03
見るからに立派な建屋。その敷居を乗り越え、引きずられ、息を詰めた私は、分厚い扉の奥に投げ入れられた。実際はもっと丁寧だったけど、心情的にはもう、突き飛ばされたといってもいい。辺りを見回すのも怖いほどぴかぴかだ。パパからもらった部屋よりも片付いていて(……それは片付けなかった私が悪い?)清潔で、ほのかに嗅いだことのあるスティーブンの匂いがした。
あんなにも行ってみたかった想い人の家に突入できたらしいのに、心はびくびくするばかりで躍らない。それもこれも、酷薄すぎる目で私を見下ろす彼のせいである。腕はいまだ掴まれたまま。
「俺が帰るまでここで待機しているんだ。電子機器、通信機器は預からせてもらう。カバンも」
「は」
「それから絶対に、外に出るな。テラスにもだ。窓にも近寄るな。俺の部屋にも入らないでくれ。トイレはそこで、テレビはテーブルの上にリモコンがあるから好きに見ていい」
「えっ」
「絶対に、出るな」
「で、出たらどうなるの?」
「君が死ぬかもしれない。言っただろう、異世界人の寿命はバカみたいに短い。何が起こるかわからないんだ。そして君が死ぬと、俺まで巻き込まれる可能性がある」
あまりのことに何も言えない。車の中での脅しが単なるポーズだったとも気づかない。
かろうじて弱々しい声が出せた。
「じゃ、じゃあそばにいて守ってよ」
それがお互いにとって一番いいことなのではないか。一心同体モドキなのなら、そのあたりが妥当なのでは?
そう言うと、スティーブンはまた時計を見て、手早く部屋の奥に向かい何かをしてから、キャベツを切るよりざっくりと言った。
「そうしたい気持ちもなくはないが、『会社』に君を連れて行くわけにはいかない。あまりにも唐突だ。たとえば、恋人を紹介するなんて言ったらおかしいだろ?」
「こ、恋人」
「例えだよ」
「はい」
そんな乙女を惑わす例えは使わないでもらいたい。
一通り家の使い方を教わった私は、とにかく『触ってはいけないもの』を頭に叩き込んだ。触ってはいけないものはかなり多く、許される行動はテレビを見ることくらいなのでは、と思わなくもなかったが、自堕落な生活は大得意だ。こくりと頷けば、スティーブンは私を欠片も信用していないのだろうなあとわかる笑顔を浮かべて私の頭を軽く撫でた。私のような未練タラタラでいかにも『惚れてます!』というふうな女と別れるときの癖なのかもしれない。彼の正体を知り、心の奥底、脳みその芯から怖がらされたので、初めの頃より恋慕の情は薄れているものの、まだスティーブンの言動に反応するゲンキンな部分は活動している。思わず頬を熱くした私を置いて、スティーブンは午後の勤務に出かけていく。
「あっ、あの」
背中に声をかけたのは、私が誰かにしてきたり、誰かにされてきたりした経験から学んだ習慣があるからだった。
怪訝そうに、肩越しに振り返った彼に言う。
「い、いってらっしゃい」
スティーブンは何秒か黙ってから、「ああ」とだけ言ってドアを閉めた。新婚っぽいなと勝手に思って勝手にドキドキする。やっぱり私の頭脳というやつは根っこからスカスカにできているようだった。
広い家に取り残された私にできること。
トイレとリビング以外には行ってはいけないらしい。そりゃそうか、とひとりごちる。私だってパパに私室をうろつかれたら嫌な気持ちになる。どんなに利害が一致していてもプライベートは別だ。恋人同士でもないのだし、当たり前である。
ふかふかそうなソファは意外にも硬めだった。拍子抜けしたが、このくらいのほうが座りやすいのかもしれない。低反発と高反発では低反発寄り。しかし身体はしっかり支えられる。もしかするとソファベッドになるのか。変形させられないか試してみたかったけど、絶対に元に戻せないのでやめた。
言われた通りテーブルの上にあったリモコンを操作する。テレビのチャンネルはたくさんある。絶えず番組が流れるので、ぼうっと見られる恋愛ドラマを選んだ。ありきたりな男女関係がドロドロにこじれ、最終的に抱擁で終わるものだ。私はもっと爽やかで安心感のある恋愛がしたい。スリルはちょっぴり、罪悪感はスパイス程度で。
