08
今日の夜はお休みをいただいているので、とヴェデッドさんは私の夕食まで用意して、新しいクロスワードパズルの雑誌をくれた。懸賞のついたものだ。前のものはまだ途中だったが、目に見えて進行が早くなったと自慢したので気を回してくれたのだろう。催促したようで心苦しい。何でもかんでも言うのはよろしくない。
朝食をとり、ヴェデッドさんが掃除をする間に私も部屋を片付ける。ゴミを出したりベッドを整えたり。ぼちぼち慣れてきたところだ。
一仕事を終え、冷たい紅茶を淹れて差し出す。洗い物はもちろん私がする(……させていただく!)。この程度なら許されていた。
ヴェデッドさんが私の顔を見つめ、ぱちりぱちりと目を瞬かせる。
「寝不足ですか?」
「え?」
「顔色が少し、優れないようです」
自分の頬に手を当てる。体温はいつもと変わらない。
心配そうにされたが、たぶんただの寝不足だ。ここ数日、家主が戻らないのをいいことに煌々と明かりで部屋を照らして読書に没頭している。そして朝はヴェデッドさんがやって来るので時間で起きる。睡眠時間がわずかずつでも削られているのだろう。熱中できるものに打ち込むうちは昼寝の時間も減る。それでもほぼ毎日、きちんとソファでうたた寝しているのだが。
何かあったらすぐにお医者さんを呼んでくださいね、と念のため薬箱をテーブルに置いてくれたヴェデッドさんは、最後まで私を気遣いながら会釈した。
鍵を閉め、紅茶の残りを飲む。顔色が悪いと言われたのは初めてだ。パパのところではどんなにパパが気持ち悪くてもうまく隠し通せたのに、自覚がないと隠しようもないということか。
薬箱の中身を覗いてみる。ヘルサレムズ・ロットの薬には怪しいイメージがあるが、これらの原料はまともなものなのか?知りたくなかったので、賢くなって箱の裏を読んだりはしなかった。
全身に倦怠感がある。寝不足だろうか。
スティーブンはコーヒーを飲み、頭に鞭を打つ。集中力は取り戻せるものの、どこか違和感が付きまとう。ここしばらく感じていなかった気だるさだ。
自然とため息が増える。聞きつけたクラウスが、デスクトップから目を離した。
「先ほどからため息が聞こえるのだが、もしや具合でも悪いのだろうか」
「ん?ああ、いや、そんなことはないよ。ただの寝不足だ」
急いで否定したのは、心配をかけるほどのことではないと思ったからだ。馴染みのない身体の重みは言うほどひどくはない。
「そうかね?具合が悪いならすぐに言ってくれたまえ。それとも少し眠るというなら、すぐに用意を……」
「いや、本当に気にしないでくれ。ため息をついたりして悪かったよ」
「責めてはいない。ただ、君は無理をしがちだからな」
「ま、そんな日もある。ありがとう、クラウス」
話を切り上げたがったスティーブンに気づき、クラウスは重ねようとした言葉を引っ込めた。彼が問題ないと言うのなら、問題ないのだろう。副官は自己管理のできる人間だ。冷静で、自分も他人も客観的に評価する。仕事に没頭し過ぎるきらいはあったが、それもヘルサレムズ・ロットの情勢が止めどなく変化してゆくが故だ。本来なら事務仕事だって要領よくこなし、夜には切り上げ、ゆっくり自宅に帰れるはずなのだが。
軽口が飛んだ。
「どっかで風邪でももらってきたんじゃないッスかあー?」
「風邪、か」
スティーブンは首を傾げる。
「もらうアテがないんだがなあ。お前と違って」
口ではそう言いつつも、視線はデスクに置いた電話に向かう。まさかな、と目を細める。
彼の横顔がスマートフォンを手に取ろうか迷っているように見えたレオナルドは、聞こえるような聞こえないような、微妙な大きさで独りごちた。
