04


私の世界はとても狭い。
狭い、けど。
狭いなりにできることはないかなと思い、ヴェデッドさんに訊いてみた。パパからの庇護とパパからのお小遣いに頼りきりで自堕落な生活を送った私にしてみると、大いなる進歩である。

1ミリも眠れなかったので、当然スティーブンよりも早起きし、朝日が昇るとほぼ同時に起き上がった私は、ヴェデッドさんがやって来てスティーブンが起き上がってくるのを待った。ガチャリとドアが開く気配を察知し私も外に出る。顔を合わせて初めて彼に「おはよー」と言ってから、洗顔もメイクもしていないことを思い出して死にたくなった。彼はまったく気にせず「早いんだな」と猛烈に意外そうな顔で言った。私もそう思う。こんなに早いことはたぶん、もう二度とない。
身だしなみを整えるころには朝食の用意が終盤に入る。キッチンに立ち入って毒殺を疑われるのも嫌だし、邪魔になるだろうと思い、音のするほうを見ないようにして開けた部屋に行く。
スティーブンは私に遅れて、お水を持ってやってきた。私に渡してくれる。なんて優しいんだ、と株は天井知らずだ。自分はコーヒーを飲むらしい。
ひげもそり、髪もとかし、シャツもちゃんと身につけたスティーブンはやはりイケメンだった。じっと見つめると、マグカップを口元に当てたまま目だけで用件を訊ねられた。しかし何も用事はない。イケメンを眺めるのは私のような女子のたしなみかつ、癒しなのだ。だってヘルサレムズ・ロットって、とんでもないんだもん。

昨夜のディナーも素晴らしかったが、朝食も絶品だった。アボカドとえびのサンドイッチがたまらにゃい。これは太る。太らないスティーブンが異常だ。
それにしてもおいしすぎるのだが、このアボカドとえびは人界のものだろうか。異界の謎な球体と不可思議な甲殻類だったらちょっとショックだ。
お皿を綺麗にさらってしまい、下げるくらいはしようかどうしようかとおろおろしていたら、ヴェデッドさんが手際よくテーブルを片付けてくれた。堕落しそうだった。
昼間はスティーブンが仕事に出るので家は空になる。ヴェデッドさんも掃除洗濯などの家事を終えたら戻るそうなので、その間、私はひとりだ。
「これを渡しておくから、どんなときでもつけておいてくれ」
「……あ、ありがとう……?」
箱を開けてみると、ブレスレットがあった。箱からして指輪かなと思ったが違う。当たり前だ。
宝石によく似たガラスか。キラキラする飾りを透かす。小さな小さなハートを模した繊細な台座に赤色の石が嵌り、細身のチェーンは光に当てるときらりとした。
「可愛い!!こういうの好き!ありがとう!」
感謝を述べると、彼は「だと思ったよ」とパーフェクトな分析結果を確かめるようにこちらに手を伸ばした。「どっちでもいいけど」と左右の手を指差す。
「つけておいて」
「は、……はい」
それじゃあ、と背中に『デキるオトナ』と書かれていそうなぴしりとしたスーツのイケメンを見送ると、途端に緊張が解けた。
ブレスレットを手首につける。プレゼントかあ。なんでだろう。ただのプレゼントじゃないのかな。まさか爆弾。いやいや、違うか。自分の首を絞めてどうする。
「ヴェデッドさん、自分の洗濯物はどうしたらいいですか?」
「任せてくだされば、旦那さまのものと同じようにさせていただきますわ」
「お世話になりっぱなしじゃないですか?」
「あら、まあ、でもそれがお仕事ですから。お気になさらなくていいんですよ」
「でもその……なんていうか……」
私がお給金を払ってるわけじゃないんだし、というのは飲み込んだ。
ひとり食い扶持が増えるだけで負担は変わる。それもその人が、自分では言いたくないけど事実上のニートだとしたら。家計には何もテイクがないし、ずっと家にいるのだから電気代や光熱費、水道代もがつんと増えるだろう。
パパからのお小遣いも、ホテルに置き去りだ。もし手元にあったとしても、それを渡すのもなにかおかしい気がした。私が稼いだお金ではあるのだが、なんだろう、……ボロ過ぎて……。
金銭面では確実に返すことができない。そのうえヴェデッドさんの仕事をも増やす。これは、人として、どうなんだ?飼い殺し?いや、飼われ自殺?
脳みそがショート寸前の私を見て、ヴェデッドさんは頬に手を当てた。ふたりして困った顔をしてしまう。
「でしたら……、そうですわね……」
「無理ならいいんです。困らせるつもりじゃなかったんです」
「わかっていますよ。そうですね、時々、少しだけケーキを焼いたりだとか、そういったことをするときに、お手伝いをお願いするかもしれません」
かなり無理をして搾り出してくれた。
情けなさに脱力する。ありがとうございます、と言った声はか細かった。