音を流して首をめぐらせる。整えられた部屋だ。整い過ぎだと感じるほどに。生活感はあるし、趣味だってなんとなく窺える。それなのにどこか落ち着かない。知らない家だからか、あまりにも広いからか。何人くらい入るのかな。計算しようとしてやめた。
家のドアは固く閉ざされる。一度出たら二度と戻れない。鍵もないし、それに。
致命的に何かを失う。諦めと強制から生まれたものだとしても、何度か付き合って向けられた表情が。完璧につくられたイケメンの下にある、今だからこそわかる色。こいつホントにチョロいな。そのような感情が。
それはとてもつらかった。
今や私を知る人はスティーブンしかいないからか?それとも色恋を引きずっているのか?人から見放されることが嫌なのか。
どれにしたってつらいものはつらい。そしてつらいなら、やりたくない。
だから玄関から目を離し、面白くないチャンネルを回した。素直に言うことを聞くとしよう。
ソファが沈んだ気配を感じて目を開ける。やばいっ、寝てた。どこからどう見ても寝てた。実に寝心地の良いソファだった。このちょうどいい硬さがたまらない。
起き上がると、身体から毛布がずれて床に落ちた。遠くでは食欲をそそる匂いが漂う。
ここどこだ、とわずかに迷って思い出す。人の家なのに信じられないほどリラックスしてしまった。パパに拾われたその日から安眠できていた図太さがここにも表れたか。
振り返った先には、すらりとした体躯。スーツのジャケットを取り去り、シャツのボタンを緩める姿は実に眼福。色気たっぷりな姿にしばし見惚れる。
「おかえりなさい……?」
「かなり寝てたみたいだけど、疲れてたのかい?」
「は、あ。……疲れてたかも……?」
主にあなたのせいで。いや、自業自得なのか?
喉の渇きに気がつく。
「……水……」
寝ていたから余計に喉がからからになったみたいだった。
要求すると、スティーブンは首を傾げた。
「飲んでなかったのか?」
「テレビとトイレ以外触ったらぶち殺すって言った!!」
「そこまでは言ってないよ」
「どこにあるかわかんないし!」
「それもそうだな」
立ち上がった彼の後ろ姿を見て、疲れてるのかな、と感じた。椅子か何かに座りっぱなしで、シャツの背中にしわが寄っていたからかもしれない。ああいった姿は見たことがなかった。見ようとしていなかった。
これは、隙を見せたということか?私が刺客ならこの時点でチョチョイのチョイなのでは。
もちろん漫画に出てくるほどつよーい存在を私がどうにかできるわけがない。するつもりもないので、スティーブンが誰かと言葉を交わして戻ってくるのをただ待っていた。彼の手にはお水のボトルとグラスがあった。直飲みをしないのはセレブだからかな。セレブなのかは知らないが。
もらったお水を遠慮なく飲む。グラスはひとつだし、私が全部飲んでも問題なさそうだ。
一息つくと、さっきずり落ちた毛布が気になった。
「これ、スティーブンがかけてくれたの?」
惚れ直そうかなと考えたのがわかったようで、彼はキッチンがあるほうを指差した。あ、家の探索すら怖くてできなかった私がそこにキッチンがあると知ったのは後のことで、この時は何があるのかわからなかった。
「ミセス・ヴェデッドがかけたらしい。家政婦だよ」
「家政婦……」
か、金持ち。パパのところにもメイドや執事みたいな人はいたけど、ここまで手厚くなかった。優しいんだなあ、と心が温まる。人のぬくもりっていいね。
「お礼言わなきゃ」
「今は食事の準備で忙しいから、後にしたほうがいい」
「食事の準備!……家政婦だから?」
「そう」
付けっ放しで寝てしまったはずのテレビは、スティーブンが付け直すまで真っ暗になっていた。ミセスナントカという人が消してくれたに違いない。私の眠りの邪魔にならないようにしたのか、電気代を気にしたのかはわからないけど、とにかく気配りのできる人だ。素晴らしすぎる。
ザッピングしてすぐに電源を落としてしまうと、スティーブンは横目で寝乱れた寝汚い私を見た。そういえば顔も洗ってないや。急に恥ずかしくなって顔を手で覆う。なぜそんなことをしたのかもまるっとお見通しで、「今さらだろ」と言われた。日付が変わる前には必ず別れていた私たち。何度も重ね(……ていただい)た逢瀬の中には、人肌のあたたかさにすっかり安心してぐうぐうとひたすら眠った夜もある。情けなすぎて枕を殴るしかなかった。そのときは彼と涙の別れも交わせなかったし、ただお酒を飲んで調子こいてペラペラ喋っただけで終わってしまったものだから。そういうことは何回かあった。鋼鉄のバカさを誇る私も、多少は心に負担がかかっていたのだ。きっとそう。寝汚いのではなく。
