09
起きたら、知らない顔が間近にあった。
起き抜けでうまい反応ができない。思考停止した私をどう思ったか、その美女は目元を潤ませた。
「こんな……可愛い子が……、いたいけなハタチの女の子が……、腹黒男に……」
むせび泣き始めた。
涙をこらえて顔を背けた彼女が退くと、白い天井が見える。ここは病院のようだった。
とても苦しい夢を見た気がする。しんどくて痛くて、でも最終的には楽しかった。スティーブンが来てくれたから。
スティーブンが。
「スティーブンどうなった!?怪我してなかった!?……ていうか誰ですか!」
「あいつの怪我なんてほっとけばいいのよ!ちゃん、もう大丈夫。私はK・K。あの男の同僚で、あなたの味方よ」
本当に久しぶりに名前を呼ばれた気がする。
びっくりしたので正直にそう言うと、K・Kさんは剣呑にベッドの柵を握り締めた。歪みそうで引いた。
「あいつ……あいつ……、ちゃんのことを何て呼んでたの!?」
「『君』」
「とんでもないやつだわ!」
拳をつくるK・Kさんは、思い出したようにサイドテーブルの下にある冷蔵庫からお水を出した。
「ベッド、上げるわね」
なんと、動くベッドだった。
上半身だけ持ち上げられ、安楽椅子に座っているような体勢になる。冷たいお水が喉にしみ、スカスカの胃袋を刺激した。どうやら私は爆睡し、お腹を空かせているようだ。
K・Kさんは私が1日と半分眠りっぱなしだったと教えてくれた。
「今までの疲れが出たのね。つらかったでしょう。脚も、大丈夫?」
試しに布団の下で動かしてみる。ひきつれる痛みはあったが、問題なさそうだ。私が血を見慣れていなくて、傷の程度を理解できていなかっただけか。
「心配してずっといてくれたんですか?ありがとうございます」
「ずっとってわけじゃなくて、来たのは30分くらい前だわ」
「はあ」
「クラっちが行くって言うから、ついてきちゃった」
「は、あ……?」
知らない人の名前が出てきた。あだ名なのか本名なのかも判断がつかない。
ここ最近はずっと、スティーブンとヴェデッドさんとしか会話をしていなかったから新鮮だ。どうやって他人と仲を深めていたかを忘れかけていた。
「あの、スティーブン……さんは」
同僚相手に呼び捨てはマズイか、となけなしの気を回すと、K・Kさんが即座に反応した。
「呼び捨てでいいのよあんなの。彼なら私たちの後に来るって言ってたわ。こんな可愛い恋人が入院してるってのに、書類仕事が優先なんてね」
それは仕方ないのでは。
私がスティーブンをフォローするたび泥沼にハマりそうだったので口をつぐむ。
代わりにひとつ、否定した。
「私と彼は恋人同士じゃないですよ」
K・Kさんは点滴台を跳ね飛ばす勢いで立ち上がり、私の頬を両手で包んだ。泣きそうである。
「本当に……なんてやつなの……」
「あっ、いや、でもそのうち恋人になれるように攻略中なんで!」
「攻略はちゃんの仕事じゃなくてあいつの仕事なのよー!」
ここまで力強く言われると、私の認識が根本から間違っているように思える。違わないのだが、これ以上刺激するのは得策ではなさそうだ。
額に額をくっつけてぐりぐりと顔を動かす美女は、満足するまで私の目を回した。
「そうだわ。ちゃんに渡したいものがあるの」
「は、はい?」
K・Kさんがサイドテーブルの引き出しからメモ用紙を出し、すらすらと何かを書きつけた。これ、と見せられる。
「私の連絡先よ。あの男と生活してて、どうしようも我慢できないことができたり、困ったことがあったら、いつでも連絡してちょうだい」
澄んだ瞳に、思わず頷いた。
彼女が笑みを浮かべる。
ぬっと、影になる視界でも見逃せないほどの巨体が、K・Kさんの背後に現れた。
病室のドアをスライドさせ、静かに入室した彼は、腕に抱えた小ぶりな花束を花瓶に挿し込んだ。
「クラっち。ちゃんが起きたわよ」
「む……」
理知的なその姿を見て、目をみはる。
この人、メインキャラクターだ。
流し読みしかしなかった(……スティーブンの同僚だというK・Kさんを覚えていなかった)私も、彼の存在は記憶している。すごい強くて、すごい頭のいい人だ。
身体は大きく、顔つきもいかつくて威圧感がある。しかし瞳が私を気遣っている。
「私はクラウス・V・ラインヘルツという。スティーブンと同じ組織に属する者だ」