左団扇で生活するのも、暇つぶしがないと困難だ。テレビを見るのも飽きるし、外の景色は雑多で異様で面白いけど、あまり窓に近寄るなと言われている。なぜだろう。うっかり死ぬことを想定されているのだろうか。異世界人ならどんなありえない死因も現実味を帯びる。
ヴェデッドさんも仕事を終えて家を去り、暇がマックスに達する。客間のベッドに寝転がり、寝不足のぶんを補えないかと昼寝に挑戦したが無理だった。どうしても眠れない。広すぎる部屋のせいではなさそうだ。パパから与えられた部屋もベッドも、もう少し幅があった。
こぢんまりとした机に向かう。ノートとペンがあったので、適当に日記をつけることにした。客間にあるということは使ってもいいものなのだろう。ダメだったら怒られよう。
思えば濃密すぎる毎日だ。顔が変わったり風営法で捕まりそうなグレーゾーンな仕事に励んだり、職場(……みたいなところ)がリアルに瓦解したり、逃亡生活に失敗したり。あの逃亡生活の間にスティーブンがひどい怪我を負っていたら、私は謎の痛みと出血と苦しみに見舞われなければならなかったのか。恐ろしいことだ。お互いに無事で本当に何よりだ。
ヘルサレムズ・ロットの食事はおいしい。私が食べてきたものが特別においしいのかもしれないが、狂った食文化は私の味覚に近かった。ツノコオロギのソテーだよと言って虫の丸焼きを出されたときは錯乱してお皿を叩き落としてしまったが、その程度。私は虫は無理だ。最強のイケメンに差し出されたら吐き気をこらえて口にするかもしれないが、直後席を立ってトイレで吐く。でも、意外にもおいしかったらどうしよう。そのときは虫食にハマるのだろうか。おぞましい想像である。
街を歩くのは危険だ。けれど、建物の中で安全に、植物のように息を潜めている限りは無事に過ごせる。誰とも衝突せず周りに合わせる術なら小中高大の十数年と合コンで学んだ。おかげさまでデートで困ったことはない。『顔面がなければ』とかなんとか言われたが、日本の人間の美的感覚と異界人の美醜の判断は異なる。そう信じたい。
絶世の美女に変身できたのは楽しい体験だった。鏡の中の自分は信じられないほど艶やかだったし、人の視線も集めた。アクセサリーはなんでも似合った。メイクなんていらなかった。
今は軽く面倒だけど、と頬杖をつく。あまり字が綺麗ではないのは、性格か、指に怪我をしているからか。
触れた頬は素肌だが、家の中とはいってもすっぴんではいづらい。イケメンがいるのだ。心躍ると同時に億劫でもある。
どんなに取り繕ったところで所詮は『呪いの人形』レベルの認識でしかない悲しみは忘れよう。優しい思い出を胸に生きていくのだ。後ろを見る人生なんて楽しくない。
窓の外はあいにくの曇天だった。
カーテンを閉め、リビングに戻る。テレビをつけて、朝のお水の残りを飲んだ。ところでこのお水、どこでおかわりしたらいいんだろう。