「そういえばスティーブンさん、最近よく電話かけてますよね」
応えなくても良かったのだが、たったひとりの男のせいで奇妙極まりない事実無根な噂が立つのも煩わしい。
案の定、男は下卑た笑みを浮かべた。
「お?お?来ちゃった?来ちゃいます?そういう展開ッスか?オンナ関係は気をつけたほうがいいッスよォ」
「そういえば最近、顔をパンパンに腫らして出勤したやつがいたっけな」
「えぇ?そーっしたっけ?」
「あんたのことだろ!」
窓際のチェインが、おそるおそる突っ込んだ。
「あの……、……恋人とか」
決してそんな関係ではない。だが、どう説明したものだろう。
正直に事情を説明し、助力を求めたほうが話は簡単なのか。
初めこそあの少女がどこかからの回し者だったのではないかと警戒していたが、離れるに離れられず、処分するに処分できない状況に陥り監視下に置くようになってからは、かなり早い段階で確信を得た。知らず、自分に情報を流した彼女に感じた通り、男と恋愛に夢見がちで世慣れしない普通の若い女性である、と。
どこかに連絡を取る様子も、不自然な電波も見て取れず、律儀に言うことを聞いて飼われている。頻繁にソファで眠りこけるのをいいことに軽く投薬してみたところ、矛盾も秘密も表れなかった。洗脳でもされているのでなければ、単純明快、彼女は何の力もない異世界人である。
『漫画』の話には警戒を抱いたままだが、こちらも嘘ではないらしい。異世界について調べを進めれば、他にも同じ知識を持ったものがいるかどうかも判明するだろう。たとえ判明しなかったとしても襲われればすべてを叩き潰すのみだが、手がかりが掴めていれば対策も打てる。
事態に恐慌してもすぐに忘れるらしく、捕まえられてからはスティーブンとの接触にも躊躇しない。こっそり実験的に毒物を仕込まれたとも、一片たりとも思い浮かばないようだ。『漫画』によってスティーブン・A・スターフェイズがどのような仕事に従事し、どのように生きてきたかを知っている(……はず)にも関わらず。普段と変わらず『おかえり』と言い、大きな声で大げさに喜んで警戒なく二度目のケーキを頬張った姿は、ほんの少し笑みを誘った。
恋愛ごっこを引きずる彼女に業務外のサービスを提供するのも、ほんのちょっと面白い。
同居は面倒で落ち着かない部分もあったが、彼女が命と異常を共有する相手だからか、はたまた異世界人特有のものなのか、次第に馴染みつつある。
ライブラの副官は、冷徹一色の男では、決してないのだった。
そして適応力も非常に高い。
スティーブンは、チェインの問いかけにはしばしの空白で応えた。
家で待つ彼女に情報を与えさえしなければ、こちらの不利にはならない。彼女に対する疑いがほぼ晴れた今、むしろクラウスたちに告白するほうが、自分のハンデを隠すよりも戦いやすいのかもしれない。
余計な気を回させたくはなかったが、いざというときの手は多いほうがいい。
口元に手をやり、やけに重苦しく思考するスティーブンに、いつの間にか視線が集まっていた。
彼は「うん」と言った。チェインの顔がひきつる前に、向き直る。
「遅くなったが、言っておきたいことがある」
どこにあるとも知れない秘密組織のアジトから離れた建屋。スティーブン・ナントカ・ナントカの自宅で、私はぐったり、ベッドにうつ伏せていた。
昼食の時間が近づいても、お腹がまったく空かなかった。頭を使えば食事したくなるかもしれないとクロスワードに挑んだり、小説を読んだり、簡単なストレッチ、ラジオ体操に取り組んでみたが全然ダメで、それどころかどれにも集中できず息切れするだけだった。