「は、はあ。です。あの、苗字はあまり好きじゃなくて。名前だけでいいですか?」
私の苗字には、可愛げがまったくないのである。軽そうな顔面や脳みそと合わないのか、いつも二度見されたり聞き返されたりして面倒だった。
クラウスさんは重々しく一度、頷いた。
「もちろん。我々が君に無理強いすることは決してない」
スケールが違いすぎてついて行きづらい。
仕立てのいい衣類はしわひとつないように見える。けれど彼も秘密組織の一員なら(……確かリーダー?)、シャツの背中に座りじわがあるのだろうか。
座るといえば、彼は立ったままだ。K・Kさんはクラウスさんが来ると同時にスツールを立った。
「あの、座ってください。K・Kさんも、ベッドで良かったら……」
「ありがとう」
「ありがとう、ちゃん。でも私は立ったままで平気よ」
私などとは違う、大人の女性の余裕が感じられる。私なら座ってた。そういうところがダメなのかもしれない。
熱が下がり、咳もくしゃみもない。傷だって痛くなくなった。点滴が刺さってるくらいであとは元気なのに、ひとりだけベッドに寝転んでいるのでそわそわする。知らない人の前では取り繕いたいタイプだ。
「スティーブンがお世話になっているようで、私から礼を言わせて欲しい。ありがとう」
「むしろ私が衣食住をお世話になってるほうなので、そんな……」
「そんなもん当然なのよちゃん!騙されないで!」
K・Kさんといると甘やかされそうだ。
元が自業自得なのでむしろお互いに被害者なんです、と言うわけにもいかず曖昧に笑う。何を言ってもスティーブンの評価がダダ下がりしそうだ。
「この度は君を危険な目に遭わせてしまい、申し訳ない。巻き込まれた君にとっては災難だっただろう」
この偉いっぽい人に丁寧に接されるプレッシャーが、スカスカの胃袋を刺した。もっと気楽に喋りたい。パパは偉い立場だったけどテキトーにあしらえたのに、クラウスさんは絶対そんなふうにはできない。……格?
クラウスさんが今まで以上に背筋を伸ばし、姿勢を正した。まっすぐに私を見つめる。
気圧された。彼に睨みつけられたら腰が抜けるだろうなと思った。
だが、と彼は言う。
「だが、君には再び傷が生まれるかもしれない。三たび生まれるかもしれない。私はスティーブンの能力を信頼していて、これからも戦いに出すだろう。そのときに、彼が傷を負わない保証はないのだ」
黙って何度も首を振った。見るからにスティーブンは社畜だ。組織を大切にしている。だから今日になるまで私をクラウスさんたちと接触させなかったし、私にも情報を渡さなかった。
ならなぜ今になって、と疑問も浮かぶ。ようやく、疑いが晴れたのか。
K・Kさんとクラウスさんが、私の答えを待っていた。
彼らは私たちのことも異世界のこともすっかり存知の上らしい。
「あの、ですね。私は痛いのに慣れてないんです。でも、この状況になって、何度か傷が移ることがあって、仕方ないなあと思いました。あの人の仕事は初めから最後までクラウスさんのところで働くことで、あの人はそれに夢中みたいです。ずっと帰って来なかったり、くたくた……なのかはわからないけど早くに出たり、忙しい毎日だと思います。だけどそれが満足そうです。だから、えーと……、その人生に割り込んだ私が、どうこう文句を言う話ではないんじゃないかなと、思うので、大丈夫です。私が死ぬとヤバいかもしれないらしいので、そこは全力で守ってくれるでしょうし、それはそれでときめきますから」
面接か三者面談のような絵面だと気づくとやけに緊張する。採点が厳しそうだ。自覚はないのに圧迫面接になって、自滅する人が続出しそうでもある。
しどろもどろに言い切ると、クラウスさんは凶悪に微笑んだ。彼なりに表情を緩めたのだと思いたい。怖すぎて、悟られないように身を引いた。
「ありがとう。君の覚悟はとても尊く、私は君に敬意を表する」
「ヒイッ……、い、いえ、大丈夫です、ごめんなさい!」
「む、何がだね?」
「なんでもないです!」
あまりのまっすぐさが眩しい。私はトンチンカンで薄情な女なんです!と訳もなく喚きながら責め立てられたい気分になった。この室内が純粋な空気に満ち溢れ過ぎていて、曇った感情でバランスを取りたくなる。
クラウスさんは私と握手してくれた。
大きくて厚くて、あたたかい手だった。
名残惜しさを感じる私と微笑ましそうに見守るK・Kさんに、爆弾が落とされたのは3秒後だった。
