06


ソファでぐったり寝ていた私に影が覆いかぶさる。
背中の傷がかさぶたになり、そろそろ治るかなと思えるあたりになって、ようやく家主が帰宅した。
瞼にかかる光量の変化で目を覚まし、起き上がる前に身体の上のカーディガンを押さえる。今日はヴェデッドさんの手を煩わせるまでもなく、部屋の椅子にひっかけていたこれを背中にのせて寝たのだ。
こちらの顔を見下ろしたスティーブンは、私が目を開けたのを確認して、ジャケットを脱いだ。ばさりとソファの背もたれにかける。しわになるんじゃ、と洗濯やスーツに縁のない私が心配するほど雑な動きだ。
何日くらい会っていないんだっけ、と思い出す。今日は帰れない、という内容の電話は律儀に毎日かかってきていたので、数えると、初めの夜から続けて3日。ずっと職場に缶詰だったのか、別の女性の部屋で羽を休めたのか。どちらにしても毎日体力が回復していたようには見えない。
「おかえりなさい」
「うん」
「徹夜?」
「うん」
「ずっと?」
「うん」
この通り、返事にも工夫がない。動いて喋って食べるだけの居候なので『もっと私に構ってよ!』などという文句はもちろん言えない。言うつもりにもならなかった。ずっと徹夜だった社会人に鞭打つなんて酷過ぎだ。
「明日からまた戻って来なくなる。ヴェデッドには君の世話を任せておくから、いつも通り、外に出ないでここに居てくれ」
「最近、外に出かけたい気持ちがむくむくと湧いてきたんですけど」
人の要求としては当然で、スティーブンにしてみればかなりのワガママを言った私は、衣擦れの音の中で答えを待った。
スティーブンは閉じられたカーテンの隙間から外を覗く。夜の街は、昼間とは類を異なる陽気さと闇を抱いて、眠らない。
たっぷり1分かけて、彼は私の望む答えを出した。
「今度、僕が休みのときに」
「やった!ありがとう!」
週休2日。そんな制度が夢のまた夢である職場だとはわからなかった。秘密組織に有給休暇はあるのだろうか。
希望を抱いた私は、もうシャワーも浴びて着替えも済ませていたので、カーディガンを抱えて「おやすみなさい」とスティーブンに笑顔を向けた。ブロンド美人だったころとは大違いなれど、できるだけ可愛い笑顔を目指した。
「……もしかして君、ここで寝ながら僕を待ってたのか?」
「どっちって答えたほうがグッとくる?」
面倒だなという本音と疲労は、私のものより数段上の笑顔で隠された。
「曖昧に微笑んで部屋に戻るのが正解。おやすみ」
言外に『去れ』と言われた気がしたので、それ以上は絡まず引っ込んだ。経験豊富なイケメンの琴線は大人びたところにある。
本当にそれが正解なのかは、よくわからない。

ヴェデッドさんに料理を教わったり、無理やり肩を揉んでみたり(……スティーブンにやれば喜びそうだと言ってくれたけど、たぶん二度と近づけなくなる)、クロスワードパズルのヒントをもらったり。
日々は平穏に過ぎてゆく。私は相変わらず不自由な生活だったけど、はたから見れば何より自由に思えるだろう。何もしなくてもレベルの高い衣食住が確約されているのだから。
寝る前にはファンタジー小説を読むのが習慣になった。英語やスラングに不慣れで、必死に読み込むうちに眠くなる。時々訪れる不眠の気配は、難解な大人向けファンタジー小説によって解消されつつあった。
しかし微睡みを不定期に邪魔するのが、謎の痛みである。謎の痛みの正体は判明している。確かめたことはないが、時間と位置を考えれば一目瞭然だ。純真無垢な未成年ではないのでイライラする。他人の身体に知らない夜の痕跡を残さないでいただきたい。軽い引っかき傷くらいなら共有されないのだから、女のほうも爪を切れ。そしてスティーブンは寝ろ。
切々と願う夜は、ひたすら英語に打ち込んだ。

来るはずのない有給休暇はいつかと期待し、どんなことをしようか空想の計画を練る。テレビのニュースで街並みが映り込むたび、こんな物騒な街で暮らせるかと吐き捨てる自分と、何でもいいから外に出たいと望む自分の戦いが起こる。勝負はまだつかない。
そして背中は痛かった。