この超多忙らしいイケメンがお間抜けなハタチの愚か者の寝顔に興味があったとはさらさら思えないが、まあ同じ部屋ですかすか寝ていれば目にも入るものだろう。ああ恥ずかしい。埋もれたい。
「意識してるかしてないかが肝心なのです。あのときは美人だったからまだしも!今は特に!」
「ああそう」
「すっごくどうでも良さそう!」
ところでなぜ様子を見られたのだろう。
言われた通り何にもしてないのに、と理不尽な不満を感じる。
まあ、疑いたくなる気持ちはよくわかる。私だって自分の寝室にパパが忍び込んでベッドにマーキングされてたらサイアクだなって嫌な想像をしてワガママ言ってベッドシーツを替えてもらったことあるし。私物を盗まれていないかとか、誰かに情報を流されていないかとか、そういうのが心配なんだろう。
「本当に、スティーブン恋しさに寝室に忍び込んでベッドにダイブしたりしてないです!」
比較的汚物を見るような目が向けられた(……比較的……?)。隠そうともしないところがオツなのか。私にそんな趣味はないから怖いだけだ。
「し、してないです」
「知ってるよ」
「なんで知ってるの?」
「鍵がかかってるから」
「鍵付き!?」
思春期の私が部屋のドアに鍵をつけて欲しくて両親と対立したのが嘘みたいに、デフォルトで鍵がついているそうだ。なんという贅沢さ。鍵の管理が大変そうだ。
「いつも持ってるの?なくしたらどうするの?」
「開ける方法はいくらでもあるよ。君が知らないだけで」
「も、もしかしたら知ってるかも。完璧に開けて、完璧に色んなところの匂いを嗅いで、完璧に閉じたのかも」
「面倒だから言うけど、入ればわかるようになってる」
「せ、セキュリティ……」
圧倒されまくりだ。私の家とはスケールが違う。戸建4LDKでなぜかトイレがふたつついているくせに部屋に鍵のひとつもなかった私の家とは。
カチャカチャと食器がこすれ合う音が鳴る。
エプロンをつけた異界の人が丁寧にテーブルを整えていた。
まさか家政婦さんが異界人とは思っていなかったので面食らったが、スティーブンに釣られてテーブルに向かってこれまた驚いた。なんておいしそうなんだ。こんな料理を毎日食べていたら、巷の『お料理上手』をアピールする女たちの手づくりご飯など茶番にしか見えないに違いない。そしてどうしてこれを夜に食べてて太らないんだろう。そういう意味でもすごいなあ、この人。
「あ、あの」
慌てて家政婦さんを呼び止める。温和に私と目を合わせた彼女は、「あら」とおっとりした声で私を歓迎した。
「お風邪など引かれませんでしたか?」
「大丈夫です。あの、毛布をかけてくれてありがとうございました」
「私が勝手にしたことですから」
限りなく『普通』の対応にじんとした。
「びっくりしましたよね、私が寝こけてて」
「ええ、少し。ですが少し嬉しかったですわ」
「嬉しい?」
ふふふ、と穏やか極まりない声音が爆弾を投下した。
「旦那さまがご自宅に女性の方をひとりでお招きになることなんて、私の知る限りでは今までにありませんでしたから」
それも留守を任せるなんて、とどこか子供を見守るような表情だ。これにはスティーブンも額に手を寄せた。
「ヴェデッド、……あー、そうだな、少し違うんだが……」
「あら、違うんですか?それは申し訳ありません」
何事か結論を出し、彼は首を振った。
「……いや、うん、違わないな」
「ふぁ!?」
「彼女は僕の大切な人だ。しばらく家に置くことになるので、よろしく頼むよ」
「はい、かしこまりました」
かしこまられてしまった私は流れで席を勧められた。この状態では私もスティーブンも何も言えない。というかそもそもスティーブンはそのつもりだったようで、家政婦さんがキッチンに戻っているうちにワインを開けた。私のほうから注いでくれたのはサービスなのかマナーなのか染み付いてしまった習慣なのか単にそういう性格なのか、わからないけど重ね重ねいい人だ。
「た、大切な人って」