生真面目そうな眼差しが、私の顔に向けられる。
「彼はよい人をパートナーに選んだようだ」
硬直、のちに私たち女性陣は素早く顔を見合わせた。K・Kさんが必死に手を立てて振る。やはりクラウスさんに、私たちの謎過ぎる出会いと爛れたお付き合いを暴露するのはヤバそうだ。K・Kさんに言ってもとんでもないことになりそうだが、クラウスさんは別ベクトルにぶっ飛びそうである。彼の前では私はスティーブンの『恋人』にならねばならないのだろう。嬉しいような申し訳ないような複雑な気持ちだ。
「そ、そんなふうに言われたのは初めてなので嬉しいです」
「うむ……、ああ、そうか。異世界から来てスティーブンと出会い、それからはあまり外に出られていないのだったね。少し話せば君の人柄は伝わるだろう。私はありきたりな言葉しか使えなくて申し訳ない。だが彼もそう思っているはずだ。仕事の合間を縫って、昨日は昼と夜にここまで来ていた」
「え!嘘!わ、わ、やばい……」
「大丈夫かね、顔が赤く……。熱がぶり返したなら」
「ヒイッ!い、いえいえ、ごめんなさい!」
「何がだね?」
「なんでもないです!熱も平気です!」
そんなやりとりを続け、クラウスさんからの純朴な褒め言葉に破裂しそうな胸を押さえていると、病室のドアがノックされた。K・Kさんがぴくりと眉を跳ね上げ、ヒールの音も高らかに歩み寄ってドアを引き開ける。
「遅かったわね。もちろん、フルーツのひとつでも買ってきたんでしょう?」
「手厳しいなあ。何もないよ。彼女は?」
「起きてるわよ」
姿を見せた長身がやけに懐かしく、ホッとする。
「あ、スティーブン、脚、大丈夫?風邪は?」
「おかげさまで」
「よかったね!」
「君もね」
彼には大げさにウンウン苦しんでいた姿をまるっと見られている。
クラウスさんが立とうとしたのを「いいよ」と止め、彼はK・Kさんの隣に立った。K・Kさんが歯をむき出して威嚇する。すごく仲が(……一方的に)悪そうだ。過去に何かあったのだろうか。彼女の親友が彼に弄ばれた、などという空想は幻であってほしい。実際は、そのような事実はないのだけど。
「今、ちょうど君の話をしていたのだ、スティーブン」
「ん、僕の話を?何か話すことがあったかな」
「君は素敵なパートナーを見つけた、と」
言ってしまった、と女ふたりで顔を逸らす。反応がないのが一番堪える。
スティーブンが口元に手を寄せたままでいるので、クラウスさんが首を傾げた。
慌てて場をつなぐ。
「クラウスさん、てっ、照れるからそのお話はなしにしましょうよぉ」
声がひっくり返った。どうして私がここまで気を回さなくてはならないのだろう。人付き合いとはこんなに体力を使うものだったか。
「恥ずかしがるような話だろうか。君は彼が好きで、彼も君を大切に思っている。素敵なことだと私は思うのだが……」
「まあ私がスティーブンをすごい好きなのはそうなんですけど!」
「そうだな、僕も彼女が大切だ。それだけの話さ。何も恥ずかしがることなんてないよ、クラウス」
乗ってきたので安堵した。K・Kさんが「名前も呼ばないくせに」と小声で彼を詰った。そこはそんなに大事なポイントなのか。
うまい言い方に納得したクラウスさんに、K・Kさんが毒を吐いた口で時間をしらせた。
「そろそろお昼を食べに行かないとじゃない?クラっち、お腹空いたでしょう」
「もうそんな時間なのか。病み上がりなのに長居をしてしまってすまない」
K・Kさんのウインクは(……したような気がした)、私とスティーブンだけが見た。K・Kさんはウインク(……たぶん!)を彼に見られ、即座に威嚇の姿勢に戻った。
小さく会釈したクラウスさんと、手を振って「また会いましょう!」と言ってくれたK・Kさんが退室する。スライド式のドアが閉まると、かすかに聞こえた病院の音が遮断された。
かなり気まずい。さっきのやりとりだが、もしも彼に本命の想い人がいた場合、あの茶番は彼にとって苦痛をもたらすものだっただろう。ついでに本命の存在について考えてしまった私も苦痛を覚えた。
「お昼食べに帰っていいよ!」
椅子に座ろうとした彼に言ったが、彼は個室付属のキャスター付きミニテーブルを引き寄せ、手に持っていた袋を置いた。それが答えだ。
「ナースに君の昼食を頼んできた。僕もここで食べるよ」
「え!」
