05


昨晩の苦痛が嘘のように元気になった私は、スティーブンにはつらつと「おはよう」と言った。スティーブンもいつも通りの表情で「おはよう」と言う。目は合うし社交的な笑顔もあるのに日に日に対応が雑になってはいないか。理由はわかるようなわからないような。ここは彼の自宅だ。そろそろ私を動いて喋ってお金のかかる観葉植物と思わないと気持ちが落ち着かないのだろう。生活スペースに他人がいるというのはかなりのストレスだ。ごめんなさいと言うしかない。
「昨日は迷惑かけてごめんなさい。おかげで楽になりました」
「顔色でわかるよ」
「元気がないほうが静かでいい?」
ちょっと返事が遅かった。沈黙が何よりの答えだ。そしてそれを上書きするようなイケメンの笑顔。一連のこれがわざとだとしたら、彼はかなり人心掌握に長けている。知っていたけど改めて感動した。
「これ、渡しておくよ。ないと不便だろ」
「あ!ケータイ!私の?」
「そう、君から預かったやつ。少しいじらせてもらったけど、機能はあまり変わらない」
「いじったの」
「通信の部分を。誰からも電話がかかってくるアテはないだろ?通常の使用では何の問題もないよ」
パパから支給されていた携帯端末は、知らない物体になって戻ってきた。
話はそれで終わったらしい。
耳でテレビの音を聞き、目では新聞を読む。マルチタスクな男は目も離さずにマグカップの位置を探り当て、こくりとひと口飲んだ。慣れた動きだ。
私もパンケーキとスクランブルエッグ、グリーンサラダを食べる。余計なものに触らなければキッチンに入っていいよと許可が下りたのでお水は自分でくんできた。食べ終わった食器だって下げられる。ヴェデッドさんは私たちのビミョーな関係を何も知らないので、にこにこして、私がホットミルクをつくる間にちょっとした『旦那さま』の話をしてくれた。好きな料理は何だとか、とても穏やかな人だとか、たまにお友だちを呼んでパーティーをするのだとか。パーティーとは、またものすごいスケールだ。キッチンだけを取ってもこの広さ。家全体を見ても何の問題もないのだろう。パーティーはパジャマパーティー、クリスマスパーティーくらいしか縁がなかった私は訳知り顔で「パーティーね。やりそうですね!」と相槌を打った。
「旦那さまとはどちらで?」
「えっと……、サ……サブウェイ」
「まあ」
「ウンメイ的な出会いで……」
「それは素晴らしいことですわ!」
お互いの運命を変える大変ヤバイ出会いだったわけだ。
ホットミルクができたのでそそくさとキッチンを出てテレビの前に行く。
入れ替わるようにイケメンが立ち上がった。
「もう行くの?」
「仕事があるんだ」
「ふーん……」
秘密組織の秘密な仕事だ。
気にもならないし、追及しても得はないので、カップを置いて玄関まで見送る。エプロンで手を拭いたヴェデッドさんに「じゃあ、いつも通り頼むよ」と言いつけて、彼はドアを閉めた。「いってらっしゃい」には手が一度振られただけだった。何気ない仕草すら洗練され、様になる。
さて、暇な1日が始まった。
キッチンの片付けは簡単に教わったので、できるところだけ任せてもらう。掃除洗濯は明らかに私が触ってはいけない領域なので『やらせて!』とは間違っても言えない。信頼関係のあるヴェデッドさんだから許されるのだ。自分をパパに置き換えて考えるのは精神的なダメージが大きかったが、パパに私物を触られるのはどう考えてもNGだ。わかりやすいイメージである。