2日連続で、今度は腕に爪が立てられた(……らしい!)ので、ただでさえ短い気が立ち、堪忍袋の緒が切れた。
一週間ぶりに帰宅したスティーブンをヴェデッドさんとともに迎え、にこやかに食事する間、ひたすら自分に言い聞かせる。ヴェデッドさんがいるうちはダメだ。初めて彼女の上がりの時間を待ちわびた。
けれど、「そうでした」とファンタジー小説の下巻を渡されて毒気を抜かれる。彼女の気遣いと心配りは本当に嬉しく、怒ってるのってバカみたいだなと冷静になれた。本を胸の前に持ち、心からの笑顔で「気をつけて」と手を振った。
「ヴェデッドから?」
「あ、うん。私が暇だって言ってたら、買ってくれたみたいで。ごめんなさい、言い忘れてた」
「そうか。そのうち何か返さなきゃな」
「クロスワードパズルももらった」
「楽しい?」
「うん。難しいけど。人間、暇だと何でもやる気になるね」
冷静になってみると、さっきまでの怒りがどの方向に向いていたのかさっぱり不明だ。傷が痛いことに怒ってたのか、彼がどっかの恋人とデートしたことに怒ってたのか、眠れないことに怒ってたのか、様々な要素が絡み合うのでどれが本題か見えづらい。あのまま怒りをぶつけられていたら、彼はハタチのヒステリーにうんざりしただろう。余計家に寄り付かなくなるかもしれない。ここは彼の家なのに。
それはまずい。
とはいえ、痛いのは嫌だ。しかしスティーブンを『爪を立てられないようにして』と責め立てるのも如何なものか。痛いのは彼も同じなのだ。私のときと同じように仕事のひとつなのかもしれない。さらにその夜がもしも恋人との幸せなひと時なら、つけられた傷さえ愛しくてヤバくって、それを不本意ながら共有してしまっている私のことが疎ましいのでは!?
お水を持つ手が震えた。それについては疎まれても私は悪くないとしか言えない。そしてスティーブンも悪くない。
「僕は寝る。明日は朝食をとらずに出るよ」
「あ、はい。……おやすみなさい」
私も寝よう。リビングの電気を消す。暗闇の中に影がふたつ佇む。
「あの、あのですね……」
なんと言うべきか。
「いつも大変そうだから、……言われなくてもだと思うけど、帰ってきたときくらいはゆっくり寝て、ね」
彼は何事か黙って考え、自分の身体を見た。
「疲れてるように見えるかい?」
「……う、うーん、見えるといえば見える、ような?あなたの仕事って、朝から晩まで体力勝負だもんなって……思っただけ」
何を言っても墓穴につながる。
スティーブンが一歩、二歩とこちらに歩み寄り、そのぶんだけ私は後ずさった。後ろめたい怒りを抱えていたので素直に接近を喜べないし、以前に感じた生命の危機の戦慄がまざまざと蘇って身がすくむ。
彼は私の二の腕を強く握りしめた。引っかき傷のある部分だ。パジャマの布と生身の傷が擦れるうえに、握られるので余計に痛い。
「痛い!地味に!」
「ああ……、忘れてたよ。これも含まれるのか」
「忘れてたの!?」
こんな重要なことを、と続ける前に、彼はイケメンらしいことを言った。
「こういうのには慣れてるからなあ」
無言で納得した。
「急に何かと思ったら、こういうことか。ついたときは驚いただろ」
「私ならもっとうまく爪を立てると思った」
「あはは。君のそういうところは好きだったよ」
「過去形!!」
手が離れる。
「手当ては必要?」
「平気です」
「そう。じゃあおやすみ。悪いが僕にはどうにもできない。気をつけはするが、君も慣れてくれ」
「出ましたわイケメンの無茶振り。でもわかりました。みんなちゃんと爪を切ればいいのにね。私はネイルしたいから切らないけど」
パパに頼めばネイルサロンの真似事もしてもらえたものだから、ヘルサレムズ・ロットでも爪いじりの楽しさに目覚め、そのまま生活の邪魔にならないようにやすりだけかけて伸ばしている。
「君のそういうところは好きだよ」
「やったあありがとう、でも過去形……、……え!?幻聴!?」
掴まれたパジャマのしわと面食らった私を残し、思わせぶりなプロのテクニシャンは寝室に消えた。
「すごいなあ……」
女性はあんな彼に喜んで扱われたがったり、駆け引きを楽しんだりするのか。頭脳戦の領域だ。私も真似事をしてみたが、きっとあんなのはおままごとだったのだろう。



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