気まずさは吹き飛んだ。期待が高まる。
「私と一緒にいてくれるの?」
「ここに来て、別のところで食事して戻るのは面倒だしね」
「なるほどね!」
合理的かつ時間管理がきっちりしている。デキる大人の鑑だ。
「お昼休みはいつまで?」
「具体的には決まってないけど、ここに居られるのはだいたい1時間くらいかな」
「お仕事あるもんね」
ドアが叩かれ、カートで食事が運ばれてくる。病院食とはどのようなものかと悪い評判ばかり思い出していたが、例えるならば外国の定食屋さんのAセットに見える。パンとお魚と緑黄色野菜のソテー。コーンスープ。デザートにプリンと、異界のものっぽい果物。
主観だが、ものすごい高熱を出し寝込んでいたハタチの女に出す食事ではないのではなかろうか。
彼も同じことを思ったようで、「取り替えるかい?」とナースコールを示した。
「……まあ大丈夫でしょ!無理だったらあげる」
「病院食を他人に食べさせるのは良くないよ」
「そうなの?」
「患者がどれくらい食べられたか、データを取るんだ」
「へー……」
ダイエットを意識して野菜から食べる。2日ほど食事を抜くと体重もかなり減ると聞いたけど、これまで目覚ましい効果を記録できたことはなかった。今回はどうだろう。
「あ!あの、ごめんなさい、ベッドのシーツと服が大惨事に」
「君が気にすることじゃない。あんなものはどうにでもなる」
「借り物だし、私、まだ返せないから」
「返す?」
袋から飲み物の紙カップとサンドイッチを出す。私は魚を切った。
「あなたの生活水準を考えると返せる気がしないけど、ずっとお世話になってるから。なんかお返ししないとヤバくない?」
「必要経費だ。これくらいじゃ懐は痛まない」
「あ、それサブウェイ?なつかしー」
「君も話がコロコロ変わるなあ」
目に入ってしまったのだ。
野菜たっぷりでパンはセサミ。具はたまごか。おいしそうだ。私が最後に食べたサブウェイのサンドイッチは確か生ハムチーズだった。生ハムと書いてあったけど、本当に生ハムだったのか、ヘルサレムズ・ロットを信用しきれずにいる。生ハムだったとして、なんの生ハムなんだろう。豚であって欲しい。
ダメ元で頼んでみた。
「ひと口ちょうだい」
スティーブンは噛んだものを飲み込んでから、私のトレイを指差した。
「全部食べ終わったときに、まだサンドイッチが残ってたら考えるよ」
「ふぁ!?」
もしかすると食事中に喋られるのが嫌なのか、とコーンスープを飲みながら思ったが、夕食を共にする日はいつも話題を提供してくれるし、そういうわけではない、のか。そういうわけではないのだと思いたい。あの話題提供すらサービスのひとつと考えると倍、つらい。
彼が震えたスマートフォンを操作しメールか何かを打つ隙に、私は黙々と食べ進める。ようやくプリンに到達した。
「そんなに好きだとは思わなかったよ」
ケータイを暗くしたスティーブンが唐突に言ったので手を止める。
「何が?スティーブンのことが?好きだよ!」
「サンドイッチ」
「それはあなたが食べてるから食べたいんだよ」
言ってから青ざめた。
「い、いや、変質者とかじゃなくて!複雑な乙女心があって!」
「ああそう」
雑さが戻ってきた。
誤解は解けたようなので、プリンを食べきってしまう。
見たことのない果物はライチに似ていた。皮をむけばいいのか。
「これどうやって食べるの?」
「皮ごと」
「ありがとう」
薄い膜に包まれたタピオカからみかんの汁が滲みたような味だった。
お水で口を流す。彼のサンドイッチにはまだ余裕があった。またスマートフォンを触っている。誰とメールしてるんだろう。本命、まで考えて悲観を振り払った。自分に気のある女の前で平然と本命にメールを送るとか、テクニカル過ぎる。
「完食しました!」
「10分も経たずに……」
「食べたかったんだわ、それが」
ちょっと胃が痛い。
そんな不調はおくびにも出さず、私はスティーブンに塾考を要求した。
本当はのらりくらりと躱されるとわかっていた。それでも、やりたかった。夢の『あーん』を。このよこしまな気持ちを読み取られたら、二度と一緒に食事をしてもらえなさそうだ。いつから私はこんなに気持ち悪くなってしまったのか。何が悪かったんだ。高熱かな。あれで大切なネジが溶けたとしか思えない。いや、それより前から重篤だったっけ。
なぜこんなにも好きになったか?