ヴェデッドさんがクリーニングにかけられたスーツなどの衣類を整理するのを眺め、手持ち無沙汰にカップを口に運ぶ。することがないと肩身が狭い。
朝の仕事を終えたヴェデッドさんは、私に2冊の本を差し出した。
クロスワードパズルの雑誌。それから、表紙からファンタジーの匂いが漂う分厚い本だった。
「どうぞ、使ってくださいな」
「え、ええ!?わざわざ買ってくれたんですか!……買ってくださったんですか!」
「旦那さまから、この街に来たのは最近で、あまり外のことにお詳しくないと聞いたものですから。せめて暇つぶしになるといいのですけど」
「ありがとうございます!」
見るからに英語だったが贅沢は言えない。言葉が通じているだけありがたいのだ。
「あの、でも、私……、今、無一文で。お金を返せなくて」
「そんなこと、気にしないでくださいな。私、本当に嬉しいんですわ。旦那さまに大切な方ができて」
この純朴な家政婦さんを騙している心の痛みが、発泡スチロールよりも吹き飛びやすい罪悪感を刺激した。
ここまで言われてはもう食い下がれない。手持ちが何もないのだから、食い下がったところでどうしようもない。できるだけ深々と丁寧に頭を下げた。
そんなヴェデッドさんはそれからすぐに一旦上がってしまい、私はまたひとりになる。
だが、しばらくは暇つぶしに困らなそうだ。何かできるようになったら絶対にお返しをしようと決めて、客間の机にクロスワードを広げる。えんぴつかシャーペンがないか探したが見つからなかった。仕方なくボールペンを使う。ミスできない。
ページには知らない英単語がたくさんあった。ただ忘れただけの可能性もある。あんなに勉強したのにケータイの辞書機能を使わないと解けなくて、なけなしのプライドが傷ついた。この調子では、枕元に鎮座するファンタジー小説の読解もままなるまい。
目標ができたのは良いことだ。いくつかマスを埋める。時間はあっという間にお昼を迎え、用意された昼食を食べがてらテレビを見ると、どこかの過激派と機動隊のようなものがぶつかり合っていた。ヘルサレムズ・ロットは今日も物騒だ。対照的に、昼食はとてもおいしかった。

パズルに熱中していた私は、聞きなれないメロディーに顔を上げた。ベッドの上に投げてあったスマートフォンから流れる音楽は、有名なピアノの曲だ。そういえばこんなものを着信音にしていたっけと椅子から立ち、画面を見る。普段はバイブレーションだったから忘れていた。
電話をかけてきたのはスティーブンだった。夕日は落ち、かすかに肌寒い。カーディガンを紙袋から出しつつ、指をスライドさせる。
「もしもし」
肩と耳でケータイを挟む。カーディガンを羽織った。
明瞭な通信状態。スティーブンの声の合間に、電話の向こうの喧騒も伝わってきた。街中の音ではない。ならこれは、秘密組織の秘密なメンバーの会話なのだろう。
「あの、聞こえてるけど、大丈夫?」
「ん?ああ……」
彼はきっとイケメンな動きで電話を耳から離した。
「ザップ、それから少年。少し声を落としてくれ。悪いな、ちょっと電波の問題でここから動けないんだ」
「あ、すみません!もう、ザップさん!うるさいんですよ!」
「オメーの声のがデケエだろーがよ!」
私は震えた。知らない声を聞いてしまったことに。
「あ、あわわ私は何も聞いてません、聞いてないです、殺さないで」
「ははは、君を殺すわけがないじゃないか」
「ヒイッ」
頭ではわかっていても心がついていかない。ベッドのそばでうろうろ動き回って気持ちを落ち着ける。
こちらの動揺とおののきは充分に伝わったようだった。
「えっと、電波の問題って?」
「適当に言っただけ。君が彼らを知っているのか知りたくてね」
「はあ、なるほど……。あの、知らないです。私、アニメ興味なくて、声とか全然」
「君は何に興味があるのかな」
「えっ、な、なんだろう。……あっ!あー!スティーブン!スティーブンに興味あります!」
「懲りないな、君。……電話をかけた理由なんだけど」
電話の向こうの騒がしさはやまない。スティーブンが「うるさい」と言ってすぐに悲鳴が聞こえた。
「僕、今日は戻らないから。そういう日もあるけど慣れてくれ。職場には直で行く」
「はあ、わかりました」
仕事が長引くか、飲み会か、プチ出張か。秘密組織ともなると超多忙なのだな。
私には頷く以外のどの反応も思いつかなかった。
話はそれで終了した。あっさり電話が切れ、静音が戻る。分厚い窓ガラスは外の音をあまり通さない。
ベッドに腰掛ける。軋まないスプリングは安定して気持ちいい。
「帰って来ないのかあ」
ヴェデッドさんにも連絡は行っているんだろうか。私のご飯はどうなるんだろう、と自分勝手な心配をしてしまう。
その心配は無駄なものだと、10分後にわかったけど。