「嘘はついてない。君に何かあると僕にも何かがある。大切だろ」
「……そうですね」
当たり前だし期待なんてしてなかったけど、切ない。
スティーブンが私に感じるちょっとした忌々しさと面倒さは、私にはあまり実感できていなかった。私が傷つくと、同じように彼も傷つく。なるほどそうなのかもしれない。だから私は彼に害を及ぼさないために、悠々自適な監禁生活を送る。
居そうだから、部下とかに護衛を任せて監視するくらいにすればいいのに。私の考えをまなこから理解するのは容易いようで、スティーブンはお魚を切り分けて口に運んだ。咀嚼してから言う。
「僕はここに帰ってくるし、そのたびにいちいち君を移動させるのはリスクが高い。できるだけ手元に置いておきたいんだ。なにせ君はいつ死ぬかわからないからな」
「異世界人ですみません」
肩をすくめる仕草が『本当にね』と語った気がした。
「ああ、ヴェデッド。片付けは自分でするから、もう上がっていいよ」
「そうですか?では、調味料の詰め替えを終えたらそういたしますね」
「いつもありがとう」
「とんでもありませんわ」
ヴェデッド、と私も頭に名前を刻み込む。これからたぶん絶対にお世話になるのだから、憶えていないと失礼だ。パパの名前すら記憶にない私にしてはかなり気を遣った。好きな人の関係者だから、などという邪な理由が挟まっていないことを祈る。
会話は途切れ、ヴェデッドさんが扉を閉じるまで、私たちは黙ってパンをむしった。どれも絶品だった。
「この食事、毎日食べてたら太りそう」
「動いて頭を使えば太らないよ」
「わかってるますよ!」
それが簡単にできれば、ダイエット食品などというものは存在しないのだ。この世界にもあるのかな、飲むとお腹が膨れるジュースとか、空腹がおさまるクッキーとか。夏に向けてダイエットしたときにはお世話になったものだ。ちなみに私には向いてなくて、筋トレとジョギングと食事制限の定番コースに落ち着いた。大学で同じ授業を取っていた子が「1日400kcalしかとらない生活をひと月続けたら10kg落ちたよ!」と嬉々として報告してくれたのは、いざとなったら使うつもりだ。
片付けはすべてスティーブンが行った。私は皿を運べば割ると見られているのか、家の中を動かれたくないのか、座っているように言い渡された。グラスに残るワインをちまちま飲んで待つ。
すると、突然手に痛みが走った。
「っぎゃあ!」
可愛げのない悲鳴を飲み込み、取り落としそうになったグラスを急いでテーブルにのせる。左手の中指にぱっくりと切り傷ができていた。血がツツツと手のひらに垂れる。
「な、な、え!?かまいたち!?」
「思った通り、か」
「何が!?」
洗い物の水音はいつの間にか止み、スティーブンが私に近づく。不自然に持ち上げられた左手から血が流れて見えた。
思わず自分と見比べる。
「……えっ……」
第六感が私に訴えかけた。理解不能な事態に陥ったとき、人は笑ってしまうのだなと知った。
「うそでしょ」
「嘘なら良かったんだが」
「逆もあるの」
「ないほうがおかしいと言うべきだ」
意図的につけられた傷。この家なら、キッチンに刃物なんて売るほどありそうだ。すっぱり切れてむずがゆい。
「い、痛い」
「僕もだよ」
「痛そうな顔して」
「どうやってするんだったか忘れた」
「ひい……」
嘘か本当かダークなジョークか、日頃戦いに明け暮れるからそうなるんだ。痛い顔はつくるものじゃない。
戦い。
そのキーワードが光って消えた。
この人は危険な組織で危険な敵と戦う危険な毎日を送る人だ。毎日でなくても、かなりの頻度で前線に出る。漫画ではよく戦ってた。戦う漫画だもんね。
戦い。
こんな切り傷なんてメじゃない。もっとこう、刺されたり爆発したりするんじゃないか。
身体がガタガタ震えるのは気のせいか。
「あ、あ、あなたの脚が千切れたら私の脚も千切れるの?」
「そうなるんじゃないかな」
「……や」
血が服に飛ぶのも忘れて立ち上がった。椅子が倒れかけた。スティーブンからできるだけ距離を取る。
「い、いやだあー!!」
ラグに足を引っ掛けてすっ転んで腰とお尻が死ぬほど痛かったけど気にせず後ずさる。左手を床につかなかったのは、なけなしの理性が働いたからだ。