フィーリングだ。まず一目惚れした。偽物であっても優しさにキュンとした。悲劇的裏切り(……のようなもの)を受け、修羅場で死にかけ、同居(……彼的には不本意)をするうちに幾度となく手のひらの上で転がされ。血まみれで痛くてイライラする私の手当てをして、なんと夢の横抱きまでしていただいては乙女としてもう耐えきれない。雑さすら気持ちいい。しかも今回はお見舞いにまで来てくれていたというじゃないか。決壊寸前だった心の砦が全面降伏だ。病死しないように様子を見に来ただけだとしても嬉しいものは嬉しい。点滴に他の薬品がうっかり混ざらないように確認しただけかもしれないけど嬉しい。
私の煩悩には気づかず、あるいは無視をして、スティーブンは私の目を見た。
「と、ときめく」
「食べさせてもいいけどね」
「え!」
「君のそれは錯覚だと思うよ」
何の話かわからなかった。
「……え?なにが?……食欲?」
そんな話ではない、と頭の隅で警告が響く。何か不穏な嵐が、静かに巻き起ころうとする。
動物に天気の変化を察知する能力があるのなら、このとき私の頭にもそれが宿った。
「君が僕を好きだと思う気持ちの話だよ」
異世界に来てからこの方、ずっと恩恵を受けていた日英の言語翻訳がとうとう取り払われたかと思った。
何を言われたのかよくわからず、混乱のなか浮かべた笑みがかたまる。
「えっ、と……。なんで?」
彼はサンドイッチを包み直し、テーブルに戻す。ドリンクカップの蓋を開け、中身を確認した。
「まず、恋愛ごっこを引きずってる」
「それ、こないだも言ってたね。引きずるよ。ホントに好きだったし、好きだから」
「よほど良い思い出だったんだろうけど、僕にとってはただの仕事だ。君も非日常的な出会いとスリルのある付き合いに夢を見てただけ。その証拠に、夢が醒めたらこちらが怖くなった」
「知ってるよ!めっちゃ用済みになったよ!でも怖がってる間もあの人サイコーにカッコよかったわーって思ってたからそこは!!すごいカッコよかったよ!睨まれるとホンット怖いけど!すごい好きだったし、未練たらったらだよ!」
ここが個室で、私がご飯を食べたあとで助かった。この重苦しい面接のようなものと戦うために、さっきまでのコンディションは向いてなかった。
「それはただの憧れだ。僕じゃなくても感じる。それから君は僕と傷を共有することになった。ありえない事態と、僕がいつどんな傷を負うかわからない恐怖、異世界人としてすぐに死ぬかもしれないという混乱から自分を守るために過去の恋愛ごっこを持ち出して、僕を好きだと思い込んでるんだろう」
何をとうとうと喋っているんだ?