室温に見合わぬ寒気がし、頭と身体がずっしり重い。
食欲どころか気力も湧かずベッドに倒れる。どうせ今日もスティーブンは帰って来ないだろうとたかを括ってすっぴんでいたのが救いだ。額に浮いた汗でメイクが落ちて枕カバーに汚れをつけるとめんどくさい。
体力を振り絞り、毛布の中に入り込む。ガタガタ震え始めた身体を抱き、ようやくひとつの単語に行き当たった。
「風邪、ひいた」
意識するとだるさは増す。近年稀に見る重篤な風邪だと予感がした。こんなにも寒いなんて、異様だ。ヘルサレムズ・ロットの風邪は普通の風邪と同じだろうか。
風邪薬を飲まなくては、とガタガタする腕を突っ張って起き上がろうとするも、無理だった。
ついで思いつく。これはスティーブンもヤバいのでは、と。
口を酸っぱくして『風邪をひくな』と言われてきた私が、塩味よりもあっさりと、ブラックコーヒーよりも苦々しいウイルスに当たったと知ったら彼はどう思うだろう。絶対に呆れられる。かつ、迷惑をかける。
別の意味で寒気がした。
今の自分ではリビングルームまで薬を取りに行くのは無理だ。
仕方がないので目をきつく瞑り、明らかに急上昇する体温に「下がれ……下がれ……」と念じつつ睡眠を試みた。
あらかたの状況を解説し終えたところで、ザップが手を挙げた。レオナルドとツェッドが目を白けさせる。
「そのオンナのコがラリったり突っ込まれたりしたらスターフェイズさんもラリるんですかね」
スティーブンはちらとも顔を歪めなかった。
「すまない、よく聞こえなかった。もう一度、言えるものなら言ってみてくれ」
「アデデデデ!!スンマセンスンマセン!陰毛頭、テメーテキトーなコト言ってんじゃねーよ!!」
「僕は何も言ってませんよ!ほんっと最低ですねザップさん!?」
「今の話を聞いてそんな感想しか出て来ないんですか?」
固唾を呑む沈黙から解放され、スティーブンは背中にのしかかるだるさを思い出した。コーヒーでは補いきれない寝不足のせいか、あるいは本当に。
「スティーブン」
再び電話に向かう視線が途中で方向を変え、巨体のリーダーを見上げた。
「君に差し支えがないのならば、その女性の保護をこちらで行うことも可能だ」
「ありがとう、クラウス。だが今のところは現状維持で問題ないだろう。護衛はつけているし、本人にGPSも常備させている」
クラウスは眼鏡の奥の思慮深い瞳を、ぐるりと彷徨わせた。
「ここに連れてくるというのは?君が疑いを晴らし、信頼する人物なら、こちらに異論は出ないだろう」
「考えなかったわけじゃないが、僕にくっついてあちらこちらへ移動させるよりは、ある程度安全な一箇所に留めておいたほうがいい。彼女は『異世界人』だ。君も何度か話を聞いたことがあるだろうが、異世界人の死亡率は極めて高い。巻き込まれてここに何かあると困る」
「君の自宅に何かあり、感知できないまま彼女に危害が及ぶほうが問題ではないだろうか」
「数人の護衛が、すぐに駆けつけられる位置にいる。何度も言って申し訳ないが、ライブラや君に何かあるほうが問題なんだ」
クラウスは「そうか」と頷いた。
「スティーブン、君がそう言うのなら。だが覚えておいてくれたまえ。我々は君の半身をいつでも受け入れよう」
傷の横のまなこがぱちくりと大きく瞬いた。
「……『半身』は言い過ぎじゃないかなあ」
「君と運命を共にしているのだ。君にとっても、彼女にとっても、お互いがお互いを補い合う関係であることは間違いない」
スティーブンは居心地悪そうに気だるい身体を動かしたあと、スティーブンの囁いた『偽の愛』に引きずられたままの能天気な運命共同体を思い浮かべ、困ったように笑ってみせた。