「やだあ!絶対にやだ!ぜっ、たい、に、いやだ!!」
「そんな状況、僕だって勘弁して欲しいよ」
「い、いやだ!!」
「落ち着いてくれ」
「ぜっ、ぜ、ぜ、ぜっ」
スティーブンが一歩近づくたびに必死で逃げる。逃げたところでどうにもならない。でも理屈じゃ納得できず、恐慌から抜け出せない。
「切れ方が良ければ脚はくっつく」
「……私の脚はどうなるの!?」
「……生えてくるんじゃないかな」
「いやだああー!!」
血が飛び散る、と思ったのか、拒絶のために前に突き出した左手が強く掴まれた。びくともしない。逃げられなくなり、今日は捕まってばっかりだ、と頭の隅っこが囁いた。
引っ張り上げられ、立ち上がる。
恐ろしい想像に半ば泣き喚いたのが効いたか、椅子に座らされる頃には少し落ち着いていた。
自分で手当てしろと絆創膏でも投げられるかと思いきや、彼は私の知る通りの紳士だった。ティッシュで血を拭くと、ちゃきちゃき手当てしてくれる。そりゃそうだ、あなたがつけたんだから。……と思ったが、私の手を見下ろす顔が疲れて見えたので罪悪感が湧いた。彼の手にも傷がついているのに、優先してもらって悪いな、などと血迷ったことを考えてしまう。この傷についてはたぶんきっと、確実に彼のせいなのに。
「あの、自分でやろうか」
「もう終わるからいいよ」
「じゃあ私があなたのをやろうか」
「自分でやったほうが早い」
「ご、ごもっとも」
私は人の手当てなんてしたことがない。
彼の血はいつの間にか止まっていた。
「さっき尻餅をついていたけど、腰は痛くなかったのかい?」
そういえば痛かった。言われてみると今も痛い。
「……ということは、『傷』じゃなければあまり影響はないのか」
「……えーと、スティーブンは、それは痛くないの?」
「ああ」
「よかった……の、かなあ」
「良かったよ。君が転ぶたびに僕まで打ち身をつくるのはひどく面倒だ」
「た、確かに」
私もスティーブンが敵にぶっ飛ばされるたびに痛いんじゃ、たまったものではない。ぶっ飛ばされそうにはないけど、そんなときもなくはないだろう。
傷さえできなければ影響はゼロ。でも、どちらかが死ぬともう片方も死ぬ可能性が高い。こればかりは試してみるわけにもいかないから推論だけど、間違ってはいない気がする。最低の赤い糸でつながってしまったと、今さらだけど身にしみて理解できた。
「せめてもっと美人だったら守る気にも力が入ったのに、なんか顔面整形が戻っちゃってごめんなさい!私は悪くないけど!」
「君、よくそれを言うけど気にしてるのかい?」
「パパに『顔面がなければなあ』って言われたから、ヘルサレムズ・ロットではそんなものかなって。私は嫌いじゃないよ、自分の顔」
「そう。僕もどうでもいいからもうそのギャグはいいよ」
「ギャグ!?」
なんだかだんだんスティーブンの対応が雑になっている気がするのは私の頭が生み出す被害妄想か。
甘ったるかった言動を懐かしんで切なくなる私を無視し、スティーブンは「あ」と目を丸くした。
「しまったな。ヴェデッドに客間を整えてもらうのを忘れてた」
「客間とかあるんだ」
客間も広そうだ。これまで目にしたスティーブンの家のつくりから部屋の形をイメージする。ホテルみたいになっているのかも。バラの花びらが散らしてあれば最高の夜を演出できるのではないだろうか。
なぜ客間の話が、と頭を使ってひらめいた。
「私、このソファでいいよ。寝心地よかったし。あ、寝転んだらダメなら座って寝るよ」
「相手が男なら床に寝かせるんだが、さすがに君を相手にそうさせるわけにはいかない」
「さらに惚れてしまう」
「どうも」
「スティーブンの部屋で一緒に寝るのは?」
「正直に言うととても嫌だ」
「歯に衣着せぬ!」
話す間にも目の前の彼が疲労していくように見え、時計を探して視線を彷徨わせる。見つけたそれは22時を示していた。夕食も終えられたスティーブンにしては格別に早い帰宅だが、私にはまだそのことがわからない。
「まあ、いいか。客間は僕がやるよ」
ただ私の感覚で、寝かせなくては!と焦った。パパもこの時間にひざまくらを要求してきた。『普通』の寝る時間が近いのだ。
「今日は私はソファ!スティーブンは部屋!それで、早くお風呂に入って寝ないと!」