ヴェデッドさんに、スティーブンが帰らないことを伝えると、彼女は心得たと微笑んだ。
「でしたら、お夕食と朝のお食事をご用意しておきますね」
「ありがとうございます。何かお手伝いできることはありますか?」
「いいえ、ゆっくり座っていてくださいな。リクエストはありますか?」
「えっ!いいんですか?じゃあお肉が食べたいです」
「お肉ですね」
「あっ、……できれば……ヘルシーな……その……」
「はい?」
「ダイエット……的な」
あらまあ、とつぶらな目が丸くなる。居たたまれない。とても。だけど大事な問題だ。あのおいしすぎる食事を毎日続けて、頭も身体も使わずに生活していたら確実に太る。
私の危惧は伝わった。ヴェデッドさんは微笑ましそうに目を細め、何度か頷いてくれた。
「では、今日から旦那さまには秘密で、美容にいいものをご用意しますね」
ヴェデッドさんの両手をつかんで拝みたかった。『旦那さま』に内緒にしてくれるところにも気遣いが滲み出る。
つくり方を見ていつか真似しよう、と料理もしないくせにキッチンの隅からヴェデッドさんの手際を見つめた。

夕食のときは、ヴェデッドさんが話し相手になってくれた。ヴェデッドさんもとても話し上手で、何の事情も知らないうえに私の存在を好意的に受け入れてくれていると思うと楽しくて、いつまでも話していたかった。
それでもいつかは終わりがくる。食べ終わり、片付けもふたりで済ませると、彼女は彼女の生活に戻っていった。
ひとりになると、部屋の広さが気に障る。あのイケメンはひとりでこんな家にいて何をしているのか。……仕事か。よくはわからないが、ロックのお酒を片手に書類を読む、だとか、そのあたりの姿しか浮かばない。色っぽいんでしょうね、どうせ。理由のわからない敗北感が私を襲った。私の切ないおつむはイケメンの色気には勝てない。
シャワーで色々な気持ちを流す。シャンプーたちは相変わらず、面倒だがいちいち紙袋から出す。うっかり置き忘れがないか、シャワーの気持ちよさですっからかんになった視界での確認は一仕事だ。
お客さん用のパジャマに着替える。もう数日着ているので慣れたものだ。
明かりをつけてクロスワードをする気にもなれない。
そういえばここに住む(……住まわせていただく!)ようになってから、ひとりの夜を過ごすのは初めてだ。人の気配を感じる能力はなくても、誰かがいるという事実は人を落ち着かせる。影響力は大きかった。逆に私が彼に与えているのは不安感と不快感なのかと思うと枕にどこまでも沈み込みそうになる。
シーツの上でまるまり、手探りでケータイを手繰り寄せる。インターネットでも見ようと電源を入れた。光った画面の時計は23時を過ぎていた。
そのときだった。
「いっ、……た」
背中にひりつく痛みが走った。
前触れも何もない。切り傷というよりは火傷のような痛みだ。
何もした覚えがないので、「いたたた」とうめいて起き上がる。パジャマの下に手を突っ込んで背中を触ると、おかしな具合に傷ができていた。
上だけ脱いで鏡の前に走る。うまく見えなかったのでケータイのカメラを使って写真を撮った。
背中に数本の筋ができていた。
「……スティーブン?」
私でないならスティーブンだ。左手の傷がそうだったように、この傷も彼から移ったに違いない。
「なんだこれ」
困惑した声が出る。
疑問は私の天才的な頭脳により解かれた。
傷の形。
夜遅い時間。
背中。
帰宅しないスティーブン。
「……しっぽりいってる!!」
今日はそういう日でしたか!!
どうやらヘルサレムズ・ロットのどこか綺麗な場所で眠れない夜を過ごしているようだ。おかげで関係のない私の背中がひりついて仕方ない。
情報を得るためか、真実の愛の下の行為か。前者であれと願ってしまうのは、ノーミソペラペラな私の浅ましさだ。こんな好みで好きな男に本命がいたら諦めきれなさと嫉妬でハンカチを噛みちぎってしまいそうである。どこまでも恩知らず、かつ身の程知らず。それが私というハタチの女だった。でも、熟したアイドルに恋人がいてゴールインしたら一度は荒れない?私の考えは間違っている?
思考が混迷し始めたので、パジャマをひっかぶって毛布にもぐりこんだ。自分の思い出と重ね合わせて、勝手に頭がイメージをつくる。どこまでも思い通りにならないポンコツめ、と唇を噛んだ。
きっとこの論理的思考に収まりきらないゴチャゴチャな感情が面倒だから、私の恋愛はいつもつまらないところで終わっていたのだろう。その深淵に踏み込んでひとり不毛にジェラシーを募らせてしまうのは。
「……イケメンは罪だ」
一目惚れには嘘がつけない。
目を瞑ったが数日ぶりにまったく眠れず、私は朝までひたすらケータイでソリティアに勤しんだ。




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