K・Kがドアを開けたのはそんなときだった。
「何この空気?ちょっと見て欲しいものがあるんだけど」
素早く頭を切り替えたのはリーダーと副官で、片方は視線で促し、片方は口を開いた。
「ちょうど良かった。話は後でするよ。何かあったのか?」
「あんたに関係する話?一気に興味失せるわ……」
片手に持ったファイルをテーブルに広げる。何枚かの紙が堪えきれないといったように散らばり、レオナルドとツェッドがかき集めた。
「違法も違法、邪道も邪道な商売が見つかってね。前々からあるのは知ってたけど、ようやく手がかりが掴めたから知らせに来たってわけ。誰か知ってる?『Dimension Charm』について」
スティーブンをはじめとした全員が記憶を探る。思い当たる節や知識は掴めず、そう時間も経たないうちに全員が首を振った。
「スカーフェイス、あんたも知らないの?」
「悪いね。どういう『おまじない』なんだ?」
資料の一枚を手に取り、読み上げるようにすらすらと説明が流れる。
「前にあったでしょう。私は見てないけど、『異世界人』とかいう身元不詳の人間が突然現れて、突然死んだ事案」
ハッとしたのは、K・K以外のライブラメンバーだった。今しがた耳にした単語を主題に置かれ、無意識にスティーブンに注目する。視線を浴びたスティーブンは、宥めるように手でゆっくりと空間を薙いだ。
異様な空気に、K・Kが顔をしかめる。
「何?」
「後で話す。それで?」
「あんたに仕切られると調子が出ない」
読んでいるのかいないのか、資料をめくる手と喋る口の動きは合わない。
「この『Charm』……『おまじない』は、次元に干渉して、まったく別の場所から人を攫う術らしいの。別の場所っていうのは国だったり異界だったり、異世界、だったり。狙いはこの『異世界』で、奴さんたちは異世界に住む人間を呼び寄せて掻っ攫う。成功する確率はかなり低い上にヘルサレムズ・ロット全体を力場にしているらしくて、攫われた異世界人がこの街のどこに現れるかは、術師にだってわからない。それでも攫ってきた奴らには異世界人のニオイがわかるみたいで、確実に何人かが捕まってる。どうしてわかるかって言うと、そこが尻尾を掴むキッカケでもあったんだけど、さっき人身売買に手を出した組織が人選間違えて私に手を出して来たからぶっ飛ばしたのよ。……ああ、もう調査に行ってもらってるけど……。そんでちょっと家捜ししてみたらそこのファイルが出てきたってわけ。開けてみて」
出処がわかったせいで、ファイルの表紙に手をかけるレオナルドの表情は嫌悪に歪んでいる。遠い位置にいたクラウスとスティーブンもテーブルに近づき、顔を寄せた。
レオナルドが読み上げる。
「去年の日付ですね」
3月、施行1、捕0、不4。
6月、施行2、捕2、不2。
9月、施行5、捕3、不0。
「『7月、計画成功。異世界人2人死亡。対象2人死亡。9月、計画成功。異世界人3人死亡。対象3人死亡。未発見3、全員死亡確認』」
「次は今年ですか。『不』というのは、異世界人ではなかった……という意味でしょうか」
スティーブンは顎を撫でた。
「今年のこれは、前にうちに接触して、直後に死亡した異世界人だろうね」
少年の指が文字を辿る。
「最新のは、ひとりですね。発見されてないみたいだ」
ツェッドが素早くスティーブンの顔色を窺ったが、そこには何の変化もなかった。意識を資料に戻す。ツェッドの行動から一拍遅れてスティーブンが目を細めたが、誰にも見とめられなかった。
