっている。スティーブンは明日も仕事だ。月のうち、休みは何日あるのだろうな。
「寝なきゃ」
「そうだなあ。……君、今日は寝られそう?」
「え?」
スティーブンが戸締りを確認する。
「たまに眠れてないだろ、君」
「ええ!?知ってたの!?なんで?それも移ってる?」
「いや、それは何も。でも僕より早起きで顔色が悪くて、帰ってきたらソファで寝てる。寝てるのはだいたいいつもそうだけど」
あっけなく露呈していた。
消すよ、のあとに明かりが落ちる。暗い家の形は覚えた。ところどころの明かりをつけては消し、部屋のドアを開ける。
「寝られる?」
「たぶん。楽しかったから、いい夢見るよ。あなたが出てきそう」
「そうかい」
言おうかと思ったが、あなたも私の夢を見るかもよ、と口に出すのはやめた。見させてどうする。
手を振る。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
ものすごく密度の高い1日だった。
きっとこれほど長い日は、もうしばらくは来ないはずだ。
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