目を開けて初めて、目を閉じていたことに気がつく。
「あれ……、寝てた……」
部屋は薄暗い。身体から毛布が滑り落ちた。起き上がると、カーテンが閉まり、間接照明だけが灯っているとわかる。暗闇に目を凝らして時計を見る。時間はかなり遅かった。ヴェデッドさんは仕事を上がったのか、家には誰の気配もない。
頭をソファの肘置きに戻す。いつの間にかずるずると背もたれを滑り、ここを枕にしていた。寝心地の良いソファだ。
昨日あんなに眠れなかったのは、ここでの昼寝が効いていたからか。それにしてはまだ身体が重い。まさか相手の疲労まで共有するのではないだろう。あんな毎日くたくたになっていそうな人の疲れのおこぼれに預かっていては身がもたない。これまでそんなことはなかったので、ただ単に私が気疲れしているだけだ。
毛布にくるまって、また目を閉じる。誰も帰らない。静かな部屋だ。時計の秒針の音もしない。ぬるぬると這うように動く。
喉は渇いていたが、水に手を伸ばす気力はなかった。
お気楽な脳みそには、オーバーワークだ。

物音がして、目が覚めた。今度はすっきりする。うんと伸びをすると、毛布が床に落ちた。私は何度やっても学ばない。
廊下の電気がつき、家主が見えた。
「おかえりなさい」
「また寝てたのかい?そこで寝ると風邪ひくよ」
迷惑、と続きそうだったので笑って誤魔化す。続かないとわかってはいるが、これも被害妄想か。順調に人間不信に陥りつつある。
「けどちょうどいい。君に買ってきたものがあるんだ」
「え?」
今日はよくものをもらう日だ。手首に引っかかるブレスレットといい、プレゼントの大盤振る舞いじゃないか。
スティーブンは白い箱をテーブルに置いた。開けてごらん、と促され、シールをはがして組み立て式の箱を開ける。形からの予測通り、中身はケーキだった。
「すごいおいしそう!」
「帰りに買ってきたんだ。昨日は手荒な真似をしたから、お詫びにね」
「へえー、やっぱりスティーブンって優しいんだね」
アフターケアが手厚い。これがモテる男の必須スキルか。今までにあまりされたことがないので、何度目かになるがコロリと2回転、転がりそうだった。半分傾いたままだ。
ひとつしかないが、食べていいのか。
「僕はそれほど食欲がないから、ヴェデッドの夕食で手いっぱいだよ」
「そうなの?少食だ」
「たまにね。君はもう食べた?」
「まだ」
「じゃあケーキは後だな」
冷蔵庫の料理をあたためにいったスティーブンは、思ったよりも少ない量の夕食を並べた。昨日の豪勢さに比べると、本当に軽食といった感じだ。
「夜も遅いし、君はケーキもある。あまり食べると胃もたれするよ」
「なるほど、それもそうだ」
先読みができる賢い大人だ。私は寝起きの空腹に任せていくらでも食べられる気がしたが、スティーブンの言に従ってテーブルについた。見れば深夜も深夜だし、本来なら彼は食べずに眠っているのではないだろうか。もしかして、私に付き合ってくれている?
そう思うと胸があたたかくなる。重ねて言うが、お荷物へのアフターケアが手厚い。
スティーブンは話し上手で、沈黙をうまく扱いながら、不自由にならない程度に口を開く。それは私がケーキに取り掛かるときも同じで、「胃薬だよ」と言って錠剤を飲んだ彼は、自分の仕事の話には一切触れない巧みさで私から私の世界についての情報を吸い出した。この手腕に翻弄されるのは二度目なのでうっすら感知できたが、私の家族構成などは大した役に立たないだろうから躊躇なく話す。
ケーキのクリームが甘くてしみる。
「ケーキ、おいしい!おいしすぎる!」
ここで声の音量を抑えることを思い出した。
「どこに売ってるの?有名なお店なの?」
「うん、たまに行く公園の近くにね。それなりに有名なんじゃないかな。気に入ったならまた買って来ようか」
「え、いいの?やっ、……たー、じゃなかった。いえ、いいです。お気遣いなく」
「いらないならいいよ」
「う……。……この場合、『欲しい』って言うのと『悪いから遠慮するわ』って言うのならどっちが好感度高い?」
「答えを聞くのはずるいだろ?」
「じゃあ欲しい……」
「そう。いつか買って来るよ」
どちらにしても永遠に買ってこなさそうだった。