次のページへ進んだレオナルドに合わせ、K・Kが手元の紙をばさばさと揺らす。苛立ちが溢れる。
「異世界人はすぐ死ぬ。そうなるように術式がかけてある、って書いてない?」
「書いてあります。僕には内容はわからないですけど、数式みたいなものも」
「なんかの計算式らしいわよ。私もそれはよくわからない。たぶん攫った人たちがどこに落ちるかの統計みたいなもんでしょう。で、どうしてこんなアホみたいに面倒で完全ブラックな商売が始まったのかってことだけど、狙いは『暗殺』みたいなのよね」
「暗殺ゥ?異世界人とどう関係があるんスか。みんな美人なナイスバディで色仕掛けしつつグサリってワケじゃあー」
「ないわよ」
「SS、もう黙ってれば」
とうとうK・Kの爪先が床を叩き始めた。とばっちりでスティーブンが睨まれる。だがさすがの彼も、今はK・Kにより強奪された資料に目を通すのみに留めた。
一文を見つけ、ほぼ全員が一瞬喉を詰まらせた。
無事なのはK・Kとスティーブン、クラウスの3人だ。
代表して、スティーブンが読み切った。
「なるほどね。異世界人と深く肉体的接触をすると、傷なんかが共有されるようになるのか。それで仇敵と無理にでも関係を持たせ、異世界人のほうを殺せば、異世界人の存在なんかはまったく知らない巷において、証拠の残らない完全犯罪が成立するってわけだ」
「ゲスな商売よ。最悪」
吐き捨てたK・Kは、かなり場違いな沈黙が場を満たしていると知り、クラウスと目を合わせた。クラウスも不思議そうにする。
「……スティーブンさん……」
「まあヤッてりゃたまにはそーいうこともありま、ッてェなテメー!踏んでんじゃねーよ!」
「空気読んでくださいよ……!」
「ンだコラやんのか?あ?」
押し殺した声は時によく響く。
「ちょっと、どういうこと?」
「その……、あの、ええーとですね」
口ごもるチェインを、クラウスが救った。
「このような非道極まりない犯罪を座視するわけにはいかない。スティーブンと彼女のこともある。早急に情報を収集し、組織を殲滅。術式の解除方法を得なければならない」
「は?……は?ちょっと待って。この腹黒男と……彼女?」
「うむ。異世界からやって来られたという女性は今、スティーブンと共に暮らしているのだ。ふたりは資料にあった通り、傷などを共有することとなっている」
K・Kの目が限界まで開かれ、唇がもの言いたげに何度か動いた。
レオナルドとチェインが耳を塞いだ。
怒号が爆発した。
「あんた!この男!!異世界から攫われて右も左もわからない女性を無理やり手篭めにしたっていうの!?」
「人聞きが悪いな。合意の上だよ」
「ご、ご、合意ですって!?その彼女いくつなの!?」
「ハタチだったかな」
「ハ、ハ、ハタチ!!女の子じゃない!!どうせあんたお得意のうっさんくさい笑顔と口先で丸め込んだんでしょう!ただでさえこのヘルサレムズ・ロットで大変だっていうのに、異世界から来たハタチの女の子が……よりにもよって……」
ソファの背もたれに倒れるように縋り付くと、K・Kは顔だけ上げて室内を睥睨した。髪の乱れた美女の凄絶な怒りの表情は、関係のないレオナルドに尋常でない冷や汗を垂らさせた。
「あんた、怪我なんかさせてないでしょうね」
「最近はデスクワーク専門だから、怪我する暇がないよ」
「しかもこいつの家にいるなんて……」
「ここに連れてくるわけにもいかないだろ?」
「まさか我が身可愛さに監禁なんかしてないでしょうね」
「話を聞いてくれてるかい?」
警報が鳴り響いたのは、二度目の怒りが噴き出す直前だった。