「は?」
「サラリーマンはできるだけ早寝しなきゃじゃない?」
「準備したら寝るよ」
「いいよー、ソファでいいからー」
「風邪をひかれると困る。僕に影響があったらどうするんだい」
「た、確かに。そこまでは考えてなかった……」
すたすたと廊下の奥へ行き、ひとつのドアの向こうに消えたスティーブンは、数分で顔を出した。
「先にシャワー浴びていいよ」
「も、もっと色っぽく言って!」
「僕のサービスはタダじゃないんだ。風呂はそこ」
「情報を失った私の価値って……」
ゴネればゴネるほどスティーブンの睡眠時間が短くなりそうなので、お言葉に甘えてバスルームにお邪魔する。ワンピースを脱いだところで、「あー!」と声をあげた。小さかったので、外には聞こえなかったようだった。
私の荷物は私が泊まっていたホテルに置き去りだ。どうしよう。お気に入りのシャンプーもコンディショナーもボディソープもホテルのお風呂場に。替えの服も下着もない。
「……これは……」
よくない展開だ。
服を着なおし、廊下に出る。
「スティーブン!私、着替えとかシャンプーとか持ってない!」
「……ああ……」
小さじ1杯くらいの『もう少し声を小さくできないかな』みたいな感情が読み取れた。あんまり嫌われると精神衛生に良くない。気をつけよう。
すぐに差し出されたのは大きめの紙袋だった。
「なにこれ」
「預かったカバンにホテルの鍵があったから、取りに行かせた」
「……下着も?」
「入ってるんじゃないか?確認はしてないけど」
いったい誰が取りに行ったのか。部屋に踏み込まれたショックと着替えが手に入った安心から言葉を失い、私はすごすごとバスルームに足を戻したのだった。
こだわりのシャンプーたちを使い、知らない、かつ好きな人のお風呂場にドキドキしつつシャワーを浴びる。長風呂の性分なのでテキパキと動くことには不慣れだったが、なんとかうまくやれたのではないだろうか。シャンプーボトルたちは、棚に置こうとしてやめた。
今日1日、この家の持ち主を見ていて思ったのだ。私は好きな(……好きなのである)人の部屋に乗り込めてウハウハ、胸の桜が満開!といったところだが、あちらからしてみれば厄介極まりないお荷物だ。邪魔者だ。自宅になんて引き入れたくなかっただろう。これから毎日、私が留守番をするなどというのも最悪なはずだ。言いはしないが、言葉の端々と態度から滲み出ている。さすがに神経が死んでいると言われるほど鈍感な私もそれぐらいは察し取れる。
だとするなら、私の私物が彼の空間に増えていくのはよろしくない。
奇妙な繋がりで不幸にも(……私にとっては幸運か?いや、不運だ)運命を共にしなくてはならなそうになった私たちだったが、履き違えてはいけない。面白がる気持ちは左手の傷がすっかり消し去ってくれたが、心に残る一抹の期待とのぼせ上がる気持ちは厄介だ。ヴェデッドさんの言う通り、スティーブンの自宅で寝こけられたのが私だけだったとしても、それは彼にとっては完全に、人生で一番不幸なことだ。
うむ、面倒。
思い上がらないように気をつけよう。
ソープのボトルは丁寧に水気を拭き取り、元通り、紙袋に突っ込んだ。
洗濯くらいは許してもらえると助かるから、明日、ヴェデッドさんに訊いてみよう。
夜半過ぎまでは決して続かない逢引のあと、私はさっさと部屋を出ようとする彼にタラッタラの未練とかなりの悔しさと悲劇極まりない涙をのんで「いってらっしゃい」と言ってきた。
そんなスティーブンと『おやすみ』を言い交わすのは初めてで、非常に新婚っぽい喜びを感じた。
家主自ら整えたベッドに寝っ転がって天井を見る。安ホテルと違い、シミなどひとつもなかった。
左手が痛い。右手も痛い。
「……もしかするとだけど……」
私はこのとき、心底から不安になっていた。スティーブンの正体を嗅ぎ取ってしまったときよりも、ずっと。
「もしかするとだけど、……私、……帰りたい、かも」
くだらなくて難しすぎるテストと、つまらなくて退屈で興味のわかない娯楽のあふれる元の世界に。
極限に親不孝な娘は、ハタチなのに、ハタチだけど、その晩は一睡もできなかった。
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