ケーキを食べ終わり、片付けも済み(……なんと食洗機の使い方を教わった!)、スティーブンがシャワーを浴びているときだった。
胃がひどく痛い。
胃もたれを起こしたか、胸やけの重いバージョンか。加えて、クーラーもつけず猛暑日に昼寝をして起こした熱中症の症状に似ためまいと、視界の眩み。与えられた客間で、もらったブレスレットの飾りの裏に刻印されたブランドのマークを読み取ろうと目を皿にしていたときだった。
ベッドから落ちるように降り、吐き気に導かれるまま廊下を伝ってトイレに駆け込む。八割がた這いずるように移動した私の耳に、ずいぶん前から止まっていたありもしないシャワーの水音がこだまする。幻聴まで聞こえるとは、胃もたれって侮れないな。冷静な部分でそんなふうに考えながら、かろうじてドアを閉めた。

死ぬわこれ、と思うほど吐いた。人生でこんなに吐いたことない!すごい!感動すら覚える。
ぜいぜい言いながら震える手で健全な乙女に似合わないブツを流し、口元をペーパーで拭いて、まだチカチカする視界のなか、もしかして何かにあたったか、と疑惑を深める。ヴェデッドさんの料理に間違いがあるはずがないとこの2日で深く信頼しているので、当てはまるのならケーキか水だ。ケーキには保冷剤がついていた。ケーキでもなさそうだ。
と、なると。
水にあたるとキツイと聞いた。朝から常温で放置した水を飲んだのがいけなかったのかもしれない。
どこか具合の悪そうな、しかしそれでも崩れないイケメンが気配なく現れて、廊下で崩れ落ちている私の背をさすった。
彼の手は信じられないほど冷えていた。
私の手と同じように。
「大丈夫かい?」
「ごめ、喋れない、ごめんなさい、あいのことばは、あした、にして」
彼は私を客間に寝かせ、水を取りに行き、何かの錠剤をくれた。胃薬のたぐいかなと思い飲むと、スティーブンは具合が悪そうな顔色で言った。首筋にじっとりと、私と同じように汗が滲んでいたのは、真っ暗な部屋では見えなかった。
「君は素直だ」
「は、あ」
「あまり、人を信じ過ぎないほうがいいよ」
甘ったるい、以前の夢の続きでも見ているのかと間違えそうな手つきで、一瞬だけ額に触れられた。それはおそらく私の瞼を下ろさせる動きの一環だったのだろうが、私はとてもびっくりして吐き気を忘れてしまった。
「薬を飲んだだろ?……眠ればすぐに治る」
「そ、そうなのか。薬、ありがとう」
ヘルサレムズ・ロットの胃薬は効き目が良さそうだ。
心なしか楽になった気がして、私は目を閉じた。脂汗は気持ち悪かったが、シャワーに打たれる余裕も体力もない。明日の朝にしようと決めて、人が出て行く気配を追う。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
パパと交わすよりもずっと楽しい挨拶をすると、鉛のように重い身体はそのまま夢へと沈んでいこうとする。

信じ過ぎないほうがいい。
どういう意味なのか、夢と現実の狭間で考える。
スティーブンは頭のいい人である。
私は彼の荷物である。
荷物を切り離す努力は、必要なことだ。
どうすれば切り離せるのか実験するのも、また。

スティーブンが私のように、口元を押さえてトイレに入り、吐き気をこらえた音は聞こえなかった。



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