ブザーと同時に意識を切り替えたライブラメンバーは、画面に映るヘルサレムズ・ロットを注視する。突如出現した異界人と人工動物が、集まった警察部隊を蹴散らす。
K・Kがハッと息を呑んだ。
「ここ、私がファイルを手に入れた建物!それに、襲ってきたやつに似てる」
証拠隠滅に現れたと見える。
踵を返したスティーブンに、レオナルドが思わず声をかけた。
「スティーブンさんが怪我をしたら、異世界の女の人が!」
彼は半歩ぶん振り向いた。
「この敵が相手に繋がっている可能性は高い。僕の血凍道は戦いにおいて影響が大きいし、僕はヘルサレムズ・ロットの均衡を保つ、ライブラのメンバーだ。彼女を理由にずっとここで待機するわけにはいかない。出るよ」
「でも」
「少年。僕は今、行かなかったとしてもいつかは行くんだ。それなら早いところ、荷物を背負ってる動きに慣れておきたい」
それに、と肩をすくめる仕草はK・Kが嫌いなもので、レオナルドの不安が誤魔化されてしまうものだった。
「傷を負わなきゃいいだけだ」
言った唇が心なしか重い。息が熱く、寒気もあった。
顔を背け、整った眉をしかめる。
どうやらあちらも、忙しいらしい。
汗でぐっしょり濡れた服が気持ち悪い。
高熱にうなされる自分のうめき声で何度も起きた。そのたびに頭を殴られたような気持ち悪さが起こり、気絶に近い眠りに落ちる。
体温計の場所もわからず、毛布から抜け出す術もなく、水も飲めず、薬など夢のまた夢。汗と体力だけが身体から抜けて蒸発する。
何度繰り返しただろう。浮いては叩き落される意識に翻弄されながら、半泣きで夢を見た。額に触れる手はやさしく、時おり髪を梳き、眠りを促し瞼を下ろす。それは家族の夢ではなかった。
帰りたい、と強く思ったことがずっと昔のように思える。家族に不満があったわけじゃない。私は感謝の気持ちは忘れていたが、両親も、トイレがふたつある家も嫌いではなかった。いい家族だったと思う。平和で、起伏のない生活。決まった道を進むことこそが正しいのだと、誰もが信じる家だった。
つまらない人生は嫌だと思った。
恋人をとっかえひっかえ。サボりを覚えた高校と大学は、それでもあまり楽しくなかった。合コンでうまくやる方法をたくさん身につけた。
そして、この世界に来るという驚天動地な出来事に見舞われた。私は薄情な娘なのだ。両親にも、『パパ』にも不幸な娘だ。誰にも執着できなかった。しなかった。この時代、身内や勉強、くだらない毎日に気持ちを傾け、離れたくないと願う人はいったいどれほどいるだろう。どこかへ行きたいのだ。私はそうだった。
きっと誰かを探していた。バカになってもいい。道化でいい。相手にされなくてもいい。心を注ぎ、大好きになれる運命だと思える人を。
願い通り出会えた理想的な恋人は、冷や汗が出るほどヤバい人だった。加えて私たちは奇怪な現状に翻弄される。相手にとってこちらは明らかなる異物。相手は私をたぶん蛇より嫌いである。だが生まれつきかノーテンキだった私は、暇極まりない日々に感じるイケメンの痕跡に心を和ませた。うむ、癒される。彼の言動に一喜一憂し、優しさにコロリと転がり続けた。
しかし私はうめき声に混じえたうわ言では、誰の名前も呼ばなかった。おぼろげな記憶の限りでは。
たぶんこう呟いた。半泣きで。
「きもちわるいよぉ……」
当たり前だ。のっぴきならない風邪をひいているのだから。
無理やり意識を覚醒させられたのは、閉める余裕もなかったカーテンの向こうがおやつの時間を迎えた10分後だった。
弾かれるように飛び上がり、一気に熱とは違う汗が噴き出す。
「あ、いっ、た、いて、い、いた、いた」