頭がすっからかん、直情バカ、後先を考えないペラペラ理性、軽すぎる脳みそ。薄情の度が過ぎて身内のこともぼんやりとしか思い出さず、目先の利益のために様々な地雷に踏み込んだ。
そんな私といえど、カチンとくることはある。
あえて言おう。あなたに私の何がわかるのかと。
ファイト!とゴングが鳴り響いた。
「憧れは色んなアイドルに抱いてきた。元カレにだってまあ憧れたことはある。でもその中でも燦然と輝く好みどストライクの男に惹かれるのは仕方ない。口が上手くて頭が良くてテクニシャンだったこともまあ素晴らしい!リップサービス大歓迎。おかげで人生最高の出会いを逃さずに済んだね!えーとそれから何だっけ!怖いから好きだって思い込んで自分を守ろうとしてるとか言ってた!?」
「ああ」
「まず大前提かつ主題なんだけど、ジコボーエー?自分を守る?……とか難しい話は後にして、っていうか自分を守ってるって思ってても今はいいから、とりあえず単純に私があなたを好きだって思ってるっていうのを認めてくれないかな!私のことを思ってくれてるのか、面倒なのかは知らないけど、それ自体はあなたにとやかく言われることじゃないよね?……言われることなの?」
「君のためにならない」
「それは私が決めます。でもありがとう!……ため息をつきたいのはお互いさまかな!?」
毛布の下の足にじっとりと汗をかいてきた。なんなんだこの会話は。私はずっとこんなふうに思われていたのか。心がお気楽で偽の恋愛感情に振り回されてまとわりついてくる厄介な運命共同体(……お荷物!)だと?まとわりついていることは認めるが、同情されていたかと思うと、何にも気づかなかった自分のアホさが身にしみる。
「僕が君に毒を飲ませたことがあるとしても?」
「やっぱりか!!あれ毒か!!」
猛烈にお腹を壊した夜の話だ。
「……知ってたのか。誰かに教わったのかい?僕がそういうタイプだって」
どういうタイプだ。私が興味なくて手を出さなかった漫画とかゲームとかの話に通じるのかな。
「あなたに教わったんだよ!具合悪かった夜に!認めてくれるの?くれないの!?」
「知ってて知らないふりをしたって?」
「もー!長い!よく考えたらそれくらいはするかなって納得したからだよ!だってそれが仕事なんでしょ、内容知らないけど。言われないなら、あえて詰め寄ってギスギスするのは嫌じゃん。そっちだってギスギスしたくないから言わないんじゃん?……いいから早く認めてよ!『ああこいつは僕のことが好きなんだな』で終わるじゃん!簡単でしょ!近くにキモいのがいて嫌なのかもしれないけど……、それはごめんなさいだけど……」
私のテンションと彼のテンションの差が大きくて疲労が倍増する。でも、トーンを落とすつもりはない。落としたら負けだ。私から勢いと冷や汗を除いたら、紙レベルの思考すら残らない。後半に呟いた部分で予想外に自分が傷ついたので急いでお水を飲んだ。今は忘れよう。問題は、なぜか突如として私の感情を否定しに走ったスティーブン・ナントカ・ナントカである。まだきちんと名前を憶えていない。名乗らないんだもん。
「僕は君が思ってるような人間じゃない。知らないだろうけど、君に嘘がないか、人道的ではない手段を取ったこともある」
「そんなことしてたの!?じゃあ『好きだ』って言ってなかった!?信じてよ!ていうかそのとき嘘じゃないか確かめてくれたら良かったのに!……私だってスティーブンが思ってるようなちゃらんぽらんじゃないし、そういうものなんじゃないの?本来のあなたってやつを知ってほしくないなら知らないままでいるし、知られてもいいなら知りに行くよ!スティーブンが私が思ってるような人間じゃないかどうかも私が決めることだし、その結果どうなるかなんて、今は誰にもわからないじゃん!完璧に噛み合う人間なんていないし!?勝手に決めつけないで早く認めて!アイ!ラブ!ユー!それじゃダメなの?……私疲れてきた……」
ボルテージを上げ切った。
ベッドの上からできるだけ彼に近づいて、身を乗り出していたので腕がプルプルする。ダイエットでつけた引き締め筋肉はとうの昔に消えている。
スティーブンは静謐に言った。
「じゃあ、つまり、君は君なりに……本気で言っているのか?これだけ否定されても、自分の中では一片の疑いもなく?君は本当に僕が好きなのか?……よく考えて答えてくれ」