言葉もない。くしゃくしゃに丸めたティッシュが元の形に戻ろうとするような緩慢な動きで背を丸める。呼吸は信じられないほど荒く、「いた、いたい」と現実逃避の声が漏れた。痛くてもう無理、よくわかんないけど何もかも蹴る。そう思った。
だらだらと生ぬるいものが溢れる。右脚の、太ももの内側。
切り傷だ。
傷口に触る勇気はなかったが、あまりの痛みに患部の近くを洋服越しに押さえる。止まらない。当たり前だ。この程度で止まったら病院はいらない。
高熱でふらふらな頭が、あまりのショックに貧血を起こした。悲鳴をこらえる歯の隙間から恨み言が落ちた。
「スティーブン、ふざけんな」
大好きだけど関係ない。
格好をつけたのは30分前。現場に到着し、戦闘を終えたのは1分前だ。
右脚のスーツは無残に切り裂かれ、内腿から血が流れ出る。急激なめまいが起きた結果だ。1秒足らずで治り、今は元通りの倦怠感しかない。
額の汗を手の甲で拭うふりをし、首を廻らせ顔を向けたのは自宅の方角だった。
ガタガタに崩壊した建物と、破砕され、ところどころ隆起した道路はまさに悲惨。氷漬けになり行動を制限され、遠距離から狙撃されたのは敵だけではなく、あわれなコンクリートもまた同じだった。
じくじくと痛む脚から体重を、もう片方に移す。
電話が震えた。
「もしもし、こちらスティー……」
「こちらK・K!めちゃくちゃ傷負ってんじゃないのよ!!早く帰れ!あんた家どこなの!?」
「ここからは遠いな」
「タクれ!今すぐ帰んなさい!」
理由の見えない焦燥と、副官としての自覚が空白を生んだ。
この場に残るつもりだった。後処理も仕事のうちだ。疎かにするなど、とんでもない。
一方、心の内側には焦りもある。
失血死をするほどではない。スティーブンはこういった痛みには慣れっこだし、縫うか縫わないかはわからないが、そこまでひどいことにはならない。
だが彼女は?
「あんたじゃ話にならないわ」
まるで寄せた眉根をスコープで覗いたかのように、K・Kが電話を切った。間も置かず、離れた位置のクラウスが手を持ち上げて耳に当てる。何事か喋り、事後処理に向けて歩き出そうとしたスティーブンを手で止めた。
彼を使うのは卑怯だ。
クラウスはスティーブンに駆け寄り、「行きたまえ」と言った。
「クラウス」
「君は行くべきだ。行かなければならない。君が痛みを感じるのと同様に、何も知らない君の半身も苦しんでいるのだ。孤独に、君を待っているはずだ」
真剣に見下ろされ、肩を手で支えられ、いつの間にかスティーブンを囲んだザップとレオナルドからなぜか口々に「行け」とせっつかれ、後頭部にどこかから刺すような視線を感じ、残るに残れなくなったスティーブンは自分の脚を見下ろした。伝った血が不快だった。
「……わーかった、戻るよ。わかったから離してくれ、クラウス。向こうでタクってくる」
「そのまま病院で傷以外も診てもらいますよね、スティーブンさん?具合も……悪いんですよね?」
レオナルドに指摘され、スティーブンは瞠目した。よく気づいたな、と感心する。義眼を使わなくても、彼は人の機微に敏いらしい。
自宅から1ブロック離れた場所でタクシーを降り家に近づくにつれ、不愉快さが強くなる。何が不愉快なのだろう。鍵をガチャガチャ言わせ、スティーブンは静かな玄関に滑り込んだ。
床が汚れるな、と思いながら家の中に彼女の姿をさがし、どこにもいないのを確かめて客間のドアを叩く。名前を呼んでも返事はなかった。家から出ていないことは知っている。
護衛につけている部下に様子をみさせればよかった、と気づいたのは、ノブを捻ったときだった。
まったく頭になかった。
部屋の中は蒸していた。もう一度名前を呼ぶ。返事らしい返事はないが、低いうなり声が聞こえた。
「大丈夫か?」
無理やり毛布をはぐ。細い身体に力はなく、シーツと服は血まみれだ。
「……大丈夫じゃなさそうだな」
慣れた自分では気づかなかったが、もしかするとそれなりの怪我だったのかもしれない。そう思い傷口を確かめたが、やはり危険視するほどではない。シーツや服が薄い色だから血の色が目立つのだ。
血は止まりかけだが、お互いに、病院に運ぶ前に手当てをしておこうとこちらもガチャガチャと道具を引っ張り出し、部下に電話をかけてから部屋に戻り、ベッドに乗り上げる。
「聞こえるかい?」
彼女は片脚でスティーブンを弱弱しく蹴った。聞こえているらしい。
「しんじらんない。痛い。しんどい」
無事な片脚は手当ての最中、ずっとスーツを踏んでいた。
「……痛かっただろ」
どうしてか、ひどく落ち着かない気持ちになって呟くと、高熱で頬を赤くした若い女が汗だくで身を起こした。
「痛いよ!!……ねえ今の、どっちが正解!?痛くないほうがいいの!?」
「君、この状況でそれが気になるのか?」
「なる、なります。少しでも好感度を上げたい……」
大声から一転、頭が枕にぶつかって脱力する。
「スティーブンは痛くないの?」
「慣れてるんだ」
「でも痛いよこれ……わーたいへんー……たいへんだあ……個人的に重傷……、あと風邪薬……あー……風邪うつってる?大丈夫?」
汗まみれの首に手を当てて、自分の体温と比べる。もともと体温が高くないのもあるが、スティーブンと彼女ではかなり差があった。
「多少はね。でも君ほどじゃないし、今、君が気にすることでもない。いつからだ?」
「気づいたら。恋と同じ」
「元気そうだ」
「満身創痍!!」
熱で苦しそうだったので、もう一度首元に手を伸ばし、襟元のボタンを開けてやる。
「もうすこし……色っぽく……」
スティーブンは呆れかえって、部屋の時計に目をやった。そろそろ迎えが来るだろうし、病院にも手配が済んでいるはずだ。もう下に車がつけてあるかもしれない。
ちょうど着信があり、スティーブンの部下が到着を伝えた。
電話を切ったスティーブンは、まだ力なく蹴ってくる女を抱き上げた。自分も歩くと脚が痛むが、まあすぐそこだ、と部屋を出る。
彼女が、彼に額をこすりつけた。
「ああー、やさしくされるー、好きですー」
「ああそう、ありがとう。熱が高いんだろうな。寝て起きたら治ってるよ」
「恋は病!」
家の前で待機する男に鍵を任せ、さっさと後部座席に女を詰め込む。はたから見ると誘拐である。
閉め終えた鍵を受け取り、スティーブンはドアを閉めた。
「大丈夫ですか?」
「ああ、僕はね。彼女は満身創痍らしい」
「急ぎます」
「うん。ありがとう」
一般的な形の車は、あまり揺れなかった。
満身創痍の女が呟いた。
「あのね」
スティーブンが顔だけ向ける。
「私、実は、あなたに一目惚れしてるんだ。知ってると思うけど」
「それ、まだ引きずってるのかい」
「引きずるよ。いつまでも引きずるよ。私、今この世界で、人生の中で、一番スティーブンが好きだよ。こわいけど」
目を閉じている彼女には、黙って枕になってやる副官の表情は見えなかった。
やがて寝息に変わるころ、スティーブンは教えてやった。
「君のそれは、錯覚なんだよ」
けれど病院に到着し、点滴を打たれて眠る彼女を見下ろして、彼は気をつけて手を伸ばした。
額に触れる。汗で張り付いた髪を指で梳いてみる。
奇妙な心地だったので、彼は「うーん」と酸っぱい顔をした。
0730