「『よく考えろ』とか私に難題突きつけてる?キモくてごめんだけど、私はスティーブンが好きだよ。私なりに、すごく、今までになく、本気で。……なんかこれずっと言ってない?」
食べ過ぎと喋り過ぎで、体内の血が胃袋に行けばいいのか頭に行くべきなのか迷って暴れている気がする。立ちくらみっぽくなったのでがくりとうな垂れた。普段のやわらかーな笑顔を浮かべてくれないイケメンとの距離がつらい。物理的に椅子を引かれないだけマシか。
迸る苛立ちに任せてとんでもなく支離滅裂で気持ち悪い発言を繰り返した気がするが、あちらはあちらでドラマによくあるワガママな彼女みたいなことを言い出したのでイーブンとしたい。
日々の疲れで人間不信に陥ったのかもしれない。メンタルをやられる前に長期休暇を取ったほうがいい。秘密組織はブラックだ。
「ねえ、私はここで泣けばいいの?それとも飛び降りてスティーブンを抱きしめればいいの?あなたが私なら、目の前で悩んで……悩んでる……のかはわかんないけど、目の前で難しい顔をしてる女の子にどうするの?何が正解?」
「僕に訊いてるのか?今、君が?」
誰か見えてるのかと後ろを振り返った。壁しかない。
そうだよ、と大きく頭を動かす。
「私が友達から聞いたのは、こんなときは相手を優しく抱きしめて『そんなこと言わせてごめんな』って言うらしいのよ」
「ありがちだな」
スティーブンが私から視線を外した。一応、返事をしてくれたのでまだ関係は壊れていないはずだ。彼は大人なので、すべて呑み込んで私を動いて喋って食べて眠る血袋と思うことにしたのかもしれないけど。
「君なら何て言うんだい?」
「え?」
「目の前で僕が難しい顔をして君の話を理解しようとしていたら」
私、そんな難解なこと言ったかな。逆じゃないか?
うーん、と考えがてら部屋を見回す。時計が目に入った。
ああそうだ、時間は有限だ。なんかもう、どうでもいいや。本能に任せるのが一番楽しいし、頭を使わなくて済む。
「あのさ。私、変質者ではないんだけどね」
「うん」
改めて頼むとちょっと照れた。
「スティーブンのサンドイッチ食べていい?」
一拍置いて(……その一拍が怖い)、彼は肩をすくめた。
「いいよ」
「や、やったー!!あーんして!諸事情により手が使えないから」
諸事情などないわけだが。
「怪我したのは脚だろ」
「あーっ、熱が上がってきたー。食べさせてもらえないと食べられないなー!」
「ぶり返したなら食わないほうがいいな。僕も帰るよ」
「わー!待って待って!自分で食べます!」
腰を戻して両手を伸ばす。
するとテーブルの上の包みを手に取り、包装をむき、彼はサンドイッチのお尻を私に差し出した。そっちか、と紳士ぶりに感動する。この気遣い、元カレには決してできないものだ。そもそも元カレと食べ物を分け合ったことがあんまりないか。ぷっちょくらいか。
欲望と夢とロマンが実現すると、照れ臭くなって逃げたくなる。しかしこのチャンスは逃すまい。彼のスカーフェイスをひっぱたいたときと似た焦りで心臓を脈打たせ、あんぐり口を開けて具まできっちりいただいた。
食らう瞬間は羞恥に負けて目を閉ざしたが、咀嚼すると記憶にあるよりもおいしくてすぐまぶたを開ける。
「うまっ。こんなおいしかったっけ」
「久しぶりだからじゃないか?」
「そうかも。もうひと口」
味が濃くて癖になる。
スティーブンはサンドイッチの上下をひっくり返してからかじり始めた。
「僕のぶんがなくなるからダメ」
「そうだね、働くもんね。エネルギーは大事だね」
ベッドにもたれかかる。何が良かったのか、熱意が通じて採用されたのか、圧迫面接の空気は霧散していた。
「私はいつまで入院してるの?」
驚異の速度でサンドイッチをお腹に収め、スティーブンはゴミをまとめて袋を潰した。小さくして部屋のゴミ箱に捨てる。まるで私が食べたようだ。
ジャケットを羽織り、時計を見た。私も見た。
「ここは23時までで……面会時間が19時までだから、それまでに君の体調が戻ってたら退院手続きをする」
「電話する?」
「君の主観は信用できない。色々な意味で。どちらにしても様子は見に来るよ。それまで死なないでいてくれ」
「あなたも怪我しないでね」
「約束はできないなあ」
ひらりと手を振った長身が間仕切りに隠れ、ドアが開いて、閉